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2011-02-23

母と私の友だち

毎年元旦は、中学時代からの友人と実家近くのマクドナルドで数時間しゃべり続けるのが、ここ数年恒例となっていた(二人とも未婚なのでまぁまぁ)。しかし今年は、年末に母の病気発覚と余命宣告、元旦は入院先から外泊届けを出して母が家に戻ってきている状況とあって、会うのが難しいと友人に連絡をした。

私が予想した友人の反応は、まぁ驚くは驚くとして「それじゃあ仕方がないね、落ち着いたら会おう」という返答だった。しかし意外にも彼女から返ってきたのは、私の母に会いたいというメールだった。

確かに昔、彼女と母とは顔をあわせたことがあるけれど、家は(当時の行動範囲でいうなら)近所というのには少し離れていたし、彼女とかなり親しくなったのは小学校を出てからだったから、そう頻繁に家を行き来していたわけでもない。

なので、「え、そういう反応?」と、まず驚いた。その意外な切り返しが彼女らしいとも思ったし、会ってどんなことを話したいってことなのかなぁと、意図をつかみきれない感じもあった。ただ、彼女は明確に、何か伝えたいと思うことがあってこちらに来たいと言っているんだろうという気がして、それを私が咎める理由もないし、では…と場をセッティングした。

1月3日の昼下がり。彼女が家を出たタイミングで、私も彼女の家のほうに向かい、途中で落ち合って二人で実家に向かった。道すがら友人から、うちの母が病状を一通り知っているのかと今一度確認され、そうだと答えた。

とはいえ、あの頃はまだ体調も比較的安定していたし、私たち家族も母本人も、あとわずかで亡くなるなんて現実味を帯びて考えられていないところもあり、せっかく外泊届けを出して家に戻ってきているのに、あとわずかであることを改めて突きつけるような会話が展開されたら、母にとっても、近くにいる父にとってもやりきれないのではないかと内心不安もあった。

それでも、私にとってその友人はとても大事な人で、彼女はそういうやりきれなさを重々承知の上で、それでも自分が言うべきことを言うのだと信念をもってやってくるような人だったから、彼女がやりたいということを、とにかく私は見届けるほかに選択肢がなかった。

彼女が母に会いたいと言い、母は会いましょうと応えた。その時点でこれは私の友人と母の約束になるのであって、もはや仲介者となった私がとやかくいう話ではないのだ。

私たちは家に着き、友人と私と母とで話し始めた。最初は友人の近況などが話題の中心だったが、数十分話して、そろそろ母も体力的に疲れが出てくるだろう頃合いに、彼女は母に、最後の話をした。

母も私も泣いた。この会話が始まるとき、「楽しいおしゃべりを!」と言って席をはずした父も、私の友人を玄関で見送る時、母が泣き顔だったのを見て、心に痛みを感じたと思う。こんな思いをさせるなら、会わせなきゃよかったと思ったかもしれない。

私もそのときは、こういうふうに引き合わせたことが良かったのかどうか、答えが出なかった。彼女のもつ鋭敏さは、それに慣れていない母には唐突で直截にすぎたのではないか。思い出さなくてもいい時期に、むやみに余命を思い出させるような機会を作ってしまったのではないかと長く引きずった。ただ、これは少なくとも今、答えが出るような問いではないのだろうと保留した。

その後、母が亡くなるまでの間、ほとんど来客はなかった。もし、ひと月の間に何人も来客があって、その都度最後のお別れをするといったことになっていたら、とても身がもたなかったと思う。

そうして今振り返ってみると、1月3日の友人の訪問は、やっぱりあって良かったんだなと思える。そしてあの限られた期間の限られた訪問者はやはり、彼女でなければならなかったんだと思う。

彼女は最後に、私のことを話した。私のことは心配ない、私は大丈夫だと言った。確か、私に出会わせてくれたことを母に感謝するようなことも言っていたかな。あれ、言っていなかったかな。なんだか、涙がぼろぼろ出てしまって、何を言っていたかよく覚えていないのだ…。すまぬ。

