プールの中で思うこと
私には「時計」を知らなかったときの記憶がある。いつまで知らなかったという境目の記憶はないのだが、あぁ、あの頃は時計ってものの存在を知らなかったなぁと振り返れる思い出がある。
幼少の頃、週末家族でスーパーへ買い物に行くと、子どもたちは母と一緒に食料品売り場をまわった。父はたいてい、食料品売り場一周が始まるところでふらりとどこかに消えていき、私たちがレジに並びだすか、レジを終えて買い物袋に買ったものを詰めているあたりでふらりと戻ってきた。それが常だった。
私にはそれが、言葉に表せない謎だったよなぁと、つい最近プールで泳いでいてふと思い浮かんだ。なんでそんなことがふわっとわき上がってくるのか、人間ておもしろいなぁと思う。そうして泳ぎ続けながらぼやーっと、あぁ、あのとき私は「時計」の存在を知らなかったんだなぁと思った。
父にしてみれば、20分なり30分なりの目安を心得ていて、その頃合いを見計らってレジ前に戻ってこようという「時計」を頭にもっていたのだろうけど、私には頭に「時計」がなかった。とにかくあの頃は、体感的な時間感覚だけで生きていた、というリアルな記憶がそこからよみがえる。
自分が「わからないこと」が何なのかを吟味する言葉の力も持ち合わせていなかったから、謎は謎のまま、私の意識の上にのぼることもなかった。ただ、父はちょうど良い頃合いにレジに戻ってくること、その理由は謎であること、ただいつも決まってそうなので、そこには何らかの確かな力が働いていることを無意識に了解していたのも事実だ。
そういう記憶を思い出すたび、子どもたちが言葉には表せない、自分で意識もしていないけれど、自らつかんで了解していることが、大人の計り知れないボリュームで存在しているんだろうなぁと思いをはせる。
学生時代だったか大人になってからか、そういうことがわかって、「子どもは言葉に発していることの何万倍か何億倍かの事実をつかんでいて、でも理由は謎めいていて、だけどそこには何らかの確かな力が働いていると無意識に了解している」ことを理解してつきあっていこうと思うようになった。別になにということはないけど、例えばプールではこんなことを思って泳いでいるというメモ。
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