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2010-12-31

父のラブレター

入院した翌日から、父は毎朝「おはよー。」から始まるメールを母に送っている。面会にも毎日行っているが、面会時間は午後からなので、朝はメールを送るのだ。基本的に母は父につれないのだが…、29日のラブレターには母から返信があり、父はうひょひょーいという感じで飛び跳ねて喜んでいた。まるで中学生男子が好きな子からメールの返信をもらったような様子で、どきどきしながら母のメールを開封した。

「そう来たかぁ」などとつぶやきながら、返信文面の読解に苦慮しているのを横目でみていると、「やっぱり信頼されていないのかなぁ」と私に尋ねてきたりする。まさしく中学生男子の趣きだ。

父は自分が送った文面を私に見せるのをいとわず(そういうところが本当におもしろいなぁと思うのだけど)、「27日にはこれを送って、28日にはこれを送って、で、今日はこれを送って、その返信がこれなんだけど」と一通り見せて、「これってやっぱり俺が信頼されてないってことなのか…」と、またべらべらしゃべり続ける。

「わかってないなぁ、そこは、お母さんの希望をかなえるのが自分の幸せなんだからいいんだよって返してあげればいいんだよ。お父さんを信頼してないんじゃなくて、ただ遠慮してるだけなんだから」などと話すと、「そうか?そうなのか」と言って、また少し上向きになって返信文面を考えだしたりして。どこの中学生坊主だと思うが、親のしていることだと思うと、なんだかほのぼのする。

母に送るメッセージは、もちろんのことだが父が毎日熟考して仕上げる。晩から考えて、寝床で思ったこと、夢に出てきたことなどを都度書きつけておいて、朝起きてからそれを紙にまとめる。それを娘たちに見せて、そこで建設的な意見を受け付けたりする。長すぎる!とか、ここんとこは病院に行ってから話せばいいんじゃないの?とか、つまりこういうことでしょ?という要約などを口にすると、「そうかぁ?」と父がすきずきで採用したりしなかったり。

「熟考して仕上げる」という表現がしっくりいく日々壮大な朝のラブレターだ。それを妹が清書(携帯メールに打ち込み)して送信する。心を込めて文章をしたためるところまでが大事なので、入力は自分でなくてもいいらしい。自分でも携帯メールは使えるのだが、日ごとに文面が長くなっていくので、長文となると日が暮れてしまう。しかし、これは朝送らなくてはならないのだ。ということで、妹の出番である(私は携帯操作に弱い…)。

そうそう、この事態になって以来、父はずっと母のことを「お母さん」と言わない。子どもたちしかいないところでも、概ね母を名前で呼んでいる。そのことに、たぶん本人は気づいていない。家族の中で、もしかしたら私しか気づいていないかもしれない。が、もはや100%と言っていいくらい、今父は母を名前で呼んでいるのだ。それが、父にとって母が、子どもたちの母親ではなく、自分の妻としてしか見えていない程であることを如実に物語っているように思えて、静かにそれを愉しんでいる。

また、家にいても母の名前を頻繁に口にする。私があれこれの家事をやっていても、彼女はこうやっていた、生活の知恵だねぇとよく口をはさみ、こりゃ舅と嫁の関係だったらたまったもんじゃないだろうなぁと思うほどなのだけど、幸い私は娘なので、愛らしいなぁと思いながら「はいはい」と、言うことをきいている。そんな温もりを感じられる日々でもある。

2010-12-30

母の泣き顔

晩に母の余命宣告を受けた翌日の28日、少し気持ちを落ち着けて、荷物をまとめて千葉に戻った。年内最終日の会社は休んだ。母への贈り物を買いに新宿のデパートに立ち寄ったが、店内も駅や電車内も年末年始で家族連れが多く、いろんなことが思い出されてけっこう参った。