ただ、そのとき私が彼女の話を聴きながら思っていたのは、この話は、深く長く私とつきあってきた彼女にしか話せない話で、そのことを自覚して彼女はここに、この話をしにやってきてくれたんだろうということだった。

告別式に来てくれた短大時代からの友人からは、こんなメールをもらった。「友だちの親の人柄にふれるのはだいたい葬儀・告別式になってしまって口惜しい思いをする」、なるほどと思った。大人になってから、親に自分の友人を引き合わせる機会はほとんどないのだ。

一方で、小学校時代に親しかった友人は、母のことをよく覚えているといって連絡をくれた。顔も、声も、優しさも残っている。肩くらいまでの髪で、優しい笑顔で「まりこがね」「○○ちゃん」と話しかけてくれたのを今でもよく覚えていると。これもまた、彼女にしか言えないメッセージだった。何よりそれを伝えたいと思って連絡をくれたというのが、すごくありがたかった。

自分の友人というと、もはや母と面識がないことが前提になっていたから、あぁ、そうか、母をよく知っているという友人もいるんだなと、なんだかはっとさせられる思いがした。その時代の母の記憶なら、むしろ彼女のほうが私以上に鮮明にもっているのかもしれない。

私の母に一度も会ったことがない友人からも、この間にたくさん言葉をもらった。母の冥福を祈る。その一言を、定型の挨拶と受け流してしまうのはもったいない。なぜなら、その人は、会ったことのない私の母の死を、意識にとめずに済ますこともできたし、知ったとして何の言葉も発しないこともできたのだ。なのに、言葉をかけてくれた。立ち止まって、何かを思ってくれたのだ。会ったこともないのに。

そして私もまた、母に会ったことのない友人にも、届けたかった。私が社会に出て、その一人ひとりと親しくさせてもらえているのは、母から授かったものがあってこそと思ったからだ。そうして今、友人一人ひとりからもらった言葉に、気持ちに、心から感謝している。人間は尊い。ほんと、そう思う。

2011-02-22

拡散と収斂

今日取引先との打合せの席で、「hysさんは、企画を考えるときの手順にパターンのようなものがありますか」というような質問を受けたので、いや、さほどないなぁと思いつつ、パターンパターン…と探してみたところ、「確認して、拡散→収斂」という流れはあるなと思い、そう答えた。

抽象化しすぎていて、何かを言っているようでいて何にも答えていないじゃないか!レベルに到達しかかっているけれども、つまるところ、これくらい抽象度を引き上げないと、パターンとして言い表すことができないくらい、脳内の企画工程はパターン化されていない、ということなんだろう…。

ほとんど回答の意味をなしていないとみなす方もあるだろうが、答えとして正しいものは正しいのだから致し方ない。これ以上具体化しようとすると、今度は嘘になってしまう。と、開き直って終わっては意味がないので、とりあえずこれの意義を書いておく。2ステップしかないし、当たり前といえば当たり前のことなのだけど、自分なりに納得しながら今日しゃべっていたのでメモを残す。

企画をする際、要件を確認した後に、拡散工程を踏まず、とにかく早々決着をつけようと収斂に向かうと、だいたいマンネリ化した企画になり、前のものをいかに使いまわすかというふうに起点が本質からずれてしまい、怠惰な企画になる。という懸念がまずある。

一方、拡散工程を踏むと、AもBもCも考えた上で、何らかの根拠をもってAがいいなって絞り込んだ企画をもってお客さんのところに提案に行くことになる。なので、客先でプレゼンして、先方から「BとかCとかってやり方はどうでしょう」って話を持ちかけられたときにも、「私もそれ考えてみたんですけど、こういうことも考慮すると、やっぱりA案かなと思いまして、どうでしょうね」って、議論を深堀りできる。

よーく考えてもっていった企画というのは、だいたい、お客さんのところでいただく質問や意見が自分の思考プロセス・思考範囲内の内容なので、自分がどういう思考プロセスを踏んでBでなくAにしたかを説明することで、より濃密な話し合いができるし、信頼関係もぐっと深まる。

