優しさと知性と色気
優しさには、知性が必要不可欠だと思う(注:今回の話は相当「心のうち」色が強いです…)。例えば私と誰かの間になんらかの問題が生じたとして、そのときまず、その事象を自分が解決すべき問題として捉えられるかどうか(いや、まず最初は「がびーん」「めそめそ」だとしても、その後に)、自ら問題解決にあたろうという構えをとれるかどうかが、優しさに知性を要す始まりの一つだと思う。
自覚・無自覚を問わず、放置したり、気づけなかったり、困ってはいるけれど自分が解決すべき問題としては引き受けられなかったりすれば、それは「うやむや」という状態になり、何らかのストレス状態を増幅させることにつながる。ぬるま湯につかり続けることはできても、それは本当の優しさの対極にあると思う。
では問題解決にあたる構えをとれたとして、先の道筋はざっくり3つ。私を直すか、相手を直すか、私と相手との関係性を直すか(間に取り決めを設ける等)。ここで知性を持ち出すのが適当かはわからないけれど、とにかくそうしたものがない場合、まず「私を直す」という策は意識の上にあがってきづらいのではないか。無意識に「相手」や「相手との関係性」のいずれかに問題点を絞り込んで解決策を練り出してしまいがちなのではないかと。
しかし、この「相手」や「相手との関係性」に問題点を置くという選択は、いずれも相手のほうに何らかの不自然な行いを強いることになる。このことに意識が及ぶだけの心の状態が自分の中にあれば、なんらか心にざわつきを感知して、視野を広げて再考できるのではないかと思う。
一方の「私を直す」という策に目をやると、自らに何らかの不自然を強いることにはなるものの、3つの策のうち自分にとって最もコントローラブルな対処法であると言える。では何故そこにまず目が行かず、コントロールしがたい外界の2つ(相手か、相手との関係性)に問題点を置き、解決を試みようとするのか。
それは自分の目から見た認識世界からしか事象を捉えられていないままに、問題解決にあたろうとするからではないかと省みた。相手の側から見て、あるいは第三者から見たときにも同様に、それは「相手」あるいは「私と相手との関係性」に問題を置くのがまっとうな話なのか。そう落ち着いて捉え直してみるのには、やっぱり知性的であることが必要不可欠だと思う。
認知は自分が決めている。必ずちがう見方が存在する。自分の見方が世界の中心じゃない。
肝に銘じておきたい。そういえば以前、こんな言葉をつづったこともあった。
優しくありたいと思って優しい人になれるわけじゃない。優しくしたい人がいるから、優しい人になれるんだよ。
誰かに対して、どこかの場面で、自然と自分の優しさが発動されてしまったとき、「あぁ、私けっこう愛情深い人間じゃないか」と気づかされるくらいが、本当の優しさなのかもしれないな、と思う。優しくありたい、愛情深い人間でありたいと繰り返し唱えても、優しくしたい人、せざるをえない場面がなければ、それはなかなか叶わぬ願いなのではないか。
「じゃあ、私の周りにはそう優しくしたい人がいないし、そういう場面にも遭遇しないから、私が優しくないのは環境の問題?」という問いがあるとすれば、そういうものでもない。その環境の見え方もまた、自分の認識次第だったりするから奥が深い。別の人から見れば、その対象は優しくしたい人であり、優しくしたい場面と捉えられていたりもするのだ。
優しさというのは、健康な心の幹のもとに、知性や、ほかさまざまな枝葉とともに、時間をかけて育っていくものなのかなと思った。そうしてある日、私と誰かの間に問題が生じて、あぁ困った、あぁつらいなと痛みを抱えて、それでもなお、優しくせざるをえない人がいて、優しくせざるをえない場面に遭遇する。そういうときに、自分の中に湧く優しさに触れて、苦しさの反面、「けっこう優しいじゃないか、私…」と泣きながら笑う。そんなもんかなと。
そんなうっとうしいことを考えてしまいました。まぁ、お世辞にも色気のある優しさじゃないな、という読後感。
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