直接病院に向かえば面会時間に間に合う時間だったので、東京から病院に直接向かった。しかし千葉に入ってから、事故かなにかで電車が止まってしまって、途中からタクシーに乗り換えたら、思った以上に遠かったらしく…、なんと高速道路に乗る羽目になったり、降りても渋滞続きで、不憫に思ったタクシーの運転手さんが途中で料金メーターを「ここまででいいよ」と止めてくれたほどだった(それでも結構な額だったが…)。

そんなこんなで、面会できる時間ぎりぎりに滑り込むような形で病室に入ると、ちょうど母と、父と兄が、病院の医師から今後の治療法の選択肢など説明を受けているところだった。その日は父と妹が日中見舞いに訪れていたが、一旦家に帰り、父だけ医師の説明を受けに晩に病院に戻っていた。説明は終盤で、ほどなく終わった。余命宣告以後、母と初対面した。私は、できるだけ平静に話をした。着いてすぐ面会時間がすぎてしまったので、そろそろ帰ろうということになった。

そのとき、母は立っている状態だったので、出口のほうまで私たちを見送ってくれた。前に立っている兄に、母は握手を求め、兄がそれに応えた。母は兄を抱き寄せて、泣いた。兄は長く、だいぶ遅くまで仕事しているので、母は「体に気をつけて」と言った。まるでさいごみたいなことを言うと、思った。

その後、兄の後ろにいた私に向き合った。母は私を抱きしめた。泣いていた。悲しい気持ちが全身にあふれていた。私はできるだけ気持ちが伝わるように、母を抱きしめた。たぶん、気持ちが伝わったと思う。私と母は、その間確か、特に言葉は交わさなかった。母と私は、たぶん、すごく魂が近い。勝手な思い込みだけど、彼女もそう思っていると思って生きてきた。体を離してドアに向かった。彼女は泣きながら笑って手をふった。あんな泣き顔を見たのは、初めてだった。おいて帰りたくなかった。連れて帰りたかった。

病院を後にして、父と兄と私で、ご飯を食べて帰った。妹が家にいた。数日は、父と妹と私の3人で、この家に再び共同生活。とにかく全面的に、母のために心も頭も体も時間も、使い果たす。母にも、父にも、みんなで戦っているんだという支えが少しでも感じられるといいなと思う。

年末年始に、こういう文章をひとめにふれるところに書き連ねるのがどうかという思いはないわけではないけれど、きちんと、今思うことを書き残しておきたいので、書いています。書き残しておきたい理由を掘り下げようと思っても、その奥の理由はまだ言葉にならないのだけど。

2010-12-28

余命宣告

昨日ここに文章を書いた後に、父から電話があった。22時半頃、普段なら父はすっかり眠っている時間だし、ここしばらくはほとんど眠れていないようだったが、それでも床について横になるようにはしていた。夜中の電話だった。

私は、先週土曜の日中に実家に戻り、父と母と一晩過ごした。土曜は比較的落ち着いていたし、父とも母ともたくさん話をしたが、翌朝になると母の体調がだいぶ良くない様子で、母ができれば入院できたほうが安心だというので、検査日を翌日に控えていたが3人で病院に行った。紹介先の病院だ。たまたま担当セクションの医師がいるというので、だいぶ待ったがいくつか検査をして、前の病院の検査結果も踏まえて診てもらうことができた。

前の病院の検査時点で、ガンだとは宣告されていた。他所への転移があるとも言われていた。けれど、その程度は不明瞭だったから期待も十分に残されていた。しかし日曜日、専門の病院に足を運び、腕の良さそうな専門医から、ガンはかなり進行していて、摘出手術ができる状態じゃないと言われ、とにかく受け止めるのがきつかった。ただその時も、完全に先が断たれたというのでもない言い方だったし、もう少し検査をして、それに応じた作戦を練って、緩和させていくことはできるかもしれないという感じだった。

すぐ入れる部屋はあるというので、母の希望を受けて急遽その日のうちに入院することにした。入院の手続きが一段落して、母もベッドで落ち着いたところで、父と私は家に帰った。タオルやら下着やら洗面道具やら、必要なものを家中から集めてカバンにつめた。父がとにかくしゃべり続けながら、あれもこれも持っていってやろうと動き回るので、これは1つでいいとか2つあれば十分だとか言いながら一緒に整理して、明日やることリストも整理して、一段落した。

