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2011-10-16

東洋と西洋のはざまで

東洋医学寄りの先生の見立てによれば、ここ1ヶ月ほど悩まされている首の痛みは小腸に原因があるとのこと。根本的な解決法は、小腸に入った菌を体外に出すため、毎日水を2リットル飲むこと。これはこれで続けているのだけど、水を飲めば必ず出てくるとも言えないそうだし、その先生も忙しいので次の予約日は月末。では、小腸の問題解決を西洋医学にゆだねられないかと考えた。水を飲む以外に、その菌とやらを消滅させる手段はないものか。

しかし、これは危険な思いつきでもある。同じ状況なら多くの人が二の足を踏むのではないか。西洋医学と東洋医学は犬猿の仲という印象がある。特に西洋医学から東洋医学への眼差しは冷ややかそうなイメージだ。東洋医学の先生の見立てをもって西洋医学の先生を訪ねたら、ものすごい冷たい扱いを受ける恐れがある。それもまた偏見だが。

というわけで、少し躊躇して様子をみていたのだけど、そんなこと言っている場合でもない。月末まで保留にしておくわけにもいかないし、少しでも望みがあるなら、この体の持ち主としてできる限りのことをすべきだと思い、昨日ダメもとで胃腸科専門の病院を訪ねた。

一応頭では唖然とされることを想定していたが、それでも受付で「初診でお願いしたいのですが」「どんな症状で?」「いや、具体的な症状としては首の痛みなのですが、別のところで診てもらったら、首の痛みの原因が小腸にあると言われまして…」というやりとりに、受付の女性の怪訝な顔を目の当たりにして落ち込んだ。もっと良好な関係作りができるセリフを熟考して臨むべきだったか。

しばらく固まった後、受付の女性は「とりあえず保険証を…」と言い、私から保険証を受け取ると、何も言わず奥へ消えて行った。それもどうかと思ったが…。しばらくして、通常通り問診票のようなものを受け取り、記入して提出。その後2時間くらい、ひたすら待機。だいぶ無の境地に達したかというところで名前を呼ばれて診察室へ。

受付の女性以上に、ものの言い方に対策が必要なのが医師である。医師には、自分の専門であるところの西洋医学への誇りもあろうし、東洋医学へのなんらかの思いもあろう。でも別に、私は東洋医学の専門でもないし、それに傾倒しているわけでもない。盲目的に信じているわけでもないし、ただ一人の治りたい患者である。こちらに敵対意識をもたれてもまったく本質的でないので、私はできるだけそちらに向かわないよう気を配って話し出した。

1ヶ月前から首にむち打ちのような症状が出て、整形外科でみてもらったらこれこれ、東洋医学のほうで診てもらったらこれこれ、とにかくここ1ヶ月生活に大きく支障が出ている状況なので、私としては少しでも解決の望みがあるならその道の専門に診てもらいたいと思って来たのだと。

で結局まぁ、そんなまがいものの診断を真に受けて…みたいな展開になった。想定範囲内ではあったが、やっぱり実際に人の負の感情を患者の立場で受け取るのは、相当堪えるもんだなと、ぐっさりした気分に。ダメな整形外科、適当な東洋医学にかかるからいけないという感じ。「じゃあ、いい整形外科にかかれば治るということですか」と尋ねたら、「まぁそうだ」と返ってきた…。でもまぁ、先生には先生のいろんな思いがあるんだろう。とりあえず、ここでは胃腸は関係ないということだから、ここの病院は関係ないということになるなと診察室を失礼するつもりで「じゃあ、関係ないんですね…」と口にすると、「まぁ待ちなさい」と先生。

立ち上がって私の首根っこをつかまえ、小腸なんて関係ない、首が痛いのは首を痛めているからだとぐいぐい押し始め、「ここが痛いんでしょ、ここが悪いからだよ」とおっしゃる。続いて口にしたのは、「怖がることなんてない。ここを治せばいいんだから」と。捨て猫のような気分の私には、その言葉がずいぶん胸にささった。

ものを書きながら「小腸なんて関係ない」と言っているときの先生は、東洋医学に向き合ってそれをしゃべっているように思えたが、立ち上がって私の首を押しながら「怖がることなんてない。ここを治せばいいんだから」とおっしゃる先生は、私に向き合ってくれているように感じられたからだ。その後「また週明けいらっしゃい」と先生。あれ、そうなの?と意外に思ったが、そこで見放すわけにもいかなかったのかもしれない。

これ以上新しいお医者さんのところに行くつもりはないし、今まで得た情報の中で、自分なりに治療方法を統合しながらやっていこうと思う。少しましになってきている気もするし。というわけで、毎日2リットルの水を飲み続け、体を適度に動かして、来週は西洋医学の先生のところを再び訪れ、月末は東洋医学の先生のところで体をみてもらう。どれだけの情報収集をして、どう取捨選択して、どう治療方針を立てるかは、自分次第であり、自己責任なのだ。

帰り道に、中吊り広告で村上春樹のエッセイ「村上ラヂオ2」が出ているのを知り、近所の本屋で買って帰ってきた。その中の一つのお話。村上さんがアメリカの大学でクラスをもっていたとき、他クラスの女子学生が課題で書いた短編小説を読んでほしいともってきた。読んでみたら、比較的アドバイスしやすいもので、「説明的に流れる部分は冗長だが、そうではないところはけっこう生き生きしている」と批評したら、彼女は戸惑った顔をしたという。彼女のクラスの先生は、村上さんの褒めたところを批判し、批判したところを褒めた。村上さんは「創作というのはまあその程度のものなのだ」と書いている。

創作っていわれると、作品っぽいものをイメージするけれど、医療だってまぁ、どこに問題を置き、どういう問題解決策を導きだすかは、医師の創作活動みたいなところがあって、まぁ確固たるものなんてないんだよなぁと。極端なことを言っているかもしれないけど、そうだと思う。だからセカンドオピニオンとかがあるんだろうし。医師によって診断結果が違うのは、もちろん能力差による違いもあるだろうけど、タイプによる違いもあるんだろうなぁと。

アッシュさんの研究によれば、52人の患者を3人の精神科医がそれぞれ診断したところ、3人の診断が一致したのは約1/3、2人の診断が一致したのが約1/3、3人がばらばらの診断をしたのが約1/3だったという(「カウンセリングの技法」國分康孝著)。まぁどんな分野も、だよなぁと。月末には良くなっているといいなぁ。

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 デザインを教えていると学生から「あの先生と、この先生の言う事が違う。」という話をよく耳にする。 うちの娘もゼミのS教授と私の意見が違うので困るとよく言う。 面白いのは、そのS教授の娘さんもSFCのY先生のゼミ生で、やはり教師と親の意見が違って困ってるという話を聞いたことがある。ww まあ、娘の卒研に親が口を出すということ自体が問題なのかもしれないが、同じ分野が専門なのだから気になっちゃうんだもん。 私が好きでよく読んでいるhysmrkさんという方のブログに「東洋と西洋のはざまで」というエントリーが... [続きを読む]

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