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2011-07-31

三十路メンテ

同じ年頃の人たちが、自分の身体をどんなふうにメンテナンスしているのかというのは、最近ちょっと関心をもってきた事柄。というのも、私は自分の身体についてかなり無関心でやってきて、体調の変化とかも、ある程度進んでから、はっと身体に教えられて自覚するようなところがある。そういう人は少なくないと思うのだけど、まぁ歳も歳なので、そろそろそれなりに自分の身体を気遣ってあげないと(人並みになるという意味で)いけないのかなと思う次第。そうやって意識してみると、Twitterとか見ていても、みんなマッサージに行ったり、走ったり、ジム行ったり、いろいろケアしているんだなぁと興味深い。

で、ちょっと相談ごともあったので、先日とある漢方の先生のところに行ってきた。自分の身体についてゆっくり談義するというのもなかなかない体験で、ずいぶん丁寧に対応くださったので、気がついたら1時間半ほど話し込んでいた。

で、よくよく自分の身体について理解してみると、相当やわだなぁと情けなくなった。精神的にはけっこうタフなんだけど、歳をとると精神的な踏ん張りだけでどうにかなるものでもなくなってくるから、身体もしっかりしておかないと仕事をまっとうできなくなってきますわね。

まず低血圧。血圧低めとは自覚していたけれど、いわゆる「低血圧」に属すという認識はしっかりもっていなかったので、そうなんだ、と今回初めて自覚。なんだか、腕を横にのばした状態、上にあげた状態で脈をはかろうとすると、脈が打たないのでカウントできないのだとか。死にかけかと…。

そして貧血。これも、いわゆる「貧血」に属す数値にあるとは、生まれて初めて自覚。確かにサウナで倒れたり、お風呂あがりに倒れたり、健康診断の採血で気を失ったり…の過去はいくつか持っているものの、空腹時だったり、長湯したときだったり、恐怖におののいていたときだったり(採血)、それなりに特別感のある状況だったからだと思っていたのだけど、どうやら違ったらしい。全校集会で倒れたことなんて一度もなかったので(貧血といえばそのイメージ)、大人になってからなんだろう。

あと冷え性だったり、胃下垂の気があったり、そういえば歯もな、目もな、と挙げだしたらきりがない。でも、修理しだしたらきりがないし、きっと長年生きてくれば誰でもそんなもんなんだろうと勝手に思い込んでいるのだけど。

とりあえず60歳くらいまでは生きるのかなぁというイメージがあるので、あと25年間くらいは身体がもつよう多少は生活を見直していったほうがいいのかなぁと思ったり思わなかったりの今日この頃。

で、まず私は胃腸が弱くて、ご飯(お米)の消化能力をもちあわせていないようなので、最近はパン食中心にしてみている。あと、体温より低いものは身体が受け付けないようなので、食べ物はあったかいものか常温のものを。これはもともとそうしていて、アイスクリームとか冷たい食べ物は身体にこたえる自覚があったので、薦められてもいただかないようにしていたのだけど(子どもの頃ディズニーランドでアイス食べておなかこわして、パレードの前にみんなを巻き添えに撤退した暗い過去をもつ)。

油もの、お肉、欧米ものを避けるという指導も、まぁ普段から逆のほうを好んで食べていたから別段困らないような気がする。が、コンビニもの、スーパーものは避けなさいというご指導は、正直「じゃあ、私何を食べていったら…」という涙の終末観。

で、ちょぼちょぼ台所に立ったりしつつ、冷蔵庫も空っぽ状態(というか水のみ)から脱して何かが入るようにはなってきた。しかしお昼はなぁ、なかなかコンビニと縁をきれないので、大目に見ている。とにかく気合をいれて何かしようとすると、かえって長続きせずに終わるのが目に見えているので、ちょぼちょぼ生活改善中。