私は当初日曜の日中に帰る予定だったのを、晩の予定をキャンセルして遅くまであれこれやっていたので、父は「ありがとう。おかげでいろいろ準備できた。一人じゃなぁ」と言った。その週末実家に帰ってきて、本当によかったと思った。少なくとも、病院から家まで父を一人にはせずに済んだ。

月曜朝に東京に戻ってもよかったけど、父も少し一人になりたいかもしれないし、その日の深夜に妹が遠方から実家に戻る予定になっていたので、私は一旦東京に戻ることにした。駅で兄と妹に電話し、父に優しくと話した。涙が出た。

実家に戻った妹と、兄も翌朝合流して、月曜日は父と兄と妹、それから近くに住む母の姉が病院にお見舞いに行った。4人が病院に着いたのは午前中だったが、医師の診察は夕方になり、父と妹、そして母が医師の話を聞くことになった。

父が昨晩くれた電話は、その報告だった。私が立ち会った日曜日からさして検査結果の情報が増えたわけでもないだろうし、これからいろいろ検査をして作戦を練る…という段取りだと思っていたから、最初は今日あったことのざっくりした報告だと思って冷静に耳を傾けていた。

しかし、父が途中で、言葉を詰まらせた。そうして「今、一所懸命、きちんと伝えようと思って、先に紙に書いて、それを読んでいるんだけど…」と言って、また言葉を詰まらせ、「ごめんな」と謝った。しばらくして続いた言葉は、ガンは数がたくさんあって、大きいのもいくつかあって、もうかなり進行しているから、摘出手術はできないし、抗がん剤治療や放射線治療をしても、身体のほうが参ってしまう。ガンの治療法は大きく言ってこの3つだというから、打つ手がないことになる。あと残るのは「そのまま」という選択で、そのままでもって2〜3ヶ月、抗がん剤治療などしてうまくしてももって半年と言われたという。

ひどいなぁ。まだ59歳だ。がん検診も毎年欠かさずやっていたんだというのに、なんで急にこんなことになってるんだろう。母が具合が悪いと12月15日に最初の病院に行ったときなど、胃薬を渡されたという。つい先日のことだ。

昨日の晩まで、父と母の感情を入れ替わり立ち替わり持ち込んでいた心の器に、私の感情がどっと押し込んできた。数ヶ月先に、もう二度と会えなくなるのかと思いあたってしまったら、そこから抜けられなくなってしまった。またいつか会えるのだろうか。

父は母より7歳くらい年上で、また女性のほうが平均寿命も長いから、当然自分のほうが先に、と思っていて、そうなっても母が困らないように入念に準備してきたのだ。まさか、逆の事態におちいるなど、考えてもいなかった。父も私たちも、何の心の準備もできていなかった。大きな病気をしたこともなく、いきなりこれだ。本当にひどいなぁとしか、言葉が出てこない。とにかく、私は守らなきゃいけない。できることが限られているのは百も承知で、それでもたくさん感謝してる分、何十年も守り続けてくれた分、今度は私が守らなきゃいけない。

さっき、とにかく気持ちを伝えたくて、母にメールを送ったら、今、母から返事がきた。「ラブレターありがとう。 私も愛する子供たちに囲まれて幸せです。」しなやかな強さをもつこと、この大切さを教えてくれたのは、母なんだろうと思った。

2010-12-27

守る力

久しぶりに声をあげて泣いた。私よりつらい人の前で泣くのだけは我慢しようと思っていたのに、見事に決壊して両親の前でボロボロ泣いてしまった。涙は不平等だと思った。もっと泣きたい人が堪えているというのに、なぜ私のもとから先に出ていくのか。

