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2011-02-19

非常識なり異常なり

話は変わらないようで大きく変わるが、お葬式で故人を撮影するというのはどんなもんなんだろうか。母の告別式の際、棺(ひつぎ)にお花入れをするところ(つまり、この後は火葬場に行ってしまうので、もう本当にお別れよというところ)で、血縁上母にかなり近いところの女性が、携帯をもった腕をにゅーっと伸ばしてきて、母の顔をとらえて写真を撮っていたのだが、あれはいったい…。

カシャっていう音も響いたので、母の棺を取り囲む皆一同に、心中で相当度肝を抜かれたと思うのだけど。私も、母の顔のそばにしゃがみこんでボロボロ泣いている中、カシャ!が聴こえてきたので驚いて、まさか、というか、あぁ彼女だろうなぁと思って、心の中で「おーまーえーはー…」と突っ込んでしまったが。

が、今それに構っている余裕もなし、とにかくしっかり母とのお別れをしないとと思って放っておいた。そしたら、2度目のカシャ!がなって、おっと2枚目もいったか…と。いや、これは相当浮いていたと思うし、故人の娘として快か不快かと問われると、不快と言わざるをえない体験だった。

しかし、少し時間をおいてみると、その行為に対して反射的に不快感を感じた自分に、ちょっと待てよと思うのだ。つまり、あれは一言でいうと「非常識だ」ということになるのだが、私は特段、非常識な行いが悪いことだとは思っていない。彼女の心中を推し量っても、彼女なりに自分がいつも持ち歩いている携帯に母の写真をおさめておきたかったということなのだろうし、悪気があったわけではない。

となると、あの不快感をもう少しひもといておきたいところなのだけど。あの時私が感じたのは、これまでの文化背景を前提とした「不慣れ」からの不快感なんだろうか。慣れていないから、不快に感じた。もし、さいごのお別れには故人の写真を撮って、日々持ち歩くものに写真をおさめ、故人を忘れないようにするのだというような文化背景に生まれていたら、あるいは今後そんな考え方が一般化したら、不快感を感じないということになるんだろうか。

あるいは、あのカシャ!という、場にそぐわぬカジュアルな機械音によるものだったのか。音つきでなければ、不快感はなかったか。んー、音がなければ、そもそも気づかなかったかもしれないが。でも、音が鳴らずとも、あの腕がにゅーっと伸びてきた先に、母に向けられた携帯があるという光景は、どうにも腑に落ちなかった。やはり文化背景、慣れの問題だろうか。

あるいは、まだ母の魂も近くにあるであろうに、本人に断りもなくカメラを顔に近づけてアップで撮影することに、無礼な感じがしたのかな。あるいは、「死」という畏怖の対象に対してカメラを向けている、そのおそれの無さに同じ人間として恥ずかしさに近い感覚を覚えたのかもしれない。

なんとなく、全部をごちゃっとした感じでの、瞬発的不快感だったように思うけれども。先天的な不快か、後天的な不快か。よくわからないけれど、他の人のこういった非常識を頭ごなしに否定的にとらえないようにはしたい。この件がどうあれ、現代の非常識な行いが、新しい常識を生み出していく側面もあるし。自分がそれを選択するというのはなくとも、他の人がそれを選択するのを咎めるかどうかは別の問題だ。

このひと月、非常事態のまっただ中にあって、狭くみれば正常ではないなってとられそうな人のふるまいに触れることもいろいろあった。けれど、そういうとき、吉本隆明さんの「ひきこもれ- ひとりの時間をもつということ」にあったこんな言葉を思い出して、ほんとそうだなぁと思いながら静かに包容した。

「正常」ということを、あまり狭くとらえる必要はないのです。

この辺が私の地味な変人さである。

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コメント

このお話、、ちょっと、、いえかなり私も驚きました。
今までそういう場面を見たこともないし、自分がその場にいたら度肝を抜かれた上に、かなり不快になったと思います。
でも、、このような状態の時にその「不快感」の元をあれこれ探り、かつできるだけ肯定的に受けとめようとしているまりさんに、あらためて頭が下がるような思いがしました。

