言ってる円と、やってる円
朝方、ストーリーがある夢からぽんと跳んで、別の短い夢をみた。夢は時間をもたないというけれど、こちら時間で感覚するに10秒くらいの夢だ。
私は遠くまでずっと白い空間にいて、音はなかった。風もなかった。目の前に、小さく薄っぺらの四角い面が次々に現れては、奥に引き下がって消えて行くのを観ている。入れ替わり立ち替わり、そこそこサイズのそれが4〜5個たちのぼっては、手前から奥へとアニメーションして消えて行く。
その動きはまさに人が画面の中に再現したアニメーションの動き。重力をもち風が吹く現実世界では、あんな弾力感をもって計画的に動く浮遊物、そうそうお目にかかることがないのに、画面に展開されていると、これこそ自然っぽく感じられるのはなぜなんだろう。そもそも画面の中の人口世界のお話、という前提が了解されているからなんだろうか。
で、この四角い面はいったい何なんだろうと目を凝らしてみると、一つひとつはどうやらWebサイトの画面(キャプチャ)らしいとわかる。ははぁ、と素人頭で解釈を始める自分。
私は最近、人にデザイナーを紹介してくれないかと言われて思ったことがある。私、みんなの言ってることばかり知ってて、みんなのやってることをほとんど知らない。
いや、やっていることを知っている人もいる。もちろん知っていることなんてその人のごく一部ではあるけれど、少なくとも職業として人を紹介するのに十分な、その人が何をやり、何を成すかという情報。一緒にお仕事させていただいている方に関しては、こういうことを考えてものを作ってくれる人だとか、こういう問題解決やこういう場面設定で素晴らしいパフォーマンスを発揮する人だとか、そのパフォーマンスを引き出すためにはこういう配慮をするといい人だとか、いろいろ自分なりの情報はもっている。
人がやっていることを成果とプロセスに分ければ、特にプロセスなんて一緒に仕事をしてこそわかるもので、そういうことを知ってこそ人に紹介できるものだと思ってしまうので、なかなか紹介ができないのだけど…、そういうことは別に昔から変わらない。自分のもつ情報の質と量は、年々でみれば増えているとも思う。
だけど、気づけば以前に比べて「人が言っていること」に触れる時間がものすごく長くなっていて、自分の中にもつ「人がやっていること」情報と「人が言っていること」情報の比率が大きくバランスを変えていて、その変化に無自覚だったということなんだろう。それが、今回の「みんなの言ってることばかり知ってて、みんなのやってることをほとんど知らない」感を呼び起こしたんじゃないかなと思った。
毎日SNSにアクセスして情報摂取する時間が一定量割かれるようになって、知らぬ間に自分の中でイメージする「みんな」の属性が変わっていたということなのかもしれない。自分が知っている「みんな」は、何をやっているかを知っている人から、何を言っているかを知っている人へと、対象者の円を拡張させていたということかもしれない。
そう捉え直すなら、もともともっていた内側の円からより深みあるものを生み出していけるよう努め続けつつ、新たにできた大きい円にいる人たちとお話をしたりお仕事をしたりして、自分の中の内側の円を大きくしていけたら素敵かなと思う。
人の言っていることに触れる時間をもう少し減らして、人のやっていることに触れる時間を増やせたらいいのかな。加えてやっぱり、自分がやっている時間を大事にすることだろうな、とも。いまやすべての問いは1日24時間の使い方に帰結する感じ。世の中のサービスも、これの取り合いという様相。なんて、今朝の夢を振り返りつつ思いめぐらす。
ふだんほとんど夢をみることがない(憶えていない)のに、夢について本を読んだ後から急に夢をみる(憶えている)ようになって、人間ておもしろいなぁというか、私って単純だなぁと思う。まぁ、たいてい数分経つと忘れてしまうのだけど、憶えていようと思えばメモに取るくらいの時間は許されるようになった…(でも短い)。
ユングの本とか読んでいると、人の夢の解釈なんて素人ができるもんじゃないなとつくづく思うけれど、一方で自分の夢をネタに自分の無意識を探ってみるという思索は、朝のコーヒーのおともにも、お酒の肴にも悪くないな、とも思う。
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