多様性の考察
「社会は多様化している」とか「多様性を認めよう」という言葉は、昨今頻繁に耳にする。一方で、それができていない実情に触れる機会も多い。そういう実情に触れると、また「社会は多様化しているのだから、多様性を認めよう」という話が周囲で展開される。「周囲」というのがポイントだ。それを繰り返している気がする。
それで多様性について考えてみたのだけど、「社会は多様化しているのに、多様性を認められない」根っこには、多くの人が「社会」を対岸の火事として捉えているからというのが一因にあるのではないかと思った。つまり、社会のことと、自分の身近のことは別と。
定職に就くも就かないも自由だが、自分の子どもが定職に就かないのはいやだとか、子持ちで離婚するもしないも自由だが、自分の近しい友人だったら許せないとか、同性愛者が世の中にいるのは認めるが、親兄弟・大親友だったら認められないとか。
でも、それは多様性を認めているということにはならない。自分以外の身近な人の多様性を認めずして、多様性が認められている社会は確立しない。もちろん、すべての多様性を認めるべしという話ではないし、何の多様性を認め、認めないかという議論は別にあるだろうが。
基本的に、自分の身近でない「社会」がどうあるかには皆寛容なわけで、人の多様性を認めるというのは、自分のごく身近な人の多様性を認められるかどうかという話だと思う。それが大事だという話が本質なのに、よその多様性なら認めるという話に終始していても、何ら事態は変容しない。世の中とは自分たちの集合体なのだから。
ここでごっちゃにしちゃいけないのは、自分の価値観も多様であろうという話ではないということだ。自分の価値観は、それはそれで確固たるものをもっていて構わない。もちろん明確でないものなら、そのまま揺らしておいても構わない。それは本人の自由だ。多様性を認めようという話は、“身近な人を含んだ”自分以外の人の多様性を認めようという話だと思う。
そうするともちろん、自分の価値観に合わないことを身近な人が考えたり、それが行為に表れてきて、それをどうにも受け容れがたいことも出てくる。自分の価値観がそれなりにはっきりしてくれば、それは必然のことだ。
そのとき、自分の価値観とその人の価値観を必ずしも合わせる必要がないこと、人の価値観とは多様であるし、多様化しているのだということを前提に、そのごく身近な人と関われるかどうか、ふるまえるかどうかが問題ではないか。つまり、「言うか言わないか」の問題なんだと思う。
多様性の問題は、“身近な人の”多様性を認めることができるかが問われていることに、気づけていないことに起因するのかな、と思った朝のメモ。
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コメント
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ご無沙汰ですー
当事者意識を持つか,単なる評論家になるか,そういった感じでしょうかね.
最近,電子出版関連の仕事をしていて,(身近なものの多様性を受け入れられるかどうかという)同じような感覚を感じる時がままあります.
投稿: 馮富久 | 2010-12-13 09:21
馮さん、ご無沙汰ですー。お元気ですか。年末年始でお会いできるとよいですねぇ。
さて、コメントありがとうございます。そうですねぇ、実は自分が当事者であるということに気づけるか否か、みたいなところですかね。
電子出版関連とかは、ほんと生々しくそういう多様な価値観とのすりあわせの世界がありそうですね。ど真ん中で頑張っている馮さんの、生々しい話を聴いてみたいです…。近々、よろしくお願いします。
投稿: hysmrk | 2010-12-13 11:57