あと、23時には横になるとか、目を休めるとか、姿勢よくとか、いろいろやることがあって、なかなか。気合をいれず、しょぼしょぼ改善していこうと思う。運動は、そろそろ毎日やっていた習慣を取り戻さないとなぁ。

2011-07-28

SNSで「誰と」「どれだけ」つながるか

TwitterやFacebook、Google+なんかのSNSを使っていると、必ずといっていいほど遭遇するのが、「誰と」「どれだけ」つながるかの是か非か論争だ。論争というか無言の確執というか。

平たく言えば、「見知らぬ人と、できるだけたくさんつながっていたほうが楽しいじゃん!っていうか身内だけでつながっててもつまらなくない?SNSの価値を生かしきれてないよ、それ!」というのと、「面識のある人に限定していたって楽しいよ。むしろ私は、そうじゃないとしんどい。っていうか、見知らぬ人とたくさんつながっていて何が楽しいの?意味あんの、それ」というのと。

で、これには個人的に思うところがあって、つまり両方あるんだろう、人それぞれなんだろうというのが私なりに今結論しているところだ。

人が自らのエネルギーをどこで蓄え、あるいはどこに向かってエネルギーを発信していくことでより活力がわいてくるかというのには、「外向」と「内向」という2つの指向があるというふうにユングの理論では考えられていて、数々の研究実績もある。この指向というのは生来的なもので、成長過程で身につけたものではなく、もともとその人がもって生まれたものとされている。

つまり、外向指向の人は生まれながらにして、自分の皮膚より外側で起こっている出来事や人、物などからエネルギーを得たり、あるいは外に向かって自ら発信していくことで活力がわいてくる感じがする。

一方の内向指向の人は、自分の内側に関心が向いているのが自然体。自分の皮膚の外側にある物事や人、出来事に関心を向けたり、関わり働きかけていくというのは、少し気をいれて出向いていく感があり、また外から戻ってきて内省したり思索したり、あるいはぼーっとしたりするなかで自分のエネルギーが蓄えられていく感じがする。

この理論をどう捉えるかは人それぞれだけど、実際、「自分はこっち指向だ。でも、あっち指向の人もいる感じはすごいよくわかる。たぶん、あの人は自分と違う指向だな」という感じは、誰でも思うところがあるんじゃないかと思う。

世の中にはいろんな人がいると頭ではわかっているつもりでも、実際のところ、自分が当たり前にやっていること、考えていることを、人がやっていない、そうは感じないということがどういうことなのかは簡単にわからないものだ。しかし、実際人はけっこう、自分の当たり前を、当たり前とはしていないということは、十分にわきまえておきたい。

つまり、SNSの類いも、こういった指向一つとっても、楽しみ方、有効に感じられる使い方が人によって違うのだということを前提においておくと、意図せず相手に使い方を強要してしまうことも減るのではと。見知らぬ人、たくさんの人とつながっていたほうが断然面白いし活力を得られるという人もいれば、少数でも面識のある人、あるいはごく内輪の親しい人とつながって交流するのを有意義に感じる人もいるのだ。

もちろん、自分の指向にがんじがらめになる必要はなく、いろんな人の使い方を参考に、こういう使い方も面白そうだなと思うものをちょっと思いきって取り入れてみるのもよいことだ。ただ、あの人がこう使わなきゃナンセンスと言っているからと、自分にフィットしない使い方を無理やり組み込む必要はないし、自分なりの有効な使い方は人の使い方も参考にしつつ自分で編み出していけばいいと思う。道具に振り回されないとはそういうことだから。

ちなみに、外向指向は「外交的」「社交的」とは関係なく、内向指向は「内向的」「内気」とは関係がない。実際、「人との交流は大好き、人に話しかけるのも抵抗はないけど自分は内向指向だ」という人に会ったこともあるし、「人が多く集まっているような場は苦手。自ら話しかけるタイプでもないけど自分は外向指向だ」という人にも会ったことがある。