考えたけど企画に取り込まなかったものが、常にプレゼンの場で浮き彫りになるわけじゃないけど、別にプレゼン対策のために拡散工程を踏んでいるわけじゃないから、それはそれでいい。単純に、自分が考えられるかぎりのより良い企画をもっていきたいということであって、そこにいろいろ付加的なメリットもあるよという話だ。

そんなわけで、拡散→収斂の道筋をたどるというパターンは、概ねやっているなぁという気がするのだけど、その拡散時のメモ書きは相当に汚くて見られたものではない。読解可能と不能のぎりぎりラインだ。毎回、そこから脱して企画書に到達したときの爽快感といったらないが、そこを脱するまでのこんがらがった感もない。

もう少しスマートな頭だったら、道のたどり方も違うのだろうけど、まぁそれも一つ人生の散歩道ということで、お茶を濁しつつ頑張る。とりあえず、思いつくこと全部文字にして書き散らかすというのは、私にとってとても大事な工程だなと改めて思った。あと、一対一で人とお話しするのは、やっぱり有意義で大好きだ。

2011-02-19

非常識なり異常なり

話は変わらないようで大きく変わるが、お葬式で故人を撮影するというのはどんなもんなんだろうか。母の告別式の際、棺(ひつぎ)にお花入れをするところ(つまり、この後は火葬場に行ってしまうので、もう本当にお別れよというところ)で、血縁上母にかなり近いところの女性が、携帯をもった腕をにゅーっと伸ばしてきて、母の顔をとらえて写真を撮っていたのだが、あれはいったい…。

カシャっていう音も響いたので、母の棺を取り囲む皆一同に、心中で相当度肝を抜かれたと思うのだけど。私も、母の顔のそばにしゃがみこんでボロボロ泣いている中、カシャ!が聴こえてきたので驚いて、まさか、というか、あぁ彼女だろうなぁと思って、心の中で「おーまーえーはー…」と突っ込んでしまったが。

が、今それに構っている余裕もなし、とにかくしっかり母とのお別れをしないとと思って放っておいた。そしたら、2度目のカシャ!がなって、おっと2枚目もいったか…と。いや、これは相当浮いていたと思うし、故人の娘として快か不快かと問われると、不快と言わざるをえない体験だった。

しかし、少し時間をおいてみると、その行為に対して反射的に不快感を感じた自分に、ちょっと待てよと思うのだ。つまり、あれは一言でいうと「非常識だ」ということになるのだが、私は特段、非常識な行いが悪いことだとは思っていない。彼女の心中を推し量っても、彼女なりに自分がいつも持ち歩いている携帯に母の写真をおさめておきたかったということなのだろうし、悪気があったわけではない。

となると、あの不快感をもう少しひもといておきたいところなのだけど。あの時私が感じたのは、これまでの文化背景を前提とした「不慣れ」からの不快感なんだろうか。慣れていないから、不快に感じた。もし、さいごのお別れには故人の写真を撮って、日々持ち歩くものに写真をおさめ、故人を忘れないようにするのだというような文化背景に生まれていたら、あるいは今後そんな考え方が一般化したら、不快感を感じないということになるんだろうか。

あるいは、あのカシャ!という、場にそぐわぬカジュアルな機械音によるものだったのか。音つきでなければ、不快感はなかったか。んー、音がなければ、そもそも気づかなかったかもしれないが。でも、音が鳴らずとも、あの腕がにゅーっと伸びてきた先に、母に向けられた携帯があるという光景は、どうにも腑に落ちなかった。やはり文化背景、慣れの問題だろうか。

あるいは、まだ母の魂も近くにあるであろうに、本人に断りもなくカメラを顔に近づけてアップで撮影することに、無礼な感じがしたのかな。あるいは、「死」という畏怖の対象に対してカメラを向けている、そのおそれの無さに同じ人間として恥ずかしさに近い感覚を覚えたのかもしれない。

なんとなく、全部をごちゃっとした感じでの、瞬発的不快感だったように思うけれども。先天的な不快か、後天的な不快か。よくわからないけれど、他の人のこういった非常識を頭ごなしに否定的にとらえないようにはしたい。この件がどうあれ、現代の非常識な行いが、新しい常識を生み出していく側面もあるし。自分がそれを選択するというのはなくとも、他の人がそれを選択するのを咎めるかどうかは別の問題だ。

