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2011-08-19

傘革命について

風の強い雨の日には、きまって傘革命について考える。小学生だか中学生のときからずっと考え続けているのに、数十年経った今でもあいかわらず傘は遠い夏の日のままだ。左手にカバン、右手に傘をもち、強風にあおられれば日常これほどフルパワーを発揮する機会もなかろうという握力をふりしぼって持ち手を握りしめる。骨組みが裏返しにならないよう次の風をよみながら、今の風を交わし交わし歩みを進める。

傘の大革命はいつやってくるのだろうか。たぶん、傘メーカーはもう何十年も水面下で奮闘しているはずだ。社内では日夜革新的なアイディアの議論がなされ、試作品づくりに余念がないはずだ。しかし、なかなかメインストリームに躍り出てくるところまではなされず、今日に至っている。

もちろん生まれてこのかた、まったく未分化というわけじゃない。傘だって立派な成長を遂げてきている。初期でいえば、自動開閉ボタンの搭載、折りたたみ式の登場、大人用と子供用、男物と女物に男女兼用傘、レース付き/ドット柄/どこそこブランドとのコラボレーションで素敵なデザイン、雨傘と日傘に晴雨兼用傘、そう簡単には濡れない大きい傘、防水性/撥水性がすこぶる高い傘。

さらに成熟してくると、16本/24本骨とかグラスファイバー製とかいう強風対応傘、ビニールハウスが壊れる風でも大丈夫という風速20m/sに耐えたハリケーン耐風傘なんかもあって、堅牢性へのあくなき追究が垣間みられなくもない。

このほか、骨がアルミシャフトでできた軽量な傘とか、シルバーコーティングで暑い日差しもシャットアウト!な遮光性抜群の傘、紫外線から守るUVカット率99%傘、子どもの夜道も危なくない光る傘、さらには扇風機つきの涼がとれる傘なんかもあって、なんていうか、頑張っているのは痛いほど伝わってくる。

最も雄弁に、全身なめまわすように傘の素晴らしさを語っていたのは「暁(akatsuki)」か。「そこに1本あるだけで、人の目を引く美しい傘」ということで、その秘訣は黄金比。「雨の日も、心に雨は降らせない。」と締める。写真のどのシーンにも雨が降っていないけど、そこはご愛嬌。

対極に目をやると、駅に置き忘れても全然へっちゃら!というビニール傘も充実している。ビニール傘なんだけど、ちょっとおしゃれしたいという微妙な若者心をくすぐる色付き傘とか、ちょっと大人ぶりたい人向けの65cm長め傘。

とかあるんだけど、違う。そうじゃないんだ。もっと「これだー」という傘革命を期待しているのだ。とことん雨に濡れない、足下も安心。強風でも握力いらず、限りなく自由が守られる、というような。体が動くと自分の頭上をついてくる傘とか。少しだけ浮いているから髪型もくずれない!みたいな。

傘で解決しようという、そもそもの設定に無理があると言う人もいるだろう。確かにここ数十年で、世の中には地下道/地下街が発達したし、在宅勤務を許可する制度とか、自宅にいながらにして○○できるみたいなサービスも増えたし、そういう方向では雨に濡れない革命があちこちで起こっているのかもしれない。がしかし、「雨の日に外を移動する個人を、濡れないように守る」という傘のミッションは、いまだ傘のミッションとしてあり続けている。誰もまだ、それを奪っちゃいないのさ。まだまだ、きっと頑張れるはず。

2011-08-17

尺度が伸びた

6月半ばくらいから、自分の生きるスタンスのようなものが変わったなぁという印象をもっている。あるいは、以前よりはっきりしてきたなぁということなのかもしれない。今のスタンスを短くまとめれば「生きている間は、生きていこう。意味があるように、生きていこう」というもので、なんというか、生命力がないような、なくはないような…。でも、けっこう自分の今の自然体を正しく表しているなぁと思う。