昔、どんなに悲しくても涙は「8分しか流れ続けない」と聞いたことがあるが、あれは「8分おきに流れる」の間違いじゃないかと思う。それくらい、一旦止まってもまた…と断続的にやってきて、どれだけ流しても涙がかれない。

それでもとにかく、この週末実家に帰って、母と、父のそばにいられて良かったのだと、これだけは確かなことだと断言できる。実家に帰ってよかったというより、この週末私が実家に帰らないということはありえなかったのだという感じがする。細かいことはここでは書き控えるけれど、とにかく激動の週末を過ごして、日曜の夜遅くに東京に戻ってきた。

母と、父を、守ってあげたい。私の、力の及ぶかぎりではあるけれど、週末の時間を両親と過ごして、私は自分が、兄でもなく妹でもなく、自分だから二人にできることを、肌でつかんで帰ってきた気がする。それに、時間と場所を同じくしないと、どうしたって支えてあげられないことがあることも、すごくよくわかった。そばにいる父がどんな思いか、ひしひし伝わってきた。

私の心の器は、実はほとんど自分の感情で満たされることがなくて、多くの場合「それ」に関わる人たちの感情を入れ替え差し替え、自分の心の器に入れてみて感じ取るというふうに使われている。意識的にそうしているというより、衝動的にそうなってしまうといったほうが正しいのだけど。

だから、ここ数日は父と母の心を入れ替わり立ち代わり憑依させているような状態で、私自身というより、父と母の涙を代わりに流している感じすらある。もちろん結局は、私の勝手な憶測の持ち込みなので、二人の本物のつらさにはきっと及ばない。ただ、及ばなかろうがなんだろうが、この衝動は自分にも止めようがない。普段なら、衝動とはいえ時と場合のコントロールくらいしていると思うのだけど、今回ばかりは難しい。

だから、涙はまた親の前でこぼれてしまうかもしれない。けれど、もしそうだとしてもそれは仕方ないと割り切って、泣きながらでも笑って、泣きながらでもてきぱき動いて、泣きながらでも目をしっかりみて話したいと思う。それを我慢して、何かを伝え損ねたり、やり損ねるのは、きっともっとつらいことだ。

年末の仕事納めをしたら、再び実家に帰る。そこでまた自分のできることをしてきたい。そして、少し離れた東京からも、できることを一日一日届け続けたいと思う。

ただ普通に生きていくだけで、ただ前向きに、健やかに、平凡に、人に感謝して、事に仕えて生きていくだけで、こんなに悲しい思いをしなきゃならないなんて、人生ってむごいなと思う。けれど、それもかけがえのない人とのつながりがあってこそ。そのことへの感謝の気持ちを大切に、どんなときでも温かく人を包み込める強さとしなやかさを、静かに鍛え上げていきたいと思う。

2010-12-22

父と母の心のうち

火曜日の夕刻、iPhoneを見ると兄からの着信履歴があった。兄からの電話なんて、ほとんどないこと。悪い予感は的中した。母が大病をわずらったと言う。信じられなかった。一気にたくさんのことを考えすぎて、頭がパンクした。母にもらったいろんな事柄から人間の生命のことまで、右往左往して頭の中がせわしなく働き、心はただただ動揺していた。

PHSのほうに父からも2件の着信履歴が残っていた。何度折り返しても通話中が続き、なかなか家につながらなかった。数十分経ってようやく電話がつながり、父、そして母の声を聞いてやっと少し落ち着いた。思いのほか、落ち着いた声が聴けたからだ。しかし心中を思うと、いたたまれなかった。

今日が母の精密検査の日だった。父の携帯電話に夕方連絡をとると、検査結果からしてちょっと急いだほうがいいかもしれないというので、検査後直行して、父の元同僚の奥様が一年前に同じ病気でお世話になり、術後が良好だという病院へ予約に向かったと言う。年末年始に入ってしまうので、精密検査の今日を迎えるまでに病院にあてをつけておいたのだ。年内に予約がとれ、その日の医師の判断で今後のスケジュールが決まる。父が全面的に事を進めてくれている。