このひと月、非常事態のまっただ中にあって、狭くみれば正常ではないなってとられそうな人のふるまいに触れることもいろいろあった。けれど、そういうとき、吉本隆明さんの「ひきこもれ- ひとりの時間をもつということ」にあったこんな言葉を思い出して、ほんとそうだなぁと思いながら静かに包容した。

「正常」ということを、あまり狭くとらえる必要はないのです。

この辺が私の地味な変人さである。

2011-02-17

非常事態の表現行為

母の病気発覚後、亡くなるまでの日々のこと、思うことをここに書きつけてきた意味について、ちょっとまとめておきたい。

一つは、前にも書いたけど、特に後半は一日一日容態が変化していくので、今日思ったことが翌日にはもはや過去の感情に移り変わってしまう状況にあり、その日思うことをきちんと書き残していきたいと思ったから。昨日は笑っていたのに、今日は意識が遠くにある。今日は意識がかろうじてあるけれど、明日になったら、自分のことが誰だかわからなくなってしまうかもしれないという恐怖があった。

明日にはまた別の感情に覆い尽くされて今日のことなど思い出せなくなってしまうかもしれないと思うと、今思うことを、今のうちに残しておかないと、今日の意味が流されてしまわないようにきちんと刻んでおかないと、という切迫した思いがあった。

一つは、母の生きた意味を、私なりのやり方で、何かの形に展開して人に届けたいという思いがあった。その方法が、私にとっては文章だった。書いたものというのは、読んだ人の心のうちで、また別の意味をうんでいくものだと考えていて、その人のなかで生み出される新たな感情や考えのきっかけになれたら、それはとてもありがたいことだし、母の生きた意味にも彩りを添えることになるんじゃないかという気がした。

一つは、これから迎える母との別れに対する、自分の受け入れ態勢づくりだったように思う。日々、つらいけど受け入れざるをえない現実を書き起こしていくことで、ぼろぼろ泣きながらのこともあったけど、少なくとも1日1日現実から目をそむけることなく生きてこられた。文章に書き起こすことで、私は現実を直視し続けてきた。これは、後から振り返ると大いに意味があったんじゃないかと思う。

涙もほとんど流さず日々献身的に、実際的に母の世話をし続けた妹は、最期の最期で一気に崩れた。しばらくは放心状態で、泣いて母を呼ぶか、固まっているかだった。それは彼女の無鉄砲さであり、強さでもある。私はたぶん、最初から無鉄砲にいったら自分を支えきれないことがわかっていて、そのときのための構えをとっていたのだ。とにかく一日ごとに現実を受け止めて、一気に衝撃を受けて自分が動けなくならないようにしていた。それはある意味では弱さであり、自分の弱さを知っている人間の知恵のようなものか。

もっともっといろんな意味をもって、書いていたのだと思う。でも、全部を言葉に表せるわけじゃない。それでいいじゃないかと思う。結局は、書きたかったし、書かないわけにはいかなかったし、直観にしたがって書きつづっていたということ。こういうときの直観は、本当に大切にしたほうがいいのだ。自分の直観を捉えられる感覚をもつこと、直観にしたがってすぐ動ける身体をもつこと、大事にしたい。

2011-02-16

葬儀を終えて

なんだかんだと結局、母が亡くなった日の晩も、翌々日のお通夜の日の午前中も、告別式を終えた連休明けも数時間単位で出勤し続けていたのですが、今日は丸一日お休みをいただいてお寺さん、お墓、仏壇屋さんをまわり、とりあえず明日からは仕事を平常運転することに。

