「ミスター・ヴァーティゴ」の折り目
ポール・オースターの「ミスター・ヴァーティゴ」を読み終えた。読んでいる途中にふと思ったのが、この物語は一部の文章を切り取って額縁におさめるようなことが許されていないんだなということ。彼の作品は、あと「幽霊たち」と「オラクル・ナイト」しか読んだことがないので、彼の作品全般に思うかどうかはわからないけど、共通してそうかもって気もする。
私は本を読んでいて「おぉ」と思う一節に巡り会うと、ほとんど無意識にページに折り目をつけてしまうのだけど、「ミスター・ヴァーティゴ」の折り目を振り返ってみるとどれをとっても、そのページのその一節だけ取り出してもほとんど意味がないな、という結論に至った。
一文、一節を取り出して眺めると、まったくその真意を汲み取ったものになっていなくて、上辺だけ切り取った感じになってしまう。数行前までさかのぼって取り出してみたらどうかとやってみたら、むしろその不十分感は高まるばかりだった。
例えば村上春樹の小説なんかだと、その前後に語られるストーリーから立ち上ってくる真理を言い切るような一文が随所に埋め込まれていて、それらを取り出してtumblrに登録しておいたりできる。その一文には、まるでそうやって取り出されることを望んでいるかのように、登場人物の名前、ストーリーの具体的シーンに関する言葉が省かれている。実にシャープに、抽象的で、概念的で、普遍的な真理が、作者の発信したいメッセージとして語られているふうがある。
一方この作品には徹底してそういう一文がない気がする。ストーリーから完全に独立したような文章を入れ込まないように徹底されているふうがある。それでいて先々気がかりなストーリー展開のなかに、奥深い真理がしっかり織り込まれている上質さが感じられる。
勝手な憶測をすると、読者の頭の中に、作者の顔が浮かぶ機会を徹底して排除しているってことなのかもしれない。すべてはストーリーにのせて語る。土から引っこ抜いて花瓶に入れられて本来の生命力を損なわれてしまうことがないように、注意深く一文一文が編み込まれているような印象でもある。
村上春樹が「物書きの役目は単一の結論を伝えることではなく、情景の総体を伝えることにある」と書いていたけれど、オースターは徹底してそれをやっているのかなとも。それをして真理を伝えられる手腕をもっているってことでもあるか。
すべては物語の中につまっていて、物語の外に開けている、そんな感じ。骨太な真理を物語の中に埋め込みながら、その真理を一文で語りきることを徹底して排除することによって、オースターは彼が伝えたい真理を発信することと、その先で読者がそれぞれに生み出す多様な真理の可能性を限定しないことを両立させているのかもしれない。真理をどう汲み取るかを自らで語らず、読者側の頭で為すようしむけているってことかも。
って相当な妄想話だけど。彼の作品がどれも「物語」という表現がふさわしく感じられるのは、この辺に理由があるのかもなぁと。
« 自然の擬人化 | トップページ | Facebookの謎 »
コメント