私はだいたい自分や世の中のことをマクロとミクロと、あと2〜3個の視点であちこちから見てみるのを常としているのだけど、最近マクロでみるときの尺度ががばっと広がった。以前はばくっと「今の時代にとらわれず」「自分がいる場にとらわれず」に自分や世の中をとらえようという見方だったのだけど、最近650ページに及ぶ初心者向けの哲学史を読み終え、まぁその他いろいろ考える機会を経て、だいたい紀元前600年くらいから一通りの歴史をたどって今なり今後の自分なり世界なりをとらえるというのが基本の尺度になった。尺度が具体的になり、またそれがけっこう長い物差しで、いろんな哲学者の世界の捉え方も踏まえて、自分のことや身の周りのことを捉えるようになった(ミクロはミクロで、相変わらず体当たりで泣いたり笑ったり緊張したりを続けている)。

今年は1〜3月の間、だいぶ落ち着かない日々が流れ、3〜5月くらいは、けっこう一人で考え込んでいることが多かった気がするんだけど、6〜8月を振り返ると、なんだか人と話している時間が増えたなぁと思う。私は人と1対1なり、多くても3〜4人でじっくり話し込むほうが性にあっているのだけど、最近そういう機会が多くある。

まぁだいたい仕事がらみなのだけど、そもそも私が「意味があるように、生きていこう」というスタンスなので、自分が仕えたい案件の話を深堀りしながら、その人と意見を交換したり、そこから派生した思いや考え、おしゃべりをかわし合う時間は極上の時間だ。その一つひとつをとても有意義に感じるし、楽しいなぁ、幸せだなぁと感じる。

そしてまた、そういう人と深く話しこんでいるとそれが、以前と比べて自分のスタンスが変わっているのを実感する機会にもなる。やっぱり人とじっくり話をすると、自分のもやっと考えていること、思っていることが外在化されて、それによって自分を深く理解するってことがいろいろあるんだなぁと再認識する。そうして一つひとつの出会いに、お話しする一人ひとりに、じんわり感謝する。幸せだなぁと思う。地味で賞。

2011-08-11

カウンセラーとコーチ

カウンセリングとコーチングの違いって、けっこう説明するのが難しい。実際のところ、する側とされる側のコミュニケーション過程や、する側の役割やアプローチの仕方、求められる資質・能力には共通する要素も多分にあると思う。場面設定としても、相談する側の目の前には山があって、「目の前に山があるんです」という状態でやってくる。そういう人を専門性をもって支援する、という役割は同じだろう。

とはいえ、そこで使われる専門性の核心は別物であろうし、キャリアカウンセラーの立場からすると、私はコーチよりカウンセラーのほうがしっくりいくって思う。コーチの人もおそらく、カウンセラーよりコーチのほうがしっくりいくって思ってやっているんじゃないかな。でも「じゃあ、その差異って何?」って問われると、なかなか説明が難しいのだった。

それが、「あぁ、こんな感じか」ってすっきりしたのが先日のおしゃべり。元上司に、会わせたい人がいると声をかけられて、お会いした女性の一人がコーチご専門の方で、あれこれお話を伺っていたら、「カウンセリングは問題解決、コーチングは目標達成を支援する」って説明がしっくりいきそうだ、と腹に落ちた。

目標はあるけど、達成までの伴走者が欲しいとか、目標達成までのプロセスが曖昧で、その過程を専門的に支援してほしいとか。そういう場合は、どっちかといえばコーチが適任だろう。目標というよりは問題を抱えている状態、こういう問題があるとか、こういう悩みがあるとか、あるいは問題がこれだというのはないけれど、どうももやもやしたものを抱えているという場合は、どっちかといえばカウンセラーが適任と言えるのでは。

もちろん、目標達成と問題解決は、同じ事象を言い換えて表すこともできるし、となると言葉遊びのように感じられるかもしれない。けれど、私がカウンセラーとして個人的に感じるところは、実はだいぶ違うのだ。そのぶん、この問題解決か目標達成かという切り分けに、すごいすっきり感があった。

半分はおんなじことやっているような気もするんだけど、支援する者として相談者に向き合ったときの事象の捉え方が違う。私はやっぱり、相談者のもってきたものの「問題の本質」は何なのかを捉えようとする。コーチなら、その人の中に「具体的な目標」を見いだそうとするのが最初のセッションだろう。

