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2011-01-30

日々ともに暮らす

母が余命2〜3ヶ月と言われてから、ひと月が過ぎた。年末の衝撃は否応なく緩和されてしまうところがあって、なんとも言葉につまる静寂のなかにいる。大泣きするでもなく、なかったことにできるのでもなく、日々の生活は続く。その事にあえて言及するでもなく、意識せず過ごせるわけでもなく。母の病気を前提に、非日常の日常的生活が営まれている。

今週末実家に帰ってみると、横になっている母と話す分には、表情も雰囲気もさほど変わらない様子。だけど、ここ1〜2週間で吐き気をもよおすことが多くなり、じょじょに生活のいろいろなことが大変になってきて、起きていられる時間も圧倒的に少なくなった。体の中で、確かに病気は進行しているのだと受け止めざるをえない。

一気にうわっと何かがおそってくるのではない、忍び寄るように変化していく体の様子を、ただ受け入れるほか、ないのだ。それを受け入れながら、少しずつ、以前は自分でできたことを家族にゆだねることを、自分の中で許していかなきゃいけない母の気持ちは、相当つらいだろうなと思う。

ベッドから離れ、ご飯を食べたりお手洗いに行ったりお風呂に入るという、退院後これくらいは自分でできるとやっていたことが徐々にきつくなっていって、体力の消耗を感じたり、吐き気につながったりする。次第にいろいろな福祉用の補助器具を持ち込んだり、家族や医師・看護士の手を借りて日常の何かをなすように生活が変化していくというのは…。

そういう状態だから、さいごだからといって思う存分何かを楽しむとか、どこかに出かけるとか言っている場合でもなく、とにかく、できるだけ横になって安静に日々を暮らす。ただ、病院ではなく家で過ごすことを守りきれればと思う。

そういう変化を静かに受け入れながら、たぶん一人になったとき、母も私たちもそれぞれに、いろんなことを思う。そして毎夜それぞれに母の夢をみているのかもしれない。私もここひと月は連日、母の夢をみている。母の夢というか、夢の中に母が出続けている。

毎夜ストーリーは違って、けっこうきちんとしたお話になっているのだけど、オムニバスのドラマのような感じで、主役級の登場人物は毎晩変わり、その脇役を母と私がいつもかためているというフィクション。一度は貴乃花と若乃花の和解ストーリーで、彼らの身内の役を母と私が割り当てられていたが、この脚本はいったい誰がいつ考えているんだろうか…。

ともあれ、そんなふうにひと月が流れ、ここに思うのは、日々ともに暮らすということが、何ものにもかえがたい「家族のこと」なんだなと。うまいこと、これ以上の深さで今はまだ言い表せないのだけど、「日々ともに暮らす」というのは、本当にかけがえのないことなんだなと思う。土曜も、日曜も、母がベッドの上で目に涙をためているのを、目にした。

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