ソーシャルメディアの村化
ソーシャルメディアっていうのは、自分でTwitterなりなんなりを使ってみないとわからないっていう前提がある。これは見方を変えれば、完全に自分の主観を排除して、客観的・俯瞰的視点をもってそれを捉えることが困難なものとも言えるのではないか。
とすると、例えば最近のソーシャルメディア云々が「村社会」に見えると嫌悪する場合、それはあくまで自分と自分とつながっている社会が、悪い意味で村化しているだけかもと疑ったほうがいい気がする。手段・道具として有意義に、一定の距離感をもって使い続けている人はたくさんいるだろうし、そこには街が広がっているのかもしれない。
少なくとも、例えばTwitterがまったくない状態の世界に戻ることは、インターネットがない世界に戻るのと同じくらい困ることなんじゃないか、と思った。つまりそれくらい必要性が定着したものと。だとしたら、悪い道具になって終わらないように意味を生み出し育んでいくのが、プロの仕事なのかも。というのは素人考えか。
« 「好き」のエネルギー | トップページ | 黙り込む話し込む »
コメント