「嫌い」という言葉
先日書いた「しいたけと嫌い」の話を読んで、
嫌いという言葉は使わないんですか! それはスゴいことです。食べ物以外でもそうですか?ちなみに藤井フミヤも嫌いではない、ですか?笑
とコメントをくださった方がいたので、その回答を書きました。コメント欄に回答を書いたのですが下にもコピペして残しておきます。書いてみたら一つのお話みたいになってしまったのと、その回答の後に再びいただいたご質問について別途話を書いてみようと思ったので、まずはと。というわけで、下は前回の話のコメント欄のコピペですが、よろしければご賞味ください(世の中全員がこうあるべきとは一切思いませんが)。
嫌いという言葉は使わないですね。食べ物以外でも使わないです。無自覚に使っているケースがあったらあれなんですが、少なくとも人については「嫌い」は使わないです。これは無意識的にもそうなるし、意識的にもそうしているので使っていないはずです。
あらゆるものをひっくるめて嫌いを使うのはしいたけくらいってことで、しいたけはだいぶ偉大な存在です。ときどき食べられないものを尋ねられて、「うなぎとしいたけ」と答えることがありますが、「うなぎが嫌い」というのは誤りで、うなぎは昔骨がのどにささって痛い思いをしたので食べたくない、つまりそれそのものの存在への嫌悪はなくて、あくまで出会い方が悪かったと認識しております。(笑)
私自身が、人から「嫌い」という感情を向けられたら相当きついなぁと思うからなのか、あるいは私自身のなかに「嫌い」という感情があることが自分的にきついなぁと思うからなのか、おそらく両方なのですが、特に後者の理由から自分の中に「嫌い」と認定されるような感情がわくことはないですね。
例えば、一般的に嫌悪感を与えそうな行動が誰かのふるまいに見られたとして、それの事情・背景を察する方向に意識がむくのが職業柄の使命のようにも思いますし、自然焦点はそこにあたります。ここ十数年はおおむねそんな捉え方をしてきたように思います。
藤井フミヤは、会ったことがないので好き嫌いでどうという答えが出てこないのですが、ラジオなんかで話しているのを聴くと、そういう考え方をする人かーと静かに受け容れる感じでしょうか。
状況に応じてですけど、2〜3割くらい本人を憑衣させて考えるのが癖みたいです。だから、嫌いというのはなかなか出てこないですね。あとは、そういう感情が出てくる危険性を伴う場合、そう思うところまでその人に近づかない、その人と自分との最も心地よい距離感を推し量ることで、好意を持ち続けたり、少なくとも嫌いにならないで済むってことはあるんじゃないですかね。
って、年寄りじみた話ですみません。むしろ私は、好き嫌いが激しい人のほうがエネルギッシュでスゴいなと思います。返信が一つのお話なみに長くなりましてすみません…。(笑)
というわけで、「好きのエネルギー」は次号に続く…。言葉にするの難しいなぁ。
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うーむ。やっぱり、コメント欄に書いた文章をそのまま上のようなお話にコピペしてもっていくと、型にあっていなくて気持ち悪いですね…。おおめにみてください。
投稿: hysmrk | 2010-10-24 00:52