ここにどんな違いが出てくるかというと、これはあくまで1カウンセラー視点での話だけど、私は「その相談者が語る問題」を吟味する。その相談者が語る問題は、本当にその相談者が問題だと思っているのか、それともそうは思っていないけれど私にそう話しているのか。本当にその相談者がそれが問題だと思っているとして、それは本当にその相談者の抱える問題の本質なのか、別のところに本質が隠れていないか。別のところに本質が隠れているのだとしたら、それはなぜ隠れているのか。気づく機会、あるいは能力がなかったのか。それとも本人が気づきたくないためか、だとしたら目を背けたい理由は何か。そこに視線をあわせて問題の本質に向き合うためには、どういう心理的な障壁を乗り越えなくてはいけないか。そういうことを模索しながら、問題の本質を特定していきつつ、手をとって本人と探っていける関係作りをしていく。

つまり、問題の核心を特定し、相談者としっかり握り合うところまでをいかに専門的に成し遂げられるかが、カウンセラーの重要な特殊能力じゃないかと思うのだ。もちろん、その後の問題解決までの道のりをともに歩むこともあるけれど、特に治療的カウンセリングでなく能力開発的カウンセリングの場合、会ってその日のうちに「今までこれが問題だと思っていたけど、そうじゃなかった。問題がはっきりした」と言って帰っていって、あとは自分で進めていっているという人が少なくないだろう。

これは私がその辺の工程を得意としているってだけかもしれないけれど、個人的には、けっこうこの問題の本質の特定と本人が本質を捉える支援をするってあたりが、貢献しどころの中心じゃないかなって気がしている。

一方のコーチっていうのは、目標設定までは比較的早い、前工程なんだと思う。もちろん個人差があるから、具体的な目標をもって来る人もいれば、目標設定からがっつりコーチがサポートするケースもあるだろう。目的を聞いてみると、目標がずれているのでは?っていう場合には、その辺の軌道修正から入るケースもあると思うけれど、ともあれ目標設定は支援のスタート地点。

コーチの本領発揮は、むしろここからだろう。目標を特定したところから、達成の道のりを伴走者として支援していくところの専門性が高いんじゃないかしら。だから、一定期間のおつきあいになることが多いんだと思う。いつまでに、どこどこに到達しましょうって目標を確認して、そのためにはいつまでに何をしてってマイルストーンを設定して、それをやっているかをみていったり、途中で困ったときに様々なアプローチで専門的支援をする。目標設定の支援も含むけど、それ以上に目標達成までの道のりを支援する過程がメインな感じ。

多分に個人的な見解がまじっているので、あくまで私が前工程を得意にしているだけって懸念もあるけれど、個人的にけっこうすっきりしたので、メモがてら。

2011-08-05

新盆前夜

母が亡くなって、初めてのお盆を迎える。去年は普通にお母さんいたのになぁと、ぽかんと思う。あんまり普通にいたから、どんなふうに昨夏を過ごしたかも思い出せない。子どもの頃からずっと、お盆といえば夏休みを意味していたのに、今年は文字どおりのお盆だ。

かなしみが薄れていくことが、くやしい。かなしみではない何かに、感情が移り変わっていくように感じられるのが、くやしい。今はいなくなったことより、そのくやしさで涙が出る。それもまた、くやしい。

母が亡くなった直後は、実家に帰ってくる度、遺影を前にぼろぼろ泣いていた。堰を切ったように涙があふれた。それが今は、あのときのどうしようもせき止めようのない感情が遠のいていっているのを感じる。それがくやしくて、涙が出てくる。くやしいなぁ、ちっぽけだなぁ、人間は…と思う。

いずれ生前の体温を、忘れてしまうのだろうか。笑顔もそのうち、自分の記憶からじゃなく写真をみて思い出すようになってしまうんじゃないか。そんなことが頭によぎって、ありえないことじゃないと思う自分にまた、くやし涙が出る。ちっぽけだなぁ、私は…と。