2011-07-24

Google+ とブログの関係

Google+が出てきて、とりあえず使ってみないことには…と触ってみると、必然的に自分が日常的に使うネット道具の分化を迫られます。これまで使ってきた道具と新しい道具、全部まな板の上に乗っけてみて、じゃあTwitterとFacebookとどう使い分ける?みたいなことを触りながら試行錯誤するわけです。

自分のなかに、それなりに明確なイメージをもって、こういう時にはこの道具っていうのが想起される状態を作らないと、日常生活はたいそう不便です。なので、ものの使い始めには楽を求めて自然そういう試行錯誤が繰り広げられるわけですが、しばらく使ってみて思ったことは、どこの切り分けが難しいって、このブログとの切り分けが一番難しいな、ということ。

Google+は文字数制限がないので自然、ちょっとしたつぶやきはTwitterに、もう少しボリュームのあるもので考察を含んだようなものはGoogle+に、みたいな感じになりました。「外に出てみたら、すごい蝉の声」とか「ここがデコルテっていうのかっ!」みたいなのは、どうもそれだけだとGoogle+に書くのにそぐわない感じがして、Twitterだけにぼそっと。「父子の論争」みたいな話はGoogle+に。

Twitter/Facebook/Google+はつながっている人が重複していたりもするけど、そうでない人もいるから、Google+に書いたことはTwitter/FacebookにもRSSで流れるようにしました。そう発言数も多くないから、まぁいいかなと。で、Facebookは考えてみると基本見るの中心で、あとはこのブログのRSSを流しているから、それのコメントをくださった方と会話する場になっているという感じ。そうしたら、この3ツールの使い分けは、先ほど書いたような感じで、しばらくはOKかという頭の中の整理がつき始めました。

で、一番使い分けの境目を難しく感じたのが、このブログとGoogle+。以前だったら、例えば先ほどの「父子の論争」みたいな話は、このブログに書いていたと思うのです。しかし今回は、文字数制限もなくさくっと書ける「場」があったので、Google+に書いてみた。すると、さして考察を盛り込んだ状態でなくとも、とりあえずこのテーマで一つ書き残せてしまった。人っていうのは(って勝手にみんなを巻き込む…)何らかの形でそのテーマで外在化を果たせてしまうと、どうも一息つけちゃうみたいで一件落着しちゃう。自然にゆだねていると、私の行動はそこで止まってしまう。それを、しばらくしてから振り返り、これはちょっと怠惰に流されぬようにせねば、まずいことになるぞ…と思いました。

私がこの話をこのブログに書くならば、おそらくもっと書き込みます。言い方を変えると、今Google+に書いてある内容だけだと、このブログの内容としては浅すぎてそぐわないと感じる。もしGoogle+に書かなければ、このブログに書く→書くからには深い考察まできちんと言葉にしていこうという流れに自然なったような気がするけど、ライトに書ける「場」を新たに手に入れ、その型に何らかの形で外在化できてしまったことで、ひと呼吸つけてしまった。

これはもちろん道具のせいじゃない。私自身の問題。新たな道具を手にしたときの試行錯誤は、ほんとうまいことやらないと、この無意識にやられるのだ。無意識は私を易きに流す。はぁ、困ったもの。うまいこと使わないと、洞察するとか考察するとか推敲するとかいう時間、意識、場を自分の人生から失ってしまいかねない。ということで、早いとこ使い分けの決着をつけてしまおうとする無意識にあらがいつつ、試行錯誤を続行。心のうちを書き深めて早10年、この「場」は、失ってはならんのです。どうしても。

2011-07-06

プールの中で思うこと

私には「時計」を知らなかったときの記憶がある。いつまで知らなかったという境目の記憶はないのだが、あぁ、あの頃は時計ってものの存在を知らなかったなぁと振り返れる思い出がある。

幼少の頃、週末家族でスーパーへ買い物に行くと、子どもたちは母と一緒に食料品売り場をまわった。父はたいてい、食料品売り場一周が始まるところでふらりとどこかに消えていき、私たちがレジに並びだすか、レジを終えて買い物袋に買ったものを詰めているあたりでふらりと戻ってきた。それが常だった。

