自然の擬人化
自然を擬人化して語るのもたいがいにしないとな、と思った。あんまり多用しすぎて、自然というと、もはや「本来の自然」より「擬人化された自然」のほうが頭の中に像として先に立ち上がってくるまで達していることに、はたと気づいた。
当たり前だが(と私は思うが)、自然そのものには意思も感情もない。海も山も空も、怒りを感じたりしないし、悪だくみもしない。意図的に何かするなんてない。天罰も下さないし、情けもかけない。何かの事象があっても、そこに意図はない。勝手にちっぽけな「人」の器に押し込んで語られたんじゃ、それこそいい迷惑だろう。ってまた擬人化してしまっているが…。
自然って冷静に考えると、人と比較したり人に置き換えて語るにはそぐわない概念だ。「自然と共存する」だなんて、ちょっと器が違いすぎて、改めて考えると馬鹿言っちゃいけないよって思う。自然の中で生きる者たちは横並びだ。人間と動物・植物の差異を人間ほど意識している生き物もいないんじゃないかってほど横並びだ。でも、人間と自然は横並ばんだろうと。
ってそれはそれとして、話をもとに戻すと自然には人がもつ意思も感情もないという話。「地球をよごしてくれるな」なんてメッセージも、別に自然がそんなこと思っているわけじゃない。自然を擬人化した人間の頭が、自然という擬人に語らせているメッセージにすぎない。人間が好き勝手やって、大規模な爆発起こして地球がふっとんだとしても、別に地球は悲しまないし憤らない。自然も地球も、何も思ったり考えたりしない。悲しんだり憤ったりするのは人間だ。地震も津波も、もちろん自然の感情の表れじゃない。
自然に自然という名前をつけ、地球に地球という名前をつけ、それを一つの概念として存在させているのは人間の仕業にすぎない。私たちが自然と呼んでいるもの、地球と呼んでいるものに、未練なんて感情はない。生存欲求もないし、存在価値を認めてほしいなんて欲求ももっていない。何かを実現したいわけでもないし、消えたくも消えたくなくもない。なくなったらなくなっただ。自然にとってみれば。と思っているんだけど…。
擬人化もほどほどにしないと、本質的なそれより擬人化されたそれのほうが先に頭に浮かんでしまって、そちらの像をもって語られている話に真っ向から向き合ってしまったりする。そんなことで人が傷ついたりするのは実に不毛だ。あったかい気持ちの中に、いつも冷静さを持ち合わせていたい。
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