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2011-06-21

批判と敬意

さいきん紀元前の哲学の歴史600年分くらいを見渡してみて(本読んでるだけだけど)、人間ていうのは、世の中で起こっていることがどうとも説明できない状態では生きていけない生き物なんだなぁと思った。なぜ雨が降るのか、なぜ雷が鳴るのか、人間は神話を作らずしては生きていけなかったのだろうなぁと。また、それを伝承する必要性にかられたし、されずには生きていけなかったんだろう。

現代でみても、小さい子どもだって幼稚園生にもなれば「なんで」を繰り返すわけで、思春期になれば「なぜ生きるのか」「死とは」という自問に至る。いつの時代も、自分の内界・外界に起こることを説明したい、納得したい、より納得できる説明に到達したい生き物なんだろう。と、勝手に納得。

もとをたどれば太古の昔、まず世界を「神話」で説明する人が出てきて、それを納得する人があり、それをある程度まとまった書物の形で見せられると(パッケージ化って大事だ)、今度はそれを納得できず批判的にみる人が出てくる。世界を「神話」で説明するなんてナンセンス!とみた人は、自ずと「神話」ではない説明のあり方を模索しだす。もっと納得できる説明はないか。その模索の末、新しい見方・考え方が生み出される。そうして「哲学」が生まれる。

哲学に限らず、新しいものが生み出されるというのは結局こういう道程をたどっているわけで、自分が批判的にみたそれあってこそ、新しい模索が始まる。新しい何かを模索する過程でも、「それではない何か」を考えるわけで、好むと好まざるとに関わらず貴重な道しるべをそれから与えられていることに自覚的でありたい。

それとはつまり、他の人によって説明された何か、なんらかまとまった形にパッケージ化された何かである。

過去生み出されたそれがあるからこそ、私たちはそれの上にのぼってみたり、それの背後にまわってみたり、それの対極をイメージしてみることができる。「批判」という見方や行いは、新しいものを生み出すための生産的なプロセスだという認識を、もっとみんなで当たり前に共有できたらいいなと思う。

そのためにはやっぱり、一人ひとりのなかで「批判と敬意」がセットになっていることが必要で、じゃない単品で「批判」だけ突進してきたら、私はやっぱり怖くてたじろぐなぁ…。

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