私にはそれが、言葉に表せない謎だったよなぁと、つい最近プールで泳いでいてふと思い浮かんだ。なんでそんなことがふわっとわき上がってくるのか、人間ておもしろいなぁと思う。そうして泳ぎ続けながらぼやーっと、あぁ、あのとき私は「時計」の存在を知らなかったんだなぁと思った。

父にしてみれば、20分なり30分なりの目安を心得ていて、その頃合いを見計らってレジ前に戻ってこようという「時計」を頭にもっていたのだろうけど、私には頭に「時計」がなかった。とにかくあの頃は、体感的な時間感覚だけで生きていた、というリアルな記憶がそこからよみがえる。

自分が「わからないこと」が何なのかを吟味する言葉の力も持ち合わせていなかったから、謎は謎のまま、私の意識の上にのぼることもなかった。ただ、父はちょうど良い頃合いにレジに戻ってくること、その理由は謎であること、ただいつも決まってそうなので、そこには何らかの確かな力が働いていることを無意識に了解していたのも事実だ。

そういう記憶を思い出すたび、子どもたちが言葉には表せない、自分で意識もしていないけれど、自らつかんで了解していることが、大人の計り知れないボリュームで存在しているんだろうなぁと思いをはせる。

学生時代だったか大人になってからか、そういうことがわかって、「子どもは言葉に発していることの何万倍か何億倍かの事実をつかんでいて、でも理由は謎めいていて、だけどそこには何らかの確かな力が働いていると無意識に了解している」ことを理解してつきあっていこうと思うようになった。別になにということはないけど、例えばプールではこんなことを思って泳いでいるというメモ。

2011-07-04

追記:Google+の必然性

昨日書いた「Google+の薄い壁」を読んでみて、漠然とでもGoogle+の必然性を自分なりに見いだしきれていない状態で終わっているのが浅いなぁと反省。

これを書いた後に、いろいろGoogle+の記事とか斜め読みしながら思ったのは(書く前に読めという話だが…)、Google+を使う必然性は、Google+以外のグーグルが出しているサービスとの連携に出てくるんだろうなぁということ。考えてみれば当たり前の話なんだけど。自分の視野・視点の切り替えが、まだまだ自由自在に扱えていないんだなぁとしんみり。

Google+単体でみると、グーグルがFacebookの地位を横取りする施策にすら捉えられるけど、グーグルがGoogle+単体で自社サービスを見ているはずもなくて、グーグルプロダクト全体のなかでGoogle+をとらえ直してみると、やっぱりFacebookのいる層の下レイヤーをがっつり固めるインターネット下支えサービス群って図式になる。

サービス群の連携強化によって、そう遠くないうちに私には使わざるをえないツールに進化するんだろうなぁと思った。並行してGoogle+単体の品質を上げていく必要はあると思うけれど、これ単体で見ていたら浅いんだよなぁ。昨日のは感想文、今日のは反省文。

2011-07-03

Google+ の薄い壁

有識者じゃないけど、先行してGoogle+を使える機会をいただいたので、素朴な1ユーザーなりの感想文をまとめてみる。というわけで妄想、イメージ、てんこもり。

●私の目に映るGoogle+

グーグルがSNSを作る必要性にかられたのは、別にFacebookに勝ちたいとかではなくて、「Facebookの閉鎖性を排除したSNSが、世の中には必要だ」という信念からだと捉えている。Facebookだと、情報公開範囲を一番広く設定して「Facebook利用者」内。一方Google+は、ユーザーが発信する情報公開範囲の最大が「Google+利用者」内ではなく「インターネット利用者」内だ。ユーザーが「一般公開」に設定した情報は、Google+の登録者か否かに関わらず誰でもアクセスできる。その上で、情報の出し先を自由に絞り込める。

