女心と秋の空
結局痛みが返り咲いてしまった。がんがんに痛い。先が見えないというのは、ほんときついもので、そりゃ治らないという先が見えてもたまらないわけだけど、治る見込みが立たぬまま1ヶ月というのもきつい。さすがに張った気も一瞬切れてボロボロ涙が出てきた。
横になりながら世の中見渡せば、頭に思い浮かんでくるのは頑張っている人の顔、頑張りぬいた人の顔。Steve Jobs氏の顔が思い浮かんでは弱音を吐く気もしぼんでいく。とはいえ、自分の心にわいた感情は抑圧せずに認める、それがどんなものであれ目をそらさずじっくり観ては吟味するようにしているので、「お客さん、そうとう弱ってますなぁ」と覗き込み、とりあえず涙は出るままに流しておく。
カウンセラーとはしたたかなもので、泣いている間も、この痛みの感情がいつかの誰かの痛みを心から共感するときの種になるのだと、昆虫採集でもするように感情採集しているところがある。そうでも思わないとやりきれないという思いもあるのかもしれないが、あらゆる自分の感情体験はカウンセラーにとってかけがえない財産であるという思いがある。
Steve Jobs氏の伝説のスピーチ。
毎朝鏡をみて問いかけました。“今日が人生最後の日なら、今日することは自分がしたいことだろうか”。長い間答えがノーであるときはいつも、何かを変える必要があるとわかるのでした。
私はここ1ヶ月、今日することが「できるだけ安静にすること」続き。本当にしたいことが存分にできていない。でも、治ることに期待を寄せているので、安静にすることを選んできた。そうして1ヶ月も経ってしまった。いつまで安静にしている気だ、今日終わるかもしれない人生なのに。そういう捉え方だってあって、しかもこれだけ治らないでいると、ほんと自分の1ヶ月はただ怠惰に過ごしていただけのようにも感じられてくる。治るか治らないかわからないようなものなら、痛み止めでもなんでも飲んで、いけるところまで毎日必死に生きてみろ。そういう一所懸命だってある。でも私はまだ、そう遠くないうちに完治することに期待を寄せている。そこをあきらめたくなくて、結局安静な生活を選んでいる。痛みのぶり返しにため息をつきながら。
そんなこんなで涙を流していたら、はぁ、くやしかっただろうなぁ、Steve Jobsも、母も…と思い至った。私の何百倍も、私も何万倍も、くやしかっただろうなぁと思ったら、違う涙が出てきた。
ひとしきり流れるものを流したら、荒治療でもしたくなったか、橋本治さんの「青空人生相談所」に手が伸びた。相談に対するこの人の回答は、いやほんとに芸術的に痛い返しのオンパレードなのだけど、これがかなり効いた。私の今の困りごととは全然関係ない相談ごとへの返しだけど。(注意:健常的な精神状態でないときは読まないほうがいいと思う…)
そういう時期なんだから、しようがないでしょう。あなたも、あなたのご主人も、そういうことを歯をくいしばっても我慢しなきゃいけないんですよ。あなたの他に、誰がその赤ン坊育てられるんですか?いないでしょう?引っ越したばかりでまだ近所に慣れてないからって、それで文句言ってたってしようがないでしょう。現実がそうなんだから、それに慣れるしかないじゃない。子供ーしかも自分の生んだ子供が嫌いな母親なんて、ゴマンといます。自分の子供を一度も嫌ったことのない母親なんて、いる訳がありません。赤ン坊というのは、子供というのは、それほど厄介なものなんです。<自信がない>なんて逃げ口上は、笑われるだけですよ。あなたには、他人に向って<よろしくお願いします>なんて、言っている暇さえもないはずなんだから。 なりふり構わず、血相変えて赤ン坊を育てなさい!育児っていうのは、ホントはそういうことなんだから。子供を生んだばかりの動物の雌が気が立っているのは、実はそういうことなんですよ。たかだか五年の辛抱じゃないですか。「五年も!」なんて言わないで下さいね。そういうもんなんだから。どうせ今まで大した苦労なんかして来なかったんだろうから、「ああ、ホントにいい経験させてもらってる」って、神様に感謝でもした方がいいくらいなもんですよ。
水飲も。
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