あまり使えない知識
棒読みするように覚えた知識は、人に言われれば「あぁ、知ってる知ってる」と返せるが、使える知識にはなっていない。だから、あの本を読んだ、このテーマのセミナーは受けたとは思い出せるものの、自分の日常を振り返ってみると、それを活かした実体験は思い出せないだろう。
これとは別に、使えるけどごく限られた文脈でしか使えていない知識というのもある。これをホワイトヘッドさんという人は「不活性知識」と名づけた。
例えば最近は、あるテーマについて教える/学ぶのに、ハウツーに限った教え方/学び方が少なくないが、その文脈でしか使えないとなると、かなり応用範囲が狭くなるし、ものすごいスピードで当たり前のやり方が変化していく現世では、その知識の寿命は大変に短いものとなる。そうすると、廃れてはまた新たにゼロベースで習得することの繰り返しになり、結果的に大変非効率な学習プロセスを辿ることになる、と。
じゃあどうすればいいかって、ハウツーを学んだ場合にはまず、今日はハウツーを学んだのだということに自覚的になることだ。そして、ハウツーを学んだということは、それを自分の日常に持ち帰ったときに、どう応用範囲を広げられるのか、そのためにはそのハウツーにどのような変更を加えないと活きないのか、それを息長く使える知識に昇華するためにはどのように解釈を展開すればいいのか、自分で考えることだ。
ハウツーに焦点をあてて教わった場合は、上に書いたような学習について、それをするもしないも、そこからどんな学びを経て日常に展開していくかも、完全に自分にゆだねられていると受け止め、学習を展開する必要がある。
ただ、いつもどんなテーマもハウツー中心で、そこからの帰納的学び方しかしていないと、すごく浅薄な学習体験しか知らないカラダになってしまう。
少なくとも、自分はこれを専門としているんだというテーマについては、演繹的学び方、それの原理、定義や方法論、応用展開などを基盤固めしていくような学びを積み上げていくことが大切だと思う。
そうすると、時代変化に応じてパーツパーツを入れ替えていくような学習も容易になるし、他のテーマについて学習するときに、どういう知識構造のなかの何を自分がハウツーとして学んでいるのか、あたりをつけて学習できるという副産物もある。
教える側は、ハウツーに焦点をあてた講座コンセプトだったとしても、可能なかぎり、応用展開しやすいように配慮してお話しすると、深みが増し、学習者にいろいろなイマジネーションの機会を提供できると思う。と、朝の走り書き。
※ちなみにハウツーは、それの興味関心をもつとっかかりとして有効なこともあるし、何より即効性が高い。なければ大変非効率な作業ともなるので、知識の必要性としてどちらが優劣と語りたい話じゃない。
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