私も今、まりさんの立場に立ってみて、どうしてそれが不快なんだろうと考えてみたのですが、
私の場合は、自分が故人だったら写真絶対撮られたくないなぁ、、という気持ちからでした。
仮にとても親しい人や親族家族であったとしても、持ち歩いてほしいのは自分の生前の写真であって、棺の中で眠る写真を持ち歩いたり誰かに見せられたりしたくない、、という気持ちです。

他人から見て非常識でも自分の中では常識ということも沢山あるかと思いますが、この場合は申し訳ないですが、非常識に加えて、お身内の方々とお母様を思いやる気持ちに欠けているなと感じました。。
あくまで私の感じ方ですが。。

いや、驚きますよね、普通に。そう、今までそういう光景を見たことがない。ゆえに、見たことがないゆえの不快なのか、先天的な不快なのかがわからない…。
なんですけど、ベルさんのおっしゃる、本人の立場だったらというのは抜け落ちていた視点で、すごく納得がいった。持ち歩くなら生前の写真を持ち歩いてほしい、目を開いて笑っている写真を持ち歩いてほしいですね。
彼女には、この写真ほしいわと言われて、アルバムにあった生前の写真も送ってあげているので、ぜひそれを取り込んで持ち歩いてほしいところ。
感謝です。いろんな人の率直な感じとり方を伺いたかったので、とてもありがたいです。

こんにちは。
なんとコメントすれば良いものかと、書いては消し
書いては消し、しながら日が経ってしまいました。
お母さまのご冥福を心よりお祈りいたします。
今まで読んできたどんな小説よりも、身にしみて
リアルに死というものを感じました。
文面を拝見しただけですが、お母さまもさぞかし
自慢のご家族で幸せな人生だったろうと思います。

---
今回のおはなし、私も地味な変人さを持ってます^^;
常識がない!とか憤慨する人をよく見かけますが
常識って地域とか時代とかで、限定された話ですよね。。

葬儀での写真は私も不快だと感じますが、文豪の
デスマスクを見た時にも同じようにエエッと思いました。
愛情よりも、資料の為という感じが不快感をうむのかなー??

ecoさん、コメントありがとうございます。書いては消し、書いては消し…とは、なんだか恐縮です。小説よりも…というのは身に余るお言葉ですが、でもそういうふうに受け取っていただけたこと、とてもありがたく思います。それはecoさんのお力によるものだと思いますが。
それにしてもまぁ、ecoさんも地味な変人さんですか。私も所変わればとか時代変わればという類は執着しないタチで、できるだけいろんな人の目線を理解したいという欲があります。海のような広大さが目指すところで、なかなかマニアックなところに欲深いです。

うーん、私も嫌ですね。常識か非常識か考える前に、反射的に苦情を口に出してしまいそうです。

はやしさんの分析も全部あてはまるし、あと「携帯で写真を撮る」という行為があまりに軽々しい感じがするのがイヤなのかも。もしこれが、プロ仕様の撮影機材を時間をかけてセッティングして、おごそかに「カシャ」とシャッターを切っていたらまた少し違うような...。うーん、いや、それでも違和感アリアリかな。

深い悲しみにくれながらも、一方でこんなことが気になってしまうはやしさんに、少し安心しました

せんがんさん、ありがとうございます。
まぁ、やはりそうですよね。普通に考えてNG。せんがんさんなら、「ちょっとちょっと…」と実際に止めに入ってくれそう(笑)。けっこうな人数がいたので、一人ぐらいたしなめる人がいるかなと思いましたが、今回はいなかったですね。まぁ、相当近しい人間じゃないと、あの場ではなかなか注意できないですよね…。

私も「携帯で写真を撮る」というのに、人は軽々しさを覚え、抵抗感を抱くのではないかというのがあります。新しいものだけにTPOの常識が人によって多様であるし、今後も変化していくであろう携帯の常識的使い方、使い控え方みたいなものが、どう定着していくのかというのが、ちょっと気になっています。海を越えれば、また常識も違うようですし。

でもね、昨日本を読んでいたら、「音楽にはその内容にふさわしい容れ物がある」って村上春樹が書いていて、それが私の違和感の根本かって気がした。最近はあらゆる所作が、身近にある機能性の高いものでまかなわれてしまっていて、そういった容れ物のふさわしさの検討が軽視されているような気がしていて、それに対する抵抗が働いたのかなぁと。ずいぶん抽象的な話になってしまいました…。

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