Google+には「サークル」という概念があって、いろんな人を「サークル」に登録し、サークルごとに情報公開/情報取得/コミュニケーションができる。サークルには初めから「友だち」「家族・親戚」「知人」「フォロー中」が用意されているが、自分で名前をつけて新しいサークルを作ることもできる。新しく作った「高校時代の友だち」と、もともとあった「友だち」の両サークルに登録し、発信情報ごとに使い分けることもできる。

そしてFacebookとの違いは、各ユーザーが形成するコミュニティ(サークル)の分類を、自分が実名で交流する「友人」「知人」に限らず、「家族」という社会の最小単位から「知人以外」という社会の最大単位まで網羅した、まさしくインターネットサイズそのままのSNSづくりを志向しているということ。

というわけで私の目には、Google+が「情報公開範囲」と「コミュニティ対象範囲」の2点でFacebookを拡張させたサービスというふうに映っている。違ってたら教えて…。

●Facebookを凌駕してこそ価値が出る

拡張ってことは「Facebookで使える機能は全部使えるし、FacebookでできないこともGoogle+ではできる」「Facebookで交流できる人とは全員交流できるし、Facebookで交流できない人ともGoogle+では交流できる」ことが求められる。

強く出れば、じゃないとグーグル規模が新たに世に出す意味がなくて、かえってじゃまになるのではないか。これだけFacebookが普及してきてから共存共栄の精神でサービスを展開されては、ユーザーはまた誰々とはmixi、誰々とはFacebook、誰々とはGoogle+でコミュニケーションするというふうに道具が分散してしまい、かえって不便を招く。できれば毎日通わなければならない場所は少なく留めたい。

という前提に(勝手に)立つと結果的に、Google+のユニークさは、Facebookを使っている人たちをGoogle+に移行させてこそ社会的価値が生まれる、と思えてしまうのだ。

●簡単に人は移行しない

しかし、すでに別のところでSNSを使っている人を新しい場に移行させるのはとても難しい。Facebookより見やすい、使いやすいといった操作性だけで人は移行しない。機能性でもない。SNSはやはり「誰がそこにいるか」で価値が決まると思う。使いやすいけど誰も使っていないSNSより、断然使いにくいけどみんな使っているSNSである。人が大移動する仕組み、新しい人もそれを選ぶ仕掛けが必要だ。そんなイメージをもってGoogle+を使ってみて、気にかかったことを書きとめる。

●見た目の筒抜け感に不安

サークルごとに情報の出し先を振り分けられる「機能」は備わっていても、それが見た目に表現されている感に乏しく、本当に大丈夫?隣に漏れない?この先もずっと大丈夫?と不安にかられる。

私たちはすでに、いろいろな理由から情報が漏れることがあることを学習している。 まず「自らの不注意で操作ミス」することを嫌というほど知っている。メールの送り先間違い、TwitterでDMのつもりがmentionだった、Facebookでメッセージのつもりがウォール書き込みだった…。平常時は問題なくても、日常ツールとあればモバイル操作、日曜の昼下がり、寝起き、酔っぱらい状態、さまざまなシーンで無意識的に使われ、そういう中での失敗や冷や汗体験を誰もがもっている。注意不足だけでなく、知識不足で使い間違えることもある。

また、使い始めてから運営主の方針転換で仕様変更や機能拡張が入り、追加された設定項目が自分の意図せぬデフォルト設定になっているのに後から気づいたなんて体験も、どっかしらでもっていたりする。

だから、私たちはデフォルト情報が漏れる不安感を十分に蓄えて新しいツールに向かうのだ。しかし現状のGoogle+は、あまりに薄い壁をはさんで、家族と学生時代の友だちと昔の会社の人と取引先とが隣り合わせる印象があり、見た感じの“筒抜け”感がある。いかに、公開範囲を設定できると「機能」を備わり、そううたわれても、自分がちょっと操作ミス・設定ミスしたら一貫の終わりだ。