2/10は、まず病院から母を連れて帰り、葬儀屋さんとの打ち合わせ。お通夜と告別式の日程を固めて、諸々詳細の詰め。大方決まったところで一旦会社に行き緊急の引き継ぎ。その後また実家に引き返し、方々に通知。母方の親戚はもちろん、関西圏の父方の親戚も雪の中多く足を運んでくださって、2/11は実家で来客対応と葬儀の準備。2/12は午前中人にふりようのない仕事をしに行って、午後から千葉に戻って母を葬儀場へ送り出し、私たちも後から入って母の旅支度のお手伝い。その後、お通夜。2/13は告別式から火葬場へ、その後また葬儀場に戻って精進落とし(というか会食)。その後、母の遺骨を収めた骨壺を抱えて家に帰り、またあれこれ葬儀屋さんとお話ししたり、家族内であーだこーだのやりとりがあって。なんというか、てんこもりでありました。

せわしなくやらなくてはならないことがある中で、母を失ってしまったという現実に向き合い続けるというのはなかなかハードなもので、なかでもきつかったのは、病院を出て行くときから始まるお線香、お焼香の場面。なんで母を目の前にして自分がお線香をあげているのか、これは相当やりきれないものがありました(それは今もなお)。

また、母の顔や身体を拭いてあげたり、お化粧してあげたり、旅支度をしてあげるのに身体に触れていると、今にも目をぱちっと開きそうな顔がすぐそこにあるのに、触れれば身体はすごく冷たくて、その都度涙がこぼれました。火葬場で母を見送るときも、たいそうしんどいものがありました。ただやっぱり、母を好いてくれている人たちに囲まれて時間を過ごせたのは、何よりの支えだったと思います。

母の葬儀には200人近くの方が参列してくださいましたが、母親の葬儀にどれくらいの人が来てくれるかというのは、なかなか見積もるのが難しいものですね。会場手配や香典返し、食事の手配などあって、葬儀屋さんにおおよその人数目処をきかれるのだけど、どこからどれくらい来るものなのか見当がつかない。母方の親戚、父方の親戚、ご近所、母・父・兄・私・妹の友人や会社関係などで、とりあえずざっくり分類してみて、それぞれおおよその人数を見積もるしかありません。

しかし、最大200とみていて、本当に200人弱の方が集まってくれ、少し混雑しているくらいだったけれど、母もどこかでみていたとしたらとても嬉しかったと思います。私の友人も、急な通知にも関わらずお通夜や告別式に来てくれたり、弔電をくださる方、メールをくださる方などあって、本当にありがたく受け止めました。

しばらくは、このお話に関連したことをここに書くことも少なくないと思いますが、「死」にかかわる話といっても、しんきくさい話というのではなくて、もう一歩何か意味をもった話として昇華しながら、思うところを書き起こしていけたらいいなと思っています。という一方で、今後はまぁ、それ以外の話もここにあれこれ書いていくかと思いますが、今後ともよろしくお願いします。

2011-02-10

母の最期の日

今朝早く、母が息を引き取った。少なくとも癌の痛みに苦しむことはなく、父、兄、妹、私の家族全員に看取られて。59歳は早すぎるし、癌の宣告からひと月半とはあまりに速すぎるが、とにかく。

聴覚は最後まで生きていると聞いていたのに、昨晩から今朝にかけて言葉にできたのは、「ありがとう」「そばにいるよ」「大丈夫」、そして「また、会おうね」の四言くらいだ。あとは、鼻をすする音ばかり聞かせてしまった。けれど、時折うなずいてくれ、時折笑ってくれた。

息が、苦しそうになっていき、ゆっくりになっていき、とまり、引き返し、そしてすべてをはき出すような終息が2回あって、途絶えた。ずっとずっと、手を握り、目を見続けていた。

私がここにこまめに書き続けていたのは、翌日になると、今日想ったことがもう終わりになってしまっているからだった。昨日と今日とでは、目の前の現実がまったく違うものになっている、日々それの繰り返しだった。そして宣告からひと月半足らずでいってしまった。ふた月前には普通に東京に呼んで、ひと月に一度の「家族でご飯の会」を開いていたのに。

信じられない。まだ全然信じていない状態で、それでも母の顔をみると、現実を受け止めざるをえなくてどうしようもない。

本当に美しい人だったのだ。人の心を思いやること、言葉を大切にすること、善良であること。そうやって生きていくのが、当たり前のことなのだと教えてくれたのが母だったと思う。会話やふるまい、人への向き合い方、日々のことを通して彼女は私にそれを示し続けた。親から自然と、そして無自覚に譲り受けるのは、「自分にとっての当たり前は何か」ということなのかもしれない。