私に電話で簡明な説明をすると、父は「お母さん、検査痛かったんだって、すごく。痛さはお父さんには話せないから、お母さんにかわるわ」と言って、すぐ母にバトンタッチした。セリフはおっちゃんなのだが、振る舞いは一流の紳士だ。普段は振る舞いもおっちゃんなのだが、こんなときの振る舞いは一流の紳士顔負け、本当にかっこいいと思う。

絶対的な安定感があって、いつも私たちを守ってくれる。取り乱さない。それが自分の役割だとわかって、自覚的にやっているんだと思う。だけど、意識して頑張っているんだってそぶりも見せない。かっこいいなと思う。

でもきっと、一番身近な場所で、すごく不安な思いをしているのは父なのだ。一番踏ん張っているのが父なのだ。大好きなんだもの、母のこと。私たちより長く母と生きてきたんだもの。母のことを思っても、父のことを思っても、バケツが何倍あってもたりないくらい涙が出てしまう。

治療は大変だけど、絶対大丈夫だって信じているから、そのことに涙が流れるわけじゃない。だけど今、大きな不安にさらされた母の気持ちと父の気持ちを思うと、悲しくてたまらなくなる。

私にできることは、ただ、父と母がくれた愛情と同じくらい大きな愛情を父と母に抱いて生きている娘の気持ちを、できるだけ伝わるように伝えていくだけだ。だから結局、今ぐらいがいいかなと思うときに、できるだけ安定した言葉と声をもって、電話をかけて、話をして、気持ちを届けるばかりなのだけど。

いろいろ思ったり考えたりを繰り返しているのだけど、そのうちの一つの妄想。母は長いこと父に腹を立ててきたので、もしかするとそろそろ、母に父を許してあげなさいよって、そうして仲良く老後を暮らしていきなさいよって機会なんじゃないか。そういうふうに何か肯定的な意味を見出そうとするのが私の癖。そして私も、ここに受けた生を必ず、意味のあるものとして全うしなくてはならないと改めて思う。

2010-12-16

純粋な興味

久しぶりにMBTIネタ。11月にMBTI認定ユーザー対象の大研修会というのがあって参加してきた。後日、そこで感じたことをユーザー向けニュースレターに掲載するので原稿を書いてほしいという依頼があってお受けしたのだけど、原稿を書いて、出す前に依頼書を読み返してみたら、大研修会の中でも午後のセッションで得た学びについて原稿を書いてほしいという依頼だったことがわかり、もう1本書いて出した…。

でも、初めに書いた原稿のほうが自分にとっては参加した意義を感じているんだよなぁということで、それはここに残しておく。文章はちょっとラフに変えるけど、気持ちはそのままに。

園田先生が会の締めくくりに話されたことが一番の印象に残っている。技術も方法論も大事。だけど、“目の前にいる人に対する純粋な興味を持ち続けること”が何より大事なのだと。最後にこれをもってくるかぁと感服。というか、はっとさせられた。人格者だなぁと尊敬する人は、こういう押さえをほんと欠かさない。

トレーニングに参加したり、関連する文献を読んだりしていると、専門的知識・スキルを身につけようと頑張った分だけ、その人よりその人のことがわかるような錯覚に陥りやすくなる、その危険性に対して自分が無防備だったことにはっとさせられた。

確かにMBTIの理解は簡単なものではなく、認定ユーザーでない人に比べて、ある面では人間の心に対する理解の深さを持ちえたと言えるかもしれない。けれど、どんなに専門性を磨いても、本人の心は本人にしかわからないのだという前提を忘れてはいけないし、本人より自分のほうがよく見えているといったおごりに振り回されてはいけない。

その当たり前のことを阻む落とし穴が、より高い専門性を身につけていく過程にも潜んでいることを自覚した。そういう意味で、今後経験と学習を積み重ねていく基盤固めができたと思う。