そうして自分への不安を払拭せずサークル登録を始めると、結局1つのサービスの1つの画面上の薄い壁を前に、自分の全部の人間関係を登録していくのははばかられ、家族はまぁいいか、となる。でも、それだとこれまでどおりだ。結局ユーザーの手元でGoogle+の「コミュニティ対象範囲」の拡張は中断されてしまい、Google+はそのユニークな力を発揮できない。となると、「なんだ、Facebookでいいじゃん」「mixiでいいじゃん」「Twitterでいいじゃん」となるのでは。と「家族」の登録に躊躇しながら思った。

そう妄想すると、機能装備とともに、ユーザーの誤操作を回避するインターフェイスとか、情緒的にも不安感を回避するビジュアルデザインとか、コンセプトを体現した不動の機能とは何で、どんなふうに今後変化・成長していくのかを見せていくことが大事なんじゃないかなぁと思った。「このサークルとこのサークルの間にはきちんとした壁があって、この情報はあっちのサークルには絶対に流れていかないから大丈夫、この先もずっと大丈夫」といった壁づくり・空気づくりが、多くのユーザーを獲得し定着させるのに軽視できない要素ではないか。

●サークルごとの心理的モードチェンジ

あと、見た目つながりで思ったことを書くと、どのサークルでもまったく同じ見た目だと、気分的にモード切り替えできないんじゃないか。ノッてこないというか。画面の骨格まで変えちゃ使いづらくなっちゃうだろうけど、サークル別に画面の色味とかビジュアルデザインに変化をつけると、ユーザーとしては心理的にモードチェンジしやすくなるし、どこサークルの情報なのか視認もしやすくなるんじゃないか、と素人発想ながら思った。友だちはオレンジ(mixiモード)、知人は青(Facebookモード)みたいなカスタマイズ機能なのかなんなのか。

●現状維持欲求の高まり

mixi→Twitter→Facebook→Google+と、新しくコミュニケーションの場に渡り歩けば歩くほど、人とのコミュニケーション手段が分散され、ある意味非効率になっているんじゃと、自分に疑いの目を向ける向きも。自分が新しいSNSに移行しても、自分の周囲が移行しなければ、結局前のサービスを切ることはできない。ゆえに、Aさんとはmixi、BさんとはFacebook、CさんとはTwitterで、DさんとはGoogle+、親とは電話、兄弟とはメールで…みたいな感じに分散化している。

メインで使うツールはむやみに増やすもんじゃないな、コミュニケーションの場がこれ以上分散しては非効率だと考える人が増えてもおかしくない。もともと「新しいものが出たら試してみたい」と真逆の、「極力現状を維持したい」というスタンスの人も大勢いる。そこに対する働きかけって何なんだろう。遅かれ早かれコミュニケーションツールのデファクトスタンダードをとる印象づけが人を動機づけるのかな。

●「移行は面倒」への対応

加えて、移行の面倒くささを軽減する支援ツールの提供とか。これはすぐどこかから出てくるのか、もうあるのか。私はプロフィール情報をFacebookの基本情報をみながら書き写したが、インポートできると楽だったり。

逆に、過去Gmailでやりとりした人が全員、サークルに登録する候補者として表示されて、対象外が多くて困ったという話も聴いた。私もGoogleの連絡先が未整理なので、あぁこういうのを日頃から整理しておくと、新しいサービスが出たときすっきりいくんだろうなぁと思った…。

●結局は必然性

でも結局は、移行する必然性なんだろうな。移行すべき必然性をどう用意して印象づけていくか。移行せずとも困らない支障ない、そういう人にどう必然性を見せていくか。って当たり前のことだけど、その辺りは使い手側で開拓していく部分もあるんだろうし、私もそういう視点をもって触っていきたい。どう印象づけるかは、きっといろいろ練られているのだろうから、意識して見ていこうと思う。そして、陰ながら応援します。

「追記:Google+の必然性」はこちら。

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