GoogleとFacebook
Tech Crunch Japanの「FacebookがGoogleを廃業に追い込む理由」という記事を読んで、これまでGoogleとFacebookを横並びにして比較する見解に触れる度、自分が感じてきた違和感を書き起こしてみた。この辺りのことって、ど真ん中でWeb専門に仕事している人の頭の中ではどんな認識になっているんだろう。これがほんとよくわからなくて、これ書いたら誰か教えてくれるかなぁと思いつつ書いた。なので「おまえ、浅いなぁ」と思ったら、優しく柔らかい声でそっと教えてください。
前提として、この記事のなかにある「Eric Schmidt氏が嘆いたから」とか「頭のいいGoogleが怖がっているから」というのは、FacebookがGoogleを廃業に追い込む「理由」には値しないと考える。それは、書き手や読み手がこれに関心をもち考察するための「きっかけ」なり「とっかかり」にすぎない。
じゃあ、「理由」はどの辺にあるのかというと、この辺りから始まると思われる。
Facebookはもっと貴重なものを持っている。それは、Web上に実在する本物の人間のあいだに作られる、リアルタイムの結びつきだ。
しかし、これは裏を返せば、Facebookは「Web上に実在する本物の人間のあいだ」以外から生まれるもの、「リアルタイム」ではないものを軽視するシステムを提供する、ということだ。ものに特長をつけるというのは、それ以外を軽視することと表裏一体だ。つまり、本人性やリアルタイム性に引っかからない情報を切り捨てる仕組みに、Facebookならではの価値が湧き上がるということになる。
でも、当然ながら情報の価値基準は本人性、リアルタイム性だけじゃない。だから、Facebookが切り捨てた情報価値基準も含めて、より網羅的な見地から情報を精査し、個々人にとって価値の高い情報リンクをネット上で提供するシステムは、それはそれで必要だと思う。それがGoogleの仕事領域の核ではないかと思っていて、GoogleとFacebookの核となる役割はそもそもレイヤーが異なっているから比較しようがないと思っているのだけど、どうなんだろう。
本人性がついてまわっては言えない本音、Facebook上が前提ではデータ化/情報化することが躊躇されたり、情報化されても注目されにくい情報。そういった情報に、本人性とはまた別の情報価値が想定されるなら(例えば「誰が言った」より「何人が言った」「何を言った」に価値がつく情報)、本人性を伴わずに情報流通する、Facebookより下層レイヤーを確保しておくことは必要であり続けるはず。
普通に生活していても、学校や職場、地域コミュニティや趣味/関心コミュニティ内では本人性が明らかで、それはそれで意味があるけど、街や駅やスーパーを行き交う人の本人性は、少なくとも都会じゃ明らかでないまま生活しているわけで、それはそれで意味がある。そういう領域の確保はインターネット上でも必要不可欠だし、それが大半を占めているほうがむしろ自然な気がする。のは、私が東京で生活しているからなのか。
でも人間誰しも、知人・友人のお薦めを絶対視して何かに関心をもったり行動を起こしているわけじゃない。その分野に無知な知人より、その分野に精通した赤の他人を信用して興味を得たり行動することは日常的にあると思うし。
それに、この記事でいえば、リアルタイムでない情報をまるっと「古文書」や「遺物」とするのはあまりに乱暴だ。一定の普遍性をもつ情報であれば、リアルタイム性以外の観点で情報価値をもっているはずで、1日立ったら全部ゴミというのは、あまりに偏った見方だと思う。
もちろん、あらゆるデータを切り捨てない前提とすれば、扱う対象が膨大なデータ集合になるのはまぬがれないけれど、それをわかっていてやってやろうというのがGoogleではないのかなと。エンドユーザーの気まぐれ文書もはなから排除することをせず、あらゆる情報価値基準を網羅して、個々のユーザーにとってより有意味な情報をよりフラットに価値づけするアルゴリズムを開発し、候補を順位づけしてリンクを提供する。そして最終的な選択、誤差の調整は本人にゆだねられている。
Facebookが存在感を増せば増すほどに、私がGoogleに求めたいのは、本人性やリアルタイム性に特化しない情報の顕在化システムって気がする。私の頭の中のイメージでは、インターネットという地平線の上に、Google層(あるいは検索エンジン層)があって、その上にFacebook層(あるいはソーシャルネットワーク層)がある。地球>社会>コミュニティみたいな。この階層ごとの役割期待に応えていくことが、双方を生かし合う構図ってイメージがあるのだけど。
Facebookが、自分の知り合いが何かに注目して寄り集まっている今を顕在化してくれるというなら、Googleには、誰が集まっているかはわからないけど街に人だかりがあるのを顕在化してくれたり、今を切り取るだけでなく蓄積された過去まで見せてくれる、時空を超え、コミュニティの枠を超えた情報の顕在化を期待したい感じなのかな。
Schmidtさんが嘆いているというのは、あくまでビジネス戦略上、本人性やリアルタイム性を重視したところも、それはそれでやりたかったけど出遅れたからということなのか。んんー、もっと深いあれこれがあるのでしょうが、未整理なままに終わります。
« 辞めること | トップページ | 「美しい花」をつくる »
コメント