河合隼雄さんが、著書「昔話の深層 ユング心理学とグリム童話」に書かれた一節ともリンクした。

われわれは太陽について、雨について、あまりにも多くの知識を得たために、太陽そのもの、雨そのものを体験することができなくなった。

太陽や雨のところを、「人の心」に置きかえて読み返してみる。

最後の「できなくなった」を「困難になった」に読みかえて、困難と知り、なお乗り越えていきたいと心に思う。素の私がもっている「目の前にいる人に対する純粋な興味」、そして「敬意」を大切に持ち続けて、今後も人の心に関わり、人のキャリア支援に仕えていきたいと思う。

2010-12-13

多様性の考察

「社会は多様化している」とか「多様性を認めよう」という言葉は、昨今頻繁に耳にする。一方で、それができていない実情に触れる機会も多い。そういう実情に触れると、また「社会は多様化しているのだから、多様性を認めよう」という話が周囲で展開される。「周囲」というのがポイントだ。それを繰り返している気がする。

それで多様性について考えてみたのだけど、「社会は多様化しているのに、多様性を認められない」根っこには、多くの人が「社会」を対岸の火事として捉えているからというのが一因にあるのではないかと思った。つまり、社会のことと、自分の身近のことは別と。

定職に就くも就かないも自由だが、自分の子どもが定職に就かないのはいやだとか、子持ちで離婚するもしないも自由だが、自分の近しい友人だったら許せないとか、同性愛者が世の中にいるのは認めるが、親兄弟・大親友だったら認められないとか。

でも、それは多様性を認めているということにはならない。自分以外の身近な人の多様性を認めずして、多様性が認められている社会は確立しない。もちろん、すべての多様性を認めるべしという話ではないし、何の多様性を認め、認めないかという議論は別にあるだろうが。

基本的に、自分の身近でない「社会」がどうあるかには皆寛容なわけで、人の多様性を認めるというのは、自分のごく身近な人の多様性を認められるかどうかという話だと思う。それが大事だという話が本質なのに、よその多様性なら認めるという話に終始していても、何ら事態は変容しない。世の中とは自分たちの集合体なのだから。

ここでごっちゃにしちゃいけないのは、自分の価値観も多様であろうという話ではないということだ。自分の価値観は、それはそれで確固たるものをもっていて構わない。もちろん明確でないものなら、そのまま揺らしておいても構わない。それは本人の自由だ。多様性を認めようという話は、“身近な人を含んだ”自分以外の人の多様性を認めようという話だと思う。

そうするともちろん、自分の価値観に合わないことを身近な人が考えたり、それが行為に表れてきて、それをどうにも受け容れがたいことも出てくる。自分の価値観がそれなりにはっきりしてくれば、それは必然のことだ。

そのとき、自分の価値観とその人の価値観を必ずしも合わせる必要がないこと、人の価値観とは多様であるし、多様化しているのだということを前提に、そのごく身近な人と関われるかどうか、ふるまえるかどうかが問題ではないか。つまり、「言うか言わないか」の問題なんだと思う。

多様性の問題は、“身近な人の”多様性を認めることができるかが問われていることに、気づけていないことに起因するのかな、と思った朝のメモ。

2010-12-05

前世をみる人の話

この間書いた「前世を聴いてきた」という話題で人と話をしていたら、もう少し書き残しておきたい気がしてきたので追加のメモを。といっても、私の前世話は飲み屋のネタにしかならないので、ここでは、私が自分のこと以上に興味深く聴いた、「前世をみる人」の世界観がどういうふうに成り立っているのかという話を。

まず「人は人として生まれ変わり続ける」という前提がある。もとをたどれば人の起源に到達するわけで、それ以前は動物だったかもわからないが、人になったところからはずっと、人は人として生まれ変わり続けているのだという考えに立っている。

ここで、東京に戻ってきてから人に突っ込みを受けて、「なるほど、確かに、どうなんだろう」と思ったのは、人の起源からたどれば現代、人口は爆発的に増えたわけだけど、その過程でどういう魂の増殖を遂げているのか、この辺は確かに謎。誰か、次行く人がいたら訊いてきてください。

