Facebookの謎
ちまたで話題の「フェイスブックインパクト つながりが変える企業戦略」を読みながら、Facebookについて自分の思うところを言葉にしてみた。私は個人的に使っている立場にすぎないんだけど。あと、まだ本は前半しか読んでいないんだけど…、文章が長くなってしまったのでとりあえず一区切り。ともあれ確かに、この本は読み応えがある。
●アクティブユーザー6億人の「アクティブ」とは
まず、「フェイスブックのアクティブユーザーは6億人」と言われ、この本の冒頭にもそう書いてあるのだけど、「アクティブ」ってつけられると、とりあえずアカウントはあるけど使ってはいない人を排除しているように見える。だからログイン頻度とかからみて、アクティブさんの数を割り出しているのかしらと思ったけど、そうでもないふう。普通に登録ユーザー数っぽいんだけど、ではなぜ「アクティブ」とつけているのか。それとも、やっぱり単純な登録ユーザー数ではないのか。
何にしても私の周囲をみまわしてみると、ネット系の仕事仲間、海外とのコミュニケーションが活発な友人以外で実質アクティブ感漂う人はおらず。少し前に学生時代の友だちがちらほら登録する時期もあったけど、概ね「よくわからない」「何が面白いの?」といって現在沈黙中。というわけで現状一定の誤差は確実に存在し、6億アクティブはないだろうという肌感覚。
でもその数字が何であろうと、世界中で一番登録され利活用されているSNSがFacebookということに間違いはないのだろうし、数字が大きすぎて「とりあえず億」ってことでいいじゃないかという気がするので次の謎へ。
●アクティブユーザー6億人に価値があるのか
6億のアクティブユーザーがいるとして、その「数の大きさ」が1社の企業戦略においてどれだけビジネス上の価値を高めるものなのか。世界でも名だたる企業群がマーケティングに活用するっていうのは、まぁいろいろ仕組みを考えて活用するんだろうなぁと思うのだけど、グローバル展開していない多くの中小企業にもおしなべて、この6億という数字が、その数をもって特筆すべき価値になるのか。それとも、やっぱり活用して有益なのは一部のグローバル企業に限定されるのか。その辺が曖昧なまま「6億」を強調することで、Facebookをうさん臭く見せてしまっていないか。
6億人相手にビジネスする企業は限られているし、一般にマーケティング戦略ってシャープにターゲットを絞り込んでこそゴールに到達できるってものではと考えると、「6億人相手にビジネスできますよ」っていうのはこれと真っ向対決していて腑に落ちない。
この辺を、本では3章で丁寧に扱っている。これまではそれこそ「グローバル展開なんてとんでもない」と思っていた企業が、Facebookが提供する英語化対応の手軽さを手にすることでグローバル展開に踏み出しやすくなるという逆転の発想みたいな提案をされていて、なるほどと思った。この章の文章はすごく地に足ついていて、「6億」ではないFacebookの価値を丁寧に書き起こしている。Facebookと企業戦略を実際的に結びつけたこの本の屋台骨になっていると思う。
●Facebookは今後、企業戦略上の利用価値を伸ばすのか
私はSNSって、この先みんな複数サービスの登録が基本になっていって、それをうまいこと用途に応じて使い分けていくスタイルが定着していくんじゃないかなと想像している。その一つとしてとりあえずほとんどの人が登録しているのがFacebookであり、「全世界とつながる/社会的な自分として参加する」みたいな特長を活かしてみんな活用していくのかなと。ただそれ以外にも、自分の住む地域社会や文化、趣味・嗜好に合ったSNSを、各々選んで登録・利用していくようになるのが自然な流れかなと思っている。
ある分野が成熟していく過程って、多種多様なサービスが出てきて、利用者の選択肢が広がっていって、それがまた淘汰されたりして残ったサービスがより良いサービスに育っていってという流れをたどり、ユーザーは「広く浅くの全部入り」より、「狭く濃厚な個別最適」サービスに傾倒していくもんじゃないか。そうなると、私たちはFacebookといくつかの生活密着型SNSの利用者になり、後者のほうをより頻度高く、滞在時間長く、購買行動と密接に関連づいて使っていくのではないかと。
生活密着型SNSはユーザーが分散するから、ユーザー総数でいったらFacebookは圧倒的であり続けるかもしれないけど、購買行動とどうつながっているかみたいなことで考えると、Facebook以外のSNSのほうが断然力をもってくるみたいなことになるんじゃないかなーと。そこに誘導するまでのAttention-InterestにFacebookが一役かう部分はあるんだろうというような。これは相当に素人考えの妄想。
●本当に全部つながっちゃっていいのか
なんでこんな妄想をしたかというと、この先のことを考えてみて、親も子どもも親戚も、小/中/高/大学の仲間も、バイト先/就職先/転職先/取引先も一緒くたにつながったようなSNSで、人はそうそう自由に個人的な振る舞いはできなくなるんじゃないかと思うから。
私たち世代はまだ一緒くた感が弱いけど、今の子どもたちとかってまず親とつながっているところからスタートするのだろうし、それで例えば反抗期を迎えてFacebookに別アカウントを用意するかなぁと思うと、いや趣味・嗜好、仲間とのSNSはFacebook以外でアカウントもって、全然別の場所で楽しむんじゃないかなーと。
幼い頃や若い頃の一連の人間関係が全部つながっちゃってるSNSって、けっこう人間の精神衛生上きっついんじゃないかなぁと心配する。ある種、ぶちっと過去と縁を切れるのが前提になっている(必要に応じてつなぎあわせる)社会構造を保っておかないと、なんかもうこれからの人たちとか全部が全部つながりすぎちゃって困っちゃわないかしらと思う。
●ソーシャルメディアは人の行動や思考の全てを可視化しない
あと最後に、本の第1章は、役割的に読者のテンションをあげなきゃいけない立ち位置であったと拝察するのだけど、「ソーシャルメディアは人の行動や思考を全て可視化し、アーカイブしていく」っていうのはちょっと道理にかなっていない感。なんか揚げ足取りみたいになっちゃってあれなんだけど、でもこの言い切りはちょっと危険だなぁって思ったのだ。
そんな全員が全員、赤裸々に自分の行動と思考をソーシャルメディアに乗っけないだろうと。自分の行き先、食べたもの、ふと思ったことを全部外部に発信したい人ばかりではないって前提は忘れてはならない。ざっくり言えば、世の中の半数の人は外向けに発信すべき必然性がないかぎり、あえて発信行為には出ないだろう。
ソーシャルメディア上にのっかっているその人の発した情報から、一人の人間の全て、あるいは総体を捉えられていると思ってしまうのはすごく危険。私はその真逆であるべきと思っている。ソーシャルメディアにのっかっているその人の情報は、その人のある一側面しか表していないことをわきまえておくことこそ、必要なリテラシーじゃないかなぁと思うのだ。ここまで読んだあなた、偉い!
最近のコメント