さいごになりましたが、ここでお話を読んで、メールをくださったり、声をかけてくださったり、サポートしてくださったり、またご自身の家族のことを改めて想う機会としてくださった方に、心からありがとうを伝えたいです。心から感謝しています。

2011-02-08

生気の瞬間

日曜の時点で、これはもう一日おきに来ていては母の変化を受け止めきれないなと悟った。そこで今週は、午前休と午後休を切り替えながら毎日半休をとって、「1日目の午後と2日目の午前は病院」、「2日目の午後と3日目の午前は会社」というように動こうと企てた。

これなら身体の負担も少ないし、会社にも病院にも毎日行ける。「1日目の午後」で病院泊すれば、連日病院に泊まりこみかねない妹の負担も交代して軽減できるだろうし、「2日目の午後」で残業すれば、仕事のため込みも軽減できる。

しかし、事態はさらに速く進行した。日曜にわかれて月曜の晩、再び病院に来てみたら、一日しか経っていないのに、母の意識はすでに「今」「ここ」から離れてしまっていた。今がいつかを見失い、ここがどこかを認識していない様子で、目の前にいる私を捉えられなくなっていた。ずっと、くうを見ていて、時々うわ言のようなことを言う。

むごすぎた。一日一日、ものすごいスピードで事態が変わっていく。今日が、昨日より良くなるということはない。それはわかっていたけれど、直視する現実は、あまりにむごくて、言葉がない。毎日、毎日、未消化のまま、もっと先へ、もっと先へと受け止めきれないほどの変化が起こり続ける。

私は、もう間に合わない、月曜のうちにあの話の続きをしてあげないと、と思って来た。ほんの数日前のことだけど、母がまだ意識がしっかりしているときに、私は前世が見えるという人に会いにいったんだという話をしたのだ。ここに書いた話だ。母は、「それで、それで」と興味深げに聞いていた。そのとき大方ポイントは話したんだけど、私がその話で母に最も伝えたかったことを話せずじまいになっていた。

話の途中、看護士さんが身体をふきにきてくれて一旦中断したのだ。何かを話し込んでいるふうに見えたのか、看護士さんが「後にしましょうか」と言ってくれたけれど、母は少し考えた後、それも悪いという感じで「いいわ、お願いします」と応じた。そのとき、母は私に「その話、すごく興味があるわ。また続きを聞かせてね」と言った。

そうして身体をふき始めたところにおばあちゃんがやってきて、帰った後は病院の最上階に車いすを押して散歩に出て。それで母がだいぶくたびれてしまい、そこから数日保留にしたままになっていた。

私にしても、一番伝えたいことを伝えていない心残りがあって、火曜日では間に合わないと思って来た。それなのに、もはや遅かった。もっと早くに、残りの一つのことを伝えてあげればよかったと悔やんだ。だけど、今日はこのために来たのだ、きちんと伝えようと思って、母の手をさすりながら、この間前世の話をしたのを憶えているかと尋ねた。

無反応だった。それでも、話し続けた。あの話の続き。「現世で会っている人は、前世でも身近にいて会っている人なんだって」。やはり、くうを見たままだった。涙が出てきて、「だから、今会っている人とはね、来世になってもまた会えるんだよ」と泣きながら口にしたら、母が突然目を見開いて、はっきりした大きな声で、「あったり前じゃない!」と私を見て笑った。その瞬間だけ、驚くほど母の生気が戻った。私はもう今しかないと思って、「だからまた、会えるね」って声をかけた。当然という顔をして母は微笑んだ。

月曜の数時間、母の手を握りながらずっと見ていたけれど、母がしっかり戻ってきたのは、そのときだけだった。だったけれど、どうしても伝えたかったことを、母は当たり前のことと思っているのだとわかって、少し楽になった。まるでドラマのようなことが起こるものだなと思うけれど、こういうことって本当に起こるのだな。そしてまたすぐに、母はくうに戻っていったけれど。