話は戻って、その場で私が質問したのは「では、どれくらいの周期で生まれ変わるのか」という疑問。これは西欧のほうにそういう研究をしている人がいるとかで、「その人が生きた期間の3〜5倍の期間をおいて生まれ変わる」のだそう。つまり100歳生きれば次生まれ変わるのは死去300年後〜500年後、10歳で亡くなれば30年〜50年後には生まれ変わって出てくるという話。

「次に生まれてくるときは国も変わるのか」と質問してみたら、変わることもあるということだった。私は永遠の旅人なのだそうで、毎回違う国に生まれているのだそう。なんだか、一処に安住できない性質らしい。

これと関連して、別の質問に対して「現世で会っている人は前世でも、多く身近にいて会っている人だ」という話があったのだけど、これも東京に戻ってからの突っ込みで、「人によって生存期間もばらばらで、生まれ変わる周期も3〜5倍とばらばらで、地域もばらばらに生まれ変わるのに、なんで現世と前世でそんなに人と人の再会が成立するのか」と。「鋭いねぇ、確かにそうだねぇ」ということで、これも誰か行く機会があったら訊いてきてください…。

どうかなぁ、そういうありえなさそうな状況下でも時を超えて巡り会ってしまう限られた何十人だか何百人かの強固なつながりを誰もがもっていて、その人たちはご縁があるからこそ巡り会うのです、という話になるのかな。まぁ、人生ですれ違う人といったら数限りなくいるわけで、その人たちは記憶にあがってこないものね。

でも、こういう前提でいくと、生まれ変わっても生まれ変わっても、入れ物は変わるものの、主要な登場人物の入れ替わりはなく人生劇場を繰り返していることになるけれども。それはそれで、「そうなんですよ」と言われれば「そうなんですね」という話か。

あとは「人の運命は決まっているのだ」というのも、その人の説く人間運命学の前提で、生まれてきたときにすでに(1)その人が背負っている条件、(2)その人が生まれてきた意味(現世で乗り越えるべき課題や果たすべき役割)、(3)人生の中でのバイオリズムがある、という話だった。この辺を個別に話してくれる。

これは、他の人の体験記ブログなんかをみると、ある程度パターン化されているみたいだったけど、まぁ専門職として仕事でやっているのだから、ある程度そんなアウトプットにはなるかという感じ。私はけっこう平凡にこういうのを受け入れるので、たぶん細部はかなりパターン化して話しているんだけど、その人のパターンが何なのかを探り当てるところは、一般の人にない能力を発揮して何らかつかんでいるってバランスではないかと勝手にイメージしている。

で、もう一つ興味深かった考え方に、前世にも現世にも共通の「永続的に持ち続ける、その人本来の魂と肉体の性別がある」というのがあって、私は魂も肉体も「男」だそうな…(魂と肉体の性別が不一致の人もいる)。これはかなり腑に落ちた…。先に挙げた、私が現世で乗り越えるべき課題や果たすべき役割のために、今回は「女」で生まれてきたということで、ここのストーリーがつながっている。

その本来的な性別でいうところの男性が何を指し、女性が何を指すのかを整理しだすと、かなり一筋縄ではいかない話になりそうだけど、ざっくりその方の話からイメージするに、男性の魂というのは、人に求めず自分の問題は自分で解決する人間であり、逆をやろうと思ってもそれはできぬ人間であるって感じか。それは運命なのだから、それを自覚して生きていくのがよいと。

そう、この方占い師やカウンセラーとは名乗らず、研究者という肩書きなのは非常に正しいなという感じで、自分の研究成果を実証したいという想いが一番のモチベーションになっているんだろうなぁと思いながら話を聴いていた。そういう意味では、具体的な相談ごとをもっていくのにはちょっとそぐわない気がするけど、私としては話の抽象度とかちょうどよい話が聴けて面白かったなぁという感想。

