翻訳語成立事情
「社会」や「個人」という言葉は、そう昔に作られたわけじゃない。「society」や「individual」という言葉が外国からやってきて、それが翻訳されたのは明治初期のこと。それまで日本に「社会」や「個人」という言葉はなかった。つまり、それが示す概念そのものが、日本人のなかでは言葉に表せるほど意識されていなかったということ。
知らない概念を日本語に翻訳するって、どれほど難儀なことだったろう。その辺りの事情と著者の考察がまとめられた「翻訳語成立事情」(柳父章著)を読みながら当時に想いをはせていたら、その難儀は今も同じかと思い当たる。けど当時の福沢諭吉の苦闘にはかなわないか。
近年の仕事まわりだと、「Web2.0」とか「エンゲージメント」とか。言葉が先に入ってきて、意味は説明されるけど、用例が少ない状態。ゆえに、いまいちそれが示す概念をつかみとれない。明治初期と違うのは、向こうとこちらにそう時差がないことかな。海外でもほぼ同時期にその混沌を味わっているのかな、と思う。よくわからないけど。
ともあれこの本は、今に通じる考察が面白い。翻訳された言葉って、同じような意味をもつ日常語と比べて、より上等、より高級という漠然とした語感に支えられているよね、と。天邪鬼にみればマイナスのイメージにもなるわけだけど、舶来品というのは概ね肯定的で、いい意味に受け取られる。
しかしこれ、「意味」は知識として入ってくるけれども、なにぶん具体的な「用例」に乏しい。ゆえに分かりにくい(けど、肯定的でいい意味)ということになる。ここで、分かりにくい言葉だと人は使わない、はい終了になるかと言えば、そうでもないよねという話。 著者は、
ことばに意味が乏しいことは、人がそれを使わない理由になるよりも、ある場合にはかえって使う理由になる
と指摘しているところが鋭い。「ある時期盛んに乱用され、流行語となる」としている。これを読んで、ごく最近なら「エンゲージメント」みたいな言葉なんだろうなと思い浮かぶ。
この本が出版されたのは1982年、この本が言及しているのは明治初期、そしてこの本を読んで共感している私は2010年に位置していて、いつの時代もおんなじような混沌があるんだなぁ、人って変わらぬ生き物だなぁと。
何らかの概念を日本語に翻訳するとなると、「既存の日本の言葉にあてはめる」「カタカナ表記にする」「新しい日本の言葉を作る」とかがあるんだろうけど、何を生み出しても、やっぱり完全イコールにはならない。
最近Twitterを見ていて、「user experience」を「ユーザー体験」と訳すと、どうもしっくりいかないというような声を見かけたのだけど、こういう感覚は今の時代もたくさんの言葉の周辺にあるんだろうなと思う。
私は原著にあたることがないので(英語読めない…)単なる憶測だけど、user experienceで言えば、本来意味するところに比べて、日本語の「体験」というのが“具体的”に寄り過ぎているって違和感じゃないかと思う。抽象-具象の軸がずれ、守備範囲が狭い感じじゃないかと思ったのだけど、あっているかしら。
言葉の意味範囲は文脈によっても変わるけど、言葉単体がもっている意味範囲というのもそれはそれであるわけで、しかし辞書にはオモテの定義しか表していないことがままある。ウラでその言葉がまとっている意味範囲をつかむ重要性を思う。
例えば、その言葉は肯定的な場面に用いられるか、否定的か。抽象的な対象に用いられるか、具象的か。目上の人に用いられるか、目下の人か。あるいは、そういった意味合いは特に持ち合わせていないのか。その守備範囲は広いのか狭いのか。どこを軸にしてどこまで範囲を広げているのか。言葉のウラには、こういう意味がまとわりついている。
でも、その感覚が漠としたまま、多くの人が分からない状態でも、言葉は生まれてしまった以上、何らかの意味をもつものという顔をして存在していく。面白いですねぇ。と…、また結論がないので、最後に、この辺りに言及していた先の本の一節を引用して終わる。かっこいいなぁ、この文章。
そして、ことばは、いったんつくり出されると、意味の乏しいことばとしては扱われない。意味は、当然そこにあるはずであるかのごとく扱われる。使っている当人はよく分らなくても、ことばじたいが深遠な意味を本来持っているかのごとくみなされる。分らないから、かえって乱用される。文脈の中に置かれたこういうことばは、他のことばとの具体的な文脈が欠けていても、抽象的な脈絡のままで使用されるのである。
この一節読んで、何の言葉を思い浮かべますかね。2010年初秋の私は「エンゲージメント」でした。
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