べそめも
実家に帰ってくると、やっぱりぼろぼろ泣いてしまう。まず郵便ポストのところで、母宛の郵便物を手にして、その時点でぐずっとくる。これを毎日父はやっているのだな、とも思う。玄関をあけて一歩中に入るとお線香の匂いがして、それでまた、少し距離をおいていた現実を感覚的に突きつけられる感じで、心がきゅっとしまる。玄関をあがると、まず洗面所に行って手を洗う。それから居間に入って、母のいる奥の応接間に向かう。母の遺影が、こちらを向いて微笑んでいる。それを見ると、もうぼろぼろ涙が落ちてくる。なんでおうちにいないのか。なんで写真の中で笑っているのか。どこにいったのか、今どこにいるのか。もういなくなってから2ヶ月も経つのに、相変わらず「ここにいるんだな」という具体的位置がつかめなくて、途方に暮れる思いがする。しばらく、特にこれという言葉も浮かんでこずに、ただぼろぼろ泣いている。そもそも千葉に戻ってきて、街を歩いている時点で、そこら中に母の思い出はあって、この街で正気で生活するのはなかなか…と思う。自分が東京で、どれだけ概念世界に偏って生きているかを痛感する。ともに過ごした土地に戻ると、わっと全身が対極世界に飲み込まれるのを感じる。人の気持ちというのは思いのほか、土地にひもづいているものなんだなと思う。ここに来ると、全身が途方に暮れる悲しみがあり、温かみがある。東京では自然距離をおいていた現実を、全身で受け止めて、身体が思い切り泣き出すのを、できるかぎり存分に泣かせてやって、バランスさせる。ほろ酔いの父の話を1時間ほど聴く。しっかりお見送りできて、遺体があってと、震災の不幸を思えばいくらでも、まだ良かったじゃないかという話は挙げられるのかもしれない。それでもな、それとこれとは別だよな。まったく私が思ったのと同じことを父は口にした。悲しみとは個人的なもの。比較できないものは比較するもんじゃない。個人的なものは、どこまでも個人的なものなのだ。個人的でない悲しみに、どんな意味があるだろう。
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