人に自分のことを話される体験ってそうそうないので、それを一つの「刺激物」として受け取ったとみて、自分がどんなふうにそれを解釈して、どんなふうに次につなげていったり、逆に忘れていったりするかっていうのは興味深い。というわけで、別にオカルト方面にひた走っていったりしないので、その辺はご安心ください。

2010-12-03

前世を聴いてきた

京都に行ってきた。生きているうちに一度「人の前世が見える」という人に会ってみたいと思っていたら会えることになったので、話を聴いてきた。日帰りで京都、言って話してすぐ帰るみたいな強行スケジュールだったけど、なかなか面白い体験だった。それにしても結構お金がかかるものなのね、東京-京都の往復って。

私には取り立てて人に相談したいというネタがないので、占い師のところに行って「して、あなたの悩みは?」と切り出されても困ってしまう。なので、10代の頃に雑誌の後ろのほうで占いをチェックすることはあったけど、数千円を払って占い師にみてもらうというのはやったことがなかった。

私が会えるものなら会ってみたいなぁと思っていたのは、統計学とか学術的な理論を拠り所にしたものではなくて(いや、もちろんそれも兼ね備えた能力のほうが有効だろうけど)、その人がもって生まれた私には持ちえぬ生来的能力を拠り所にして、その人の見える私の話を一人べらべらしゃべり続ける人だった。私が何かネタを持ちかけずとも、ネタはつきないという感じで。

もちろんのこと、それが私の肌感覚で「あぁ、この人見えるんだな」と思えるもので、「話している内容もしっくりくるなぁ」というものでないと意味はないのだけど。そういう人が世の中にいるのなら、人生のどこかで会ってみたいし、話を聴いてみたいなぁと漠然と思っていた。

で、つい先日「オーラの泉」というテレビ番組を知って、そうかそうか、江原啓之さんみたいな人に話を聴いてみたいってことなんだなと、イメージが具体化された。ちなみに、相変わらずテレビがないので番組の存在を知るのが遅すぎるのはご愛嬌…。今話題の海老蔵さんゲストの回がYoutubeにアップされていて、彼はあそこできちんと言い当てられていたのにアドバイスを活かせなかったね的な感じで注目コンテンツになっていたのを観たのだった。

さりとて江原さんに見てもらうというのは到底無理そうだし、かといって、スピリチュアルカウンセラーと名乗る人なり前世が見えるという人なら誰でもいいってもんでもない。本当にその能力をもっている人でなければ意味がない(さらに必死に探す気もない)となると、こりゃ現実的にそんな人と巡り合うのは夢のまた夢かとあきらめた、まさに翌日。

晩に、とあるご縁で会食することになった女性が、おしゃべりの中でまさしくその能力をもった人の話を持ち出してきたのでビックリした。それも、どうやらかなりの本物っぽい。こりゃ偶然で片付けられんなということで、翌日そのスゴイ人に連絡を取り、その翌日である今日、早速京都に会いに行ってきた次第。いや、なんとなく、この風はタイミングを逃しちゃいけない気がしたもので。

行ってみたらまさしく一方的に話してくれる人で、とにかくその人が見える私のことを話しまくってくれた。それこそ私の欲しているところだった。いやはや、なかなか興味深いお話で、私自身のこともそうだけど、現世と前世の連関、それよりもっと前からの「人は生まれ変わり続ける」という世界観がどのように成り立っているのか、そのセオリーみたいな話も味わい深かった。いろんな人の話を聴いてみるのはいいもんですね。

で、私は現世でやるべきことをやらねばと。話されたことは、私が認識する私の人生の歩みと食い違いがなかったので、それをこれまでと違う幅の枠組みで見せてもらったような感じか。「で、あたってたの?」という問いに答えるとすれば、んー、「今までで私がわかることに関しては、見事にあたってた」と答えていいのかもしれない。

まぁ、そういう価値を求めていったのでもないから、特にそういう視点から評価する気もないのだけど、ともあれ、こういう非日常は時々やると楽しいもんですね。久しぶりだったかなぁ、こういうの。

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