2011-02-06

思うことを話せるということ

土曜の晩、仕事を終えて18時に会社を飛び出し、19時45分に病院到着。ここまでは水曜日と同じだった。しかし、水曜の晩は健やかな笑顔で迎えてくれた母の表情が、土曜日は一転していた。

痛みに苦しんでいるというのではない。ただ、薬を強くしたためか、またほとんどものを食べられない状態でまやくを服用し続けていることもあるのだろう、うつろな表情で、起きていたいのに、眠くて眠くてたまらないのだという。同じところにずっと寝ているせいもあるかもしれないが、今日、昨日、一昨日の区別も曖昧なところがあって、意識が混濁している感じがあった。

実は水曜の晩、病院の後に実家に帰ったところで、読むに耐えない医師の作成書類を父から渡されて目にしていた。今後予測される母の症状の変化についていくつかの記述があったのだけど、一番読んでいて耐えられなかったのは、後に「自分が誰だかわからなくなる」という記述だった。そんな恐ろしいことが母の身に起こるのかと思うと、本当にいたたまれない思いだった。ただそれでも今日明日のことではないようだったので、受け止めるのを保留にしていたのだ。

それが、木曜にいったん東京に戻って、土曜の晩に再び病院に来てみたら、一気にそれが差し迫ったような事態になっていて、とろんとした表情で一所懸命に目を開いて私に話しかけようとする母の手を握りながら、私はぼたぼた涙をこぼした。何度も何度もそれが握っている母の手にあたり、彼女は「あらあら、ボロボロ涙が落ちてくる」と言って微笑した。もはや、それで目をそむける余裕など残されていない。ぼたぼた泣きながら、私はしゃべり続けた。

日曜の午前中に病室を訪れると、母の意識はさらに遠くへ行ってしまっているように思えた。まだ、こちらの言っていることは伝わるし、自分で伝えたいことは、なんとか口を開いて二言三言話せるのだけど、とても、とても大変そうだ。それでも、力をふりしぼって話してくれたことを、とてもとても感謝している。

自分の心に思うことを、口にして話せるということは、とてもとても尊いことなのだ。それができる健康があるのなら、自らのその尊さを最大限に活かしてやるべきだし、他人のその尊さを、それがなんであれまずは受け止めてみることを当たり前としたい。

2011-02-04

おばあちゃんが来た

木曜日は振休をとり、水曜の晩は定時あがりして母の病院に向かった。会社から病院までドアツードアで1時間45分とみて、18時に出れば19時45分には病室に入れる。面会は20時まで。15分会えるなら迷いはなかった。おおよそ読み通りに病院の最寄駅に着き、そこまで妹が車で迎えにきてくれた。

病室に入ると、母は穏やかな様子で私を迎えた。病院の緩和治療のおかげで、緊急入院した前日に比べると、だいぶ痛みから解放されたようだった。

入院先の病院にはいくつかの病棟があるけれど、母のいる病棟は面会時間を気にしないでいいと言う。20時過ぎまでいても構わないし、家族なら泊まってもいいらしく、家族控え室もある。キッチンもあるし、寝ながら入れてもらえるお風呂もある(それは面会者用じゃないけど)。とにかく、そういう病棟なのだった。

とはいえ20時を少し超過して、滞在時間30分ほどでその日は父と妹と私で家に帰った。帰りに回転寿司に寄ったら、前日も父と妹がおんなじ格好しておんなじ時刻にやってきたらしく、お店の人が憶えていた。帰り際に「また24時間後に!」と威勢よく言われた…。割引券もくれた。

翌日は父と妹と私で、午前中から病院に行った。するとちょうどお昼時に、おばあちゃんが来た。母のお母さんだ。おばあちゃんは長く、母の姉一家と一緒に暮らしていたのだけど、痴呆がだいぶ進んで、このままでは介護している母の姉夫婦のほうが参ってしまう状況となり、数年前から施設で暮らしている。もう90歳になるだろうか。

この日も、伯母が施設に行ってみて、おばあちゃんに「どうする?会いにいくかい」と訊いてみないことには、行く気になるかどうかわからない状態だったということで、母を含め病院にいた私たちには突然の訪問となった。連れてきてくれた伯母とおばあちゃんを部屋の外まで迎えにいき、挨拶もそこそこに、おばあちゃんの車いすを押して病室に案内した。