母の表情、母の姿は、私が終わるときまで、写真を見てじゃなくて、私の記憶から思い出し続けたい。失ったかなしみは背負ったままでいいから、母の記憶をそんなに遠のけないでねって祈る。どこかにもっていかないでねって祈る。結局こういう次元のことは、祈るくらいしか法がない。

自然の思うがままなんだな、私の中のほうまで全部、と思う。ちっぽけな人間が太刀打ちできないものに、逆らう気などわいてこないのが普段だけど、こればっかりはやっぱり、くやしさを味わう。この自分をわきまえて、最期まで生きていきたいと思う。

直観を形にする

提案書の書き方がかわってきた。気がついたら「直観を形にする」ようになっていた。直観を微調整に使うんじゃなくて、直観を提案全体の構造づくりに使うようになっていた、という感じ。

なかなか自分の直観を信じて提案の全体構造をつくるって危なっかしくてできない。私は無意識でいると直観人間だけど、提案仕事のときとかは意識的に、ロジックやら経験、実績、既存のリソースを総動員して全体構造を考えてきた、と思う。自分の直観頼りにやってはずして、お客さんの期待に応えられないでは困る。それを預けられるほどには、自分の直観を信じてこなかったってことなんだろう。臆病さの表れでもあったと思う。

それに、自分の直観をベースに提案の全体絵を描いて、それに納得感が得られたとしても、その全体絵を反映した具体的な企画に落とし込めるだけの力量がなければ、結局提案書を最後まで書ききれないから、道半ばで引き返し、他の安全パイで全体構造を書き直さざるをえなくなる。

だからこれまでを振り返ると、自分なりに毎度熟考して提案書を書いていたけれど、直観とともに、経験、ロジック、既存のリソースやノウハウ、いろんなものを総動員して、提案の幹や全体像をどこに置くのか練り、わわわーって書き散らかした後に整理をし、最終的な提案をひーこらまとめあげていた気がする。

それが、ここ数年いろんな研修案件をやってきて、ここ2〜3ヶ月は他の業務メインで研修案件から離れて…。その経験の積み重ねとひと呼吸が、何か吹っ切るのにちょうどよく働いたのかもしれない。

ここ1週間くらいでまた、一気に繁忙期を迎えて研修案件を並行で再開しだしているのだけど、お客さんからヒアリングしてきたものとにらめっこして、うーんって企画の全体像を考えていると、自分の直観が、こういうのが一番いいだろうってしゃべり出すのだ。それを手がキャッチして、紙に起こしだす。すると紙に起こされた企画の全体絵を、きちんと実のある企画に落とし込むべく、ロジックがフォローしだす。そんな主従逆転の感覚を覚える今日この頃。いや、そんなスマートにさらさら書けているわけじゃまったくないけど…。

ともかく、それをざざっと提案書のたたき台まで書き込んでいって、講師陣を訪ね歩きながら企画を精緻化したり、カリキュラムの構成を練り直したりする。直観が根幹になっている企画だから、とにかく自分がこの提案に必要だと思う講師には、臆病者ながら新しい方でも依頼しに出向いたりしている。

そうして講師が企画に参画くださって、自分の提案書をたたいてくれて、当初よりぐっといいものに仕上がると、直観がきちんとした形になる。それはもちろん自己評価で、自分の精一杯にすぎないわけだけど、それをお客さんに出して、お客さんからいいフィードバックが得られると、もうなんだか、わぁーって幸福感を感じる。もちろん、その後の納品が肝だからすぐ気を引き締めるけど。

なんというか、こういうふうにして、人の学習をサポートするために自分の直観で絵を描き、その道の専門家と膝つきあわせて中身づくりの議論を深め、直観をきちんとした形にするって、すごく生命力をもった活動だなぁってしみじみ幸いに思う。

もちろんここで言う直観って、これまでの経験とかロジックとかと密接に関連づいて働いている感じはあるんだけど。それに、数回そんな感覚を味わっただけで今後も継続できる保障もないんだけど、とにかく以前と比べて、研修の提案をする仕事の仕方が自分のなかで変わった感あるなぁって話でした。

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