「美しい花」をつくる
このところちょこちょこ頭によぎるのが、世阿弥や芭蕉が生きた時代には「美」を意味する言葉がなかった、つまり「美」を知らなかったという話。柳父章氏の「翻訳語成立事情」によれば、
近代以前、日本では、「美」ということばで、今日私たちが考えるような「美」の意味を語ったことはなかったからである。beautyやbeautéやSchönheitなどは、西欧の詩人や画家などが、作品を具体的に制作する過程で、立止まって考えるときに口にすることばなのである。世阿弥や芭蕉は、当然こういう西欧語を知らず、従ってその意味を知らなかった。つまりその翻訳語である「美」を知らなかったのである。
つまり、西欧の詩人は作り途中に「美」をゴールに見据えることができたけど、世阿弥や芭蕉はそういった抽象観点的な言葉を先に見据えることなしに作り途中を歩んだということ。これは、ものづくりのアプローチとして大きな違いではないですかっ(興奮)。
そして芭蕉のうたを改めてみてみると、「古池や」ですよ、「蛙飛びこむ」ですよ、「水の音」ですよ、なんという具象性。それをして、彼のうたには、抽象観念的ななにかをとらえずにいられない。多くの人が彼のうたに触れて、「池」と「蛙」と「ポチャン」のほか何も感じないでは済まされない。芭蕉は芭蕉で、その「言葉にならないもの」が湧き起こるのをわかって、意図的にこの具象オンパレードをなしていると思われ、芭蕉も私たちもそれを暗黙に承知しているということ。
それはそれとして、じゃあそうでないやり方を当時芭蕉が選択できたのかといえば、それを言い表す言葉の選択肢をもたなかったとも言えるのではとないかというのが、先の興奮。だから作り途中においても、彼は抽象観念的なゴールを言葉に表して見据えることはできなかったのではと(「さび」はあったけど、とにかく抽象語に乏しかった)。つまり、抽象観念を言葉に表すというのは、粋でなかったと同時に、やりようもなかったのではないかと(妄想)。
そこで考えてしまうのが、私たちがもし今も変わらず、抽象観念からものをとらえるより、具象的なものを先にみて、その中に本質をみたり、その上に抽象観念的なものをとらえるほうが肌になじむのだとしたら、ということ。先ほどの本にも、こんな一節がある。
「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」(『当麻』1942年)とは、小林秀雄の有名な命題であるが、確かに、かつて私たちの国では、花の美しさというように、抽象観念によって美しいものをとらえようとする言い方も乏しく、したがってそのような考え方もほとんどなかった。花の美しさ、というようなことばや考え方を私たちに教えてくれたのは、やはり西欧舶来のことばであり、その翻訳語だったのである。
昨今、私たちは多くの欧米産の言葉を輸入している。英語をカタカナに書き換えるだけした翻訳語の「○○モデル」や「○○手法」を、盲目的に完成されたものとみなし、現時点で最上レベルの正解の導き方のように受け取る。それが何かという解釈も曖昧なままに、それにのっとろうとし、それにそわないやり方を低品質とみる向きには疑問を感じてしまう。
それはそれで、最上を目指すアプローチとして有意義だと思うけれど、同じ最上を目指すのでも道筋は1つに限定されるものじゃない。「花の美しさ」を生み出そうというアプローチもあれば、「美しい花」をつくろうというものづくりの道筋もあってよいのではないか。
日本人が「美しい花」をつくろうというアプローチでものを作ったとする。欧米人が「花の美しさ」を生み出そうというアプローチでものを作ったとする。どちらのアプローチをとっても、その試みが成功すれば、ともに到達するところは「花の美しさ」をもった「美しい花」だ。
欧米人はそこに「花の美しさ」をみて讃え、日本人はそこに「美しい花」をみて讃えるかもしれない。いずれにしても、両者はともに「美しい花」を手にとるのだから、どっちでもいいじゃないかと。つまり、アプローチの違いと割り切ることができたら、もっと楽しく、自由に、各々がしっくりいくやり方でものが作れるんじゃないかなと。
今の日本人は、近代とは育ってきた環境が違うし、必ずしも近代の日本人のなじむところが今に通じているとは限らない。民族性だけで何かを語ることはできないし、欧米人だろうが日本人だろうが個々人の好みをもっているとも思う。だからまぁ、別に日本人だからどうこうというのでもないけど、それこそ「いいとこどり」する体質を生かすなら、どっちのアプローチも選択肢としてもっと生かしていいんじゃないかなと思う。
こんなことを書きつつ、私はかなり抽象観念から入る体質なんだけど…だからこそ具象化力に長けた人には自分にないものを持っているという憧れがあるのか、作れちゃうなら作っちゃうって攻め方もありだよなって思ってしまう。人が机上で抽象概念戦わせている間に、もの作って出しちゃったらと。でも一番いいのは、お互いが足止めしたり出し抜いたりするんじゃなくて、お互いの活動を支援しあったり力を引き出しあえるチーム作りなんだろうな。そんなふうに働きたい。
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