母のベッドの前まで行き車いすを止めると、おばあちゃんはたどたどしくも一人で車いすを降りて、横たわる母の手を握った。「かわいそうに…」「どこが痛いの…」と泣きながら、しばらく母の手を握っていた。

母はおばあちゃんの手を握り返して、「本当は私がお母さんを守ってあげなきゃいけないのにね、ごめんね」と泣きながら謝った。おばあちゃんは、母のふくれあがったおなかに触れ、むくんだ足をさすった。私の視界に映っていたのは、ただただ、わが子を慈しむ一人の母親の後ろ姿だった。痴呆なんて、なんのそのだ。

その病院にいる1時間ほどの会話のなかでも、おばあちゃんが同じ質問を繰り返すことは何度かあったけれど、たとえここでのことをおばあちゃんが忘れてしまったとしても、母にとっても、おばあちゃんにとっても、この今の時間はかけがえのないものなのだと思った。人間はいつも、今を生きているのだ。思い出を残すために生きているわけじゃない。

その後、母のお昼がやってきて、伯母が作ってきてくれた細巻寿司を食べながら談笑した。おばあちゃんは母がベッドでぐったりしている夢をみたらしく、しっかりお話しできる状態でほっとしたと言っていた。

おばあちゃんは、母の病気のことをすべて知っているわけではない。病気をしたので、会社を辞めて、今は入院しているとしか知らないから、「きっと良くなるから」「あと少しの辛抱だから」と優しく母に声をかけた。

私が母の手から腕にかけてハンドクリームをぬり、軽くマッサージをしていると、おばあちゃんが「こんな子どもたちに囲まれてねぇ、幸せねぇ」と言った。母がそれに同意した。母のさいごに、私が何かできるとしたら、まさしくそれしかなかった。自分はこんなに愛されているのだと、何の疑いもなく満たされた気持ちで終えられること。それだけは、とにかく全うしたい。

2011-02-02

事態の急変

私が実家に戻っていた土日はそこそこ落ち着いているようにみえた母の容態が、月曜の朝からだいぶ悪化したらしい。ここしばらくは辛くなっても時間が経つと落ち着くようだったのが、今回は痛くなったとき用の薬も効きめなく、眠るに眠れず、火曜の早朝、母が病院(ホスピス)に入院させてほしいと泣きながら父に頼んだという。体調も、事態も急変したことを、先ほど父からの電話で知った。

主治医がいる病院の勧めで、以前父が見学しておいたホスピスに連絡をとり、すぐに受け入れられるとのことだったので、救急車を呼び、父が一緒に乗り込んでホスピスに向かった。家で入院の準備をして、妹が車で後を追いかけた。

いくつかの検査をして、母が食事時間を迎えたときに、父と妹だけ医師に呼ばれて別室で話をした。CTスキャンなどの検査結果を見せられて言われたことは、もういつ何があってもおかしくない状態だということ。思いのほか進行が速く、2週間か、1ヶ月か。会いたい人には会わせてやってと、ドラマの1シーンのようなことを言われたようだ。

2週間て、これまで何度あっという間の2週間を経験してきたかしれない。あの2週間かと思うと、ほんとやりきれなくて、どうしようもない。

母の病室に戻ったとき、そのことは度胸がなくて言えなかったと、父は電話口で声をふるわせた。検査結果を見せられて、だいぶ進行しているって話をされたとだけ、母に伝えた。ただ、母は勘のいい人だから、何か感じ取ったんだろう、泣きながら話を聴いていたという。

家に帰る途中の駅で、私は父と電話で話し、昨日・今日の一通りの話を聴いた。家の最寄り駅まで来て夜の街に足を踏み入れたとたん、大粒の涙がぼろぼろ落ちてきて止まらなかった。ただただ、連れて行かないでと懇願したけれど、届ける先がない。つらいなぁ。本当につらい。人間て、本当に大変な生き物だ。強くないとやっていられない。

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