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2010-10-31

成功する腕

第二回インタラクションデザイン研究会に参加。内容は安藤日記さんでばっちりということで、私は個人的なメモをもそもそ書く…。インタラクションデザインをテーマにグーグルの方5人が登壇、なかでも印象に残った川島優志さん(@mask303)のお話を。

アンカリング効果、現状維持バイアス、サイモン効果、フレーミング効果など、理論に裏打ちされた効果とグーグルの取り組み実例をひもづけながらのお話(詳細は安藤日記さんで…)は、それ自体なるほどーの連続だったのだけど、一番耳に残っているのはそれら解説を始める前のこの言葉。

Aがいいか、Bがいいかは出てくる。でも、なぜそうユーザーが振る舞うのかはわからない

グーグルは言わずもがな膨大なデータを有しており、川島さんは日々それと向き合っている。だから、AプランとBプランでテストをすれば、AがいいかBがいいかは答えが出てくる。だけど、なぜユーザーがAあるいはBに大きく反応したのかはわからない。効果と実例をひもづけて解説した後にも、川島さんが「この○○効果によってこの成果が出たとは言い切れない」と確認を入れていたのが印象的だった。

わかっているのは、人は合理的には動かないということ

そういう前提をもって尚、プランを練り、ユーザーに問い、反応を受け取り、その根拠を探っている。安易に根拠を決めつけ、それをノウハウと呼んでしまえば話は終わる。けれど、そこに安住せず、日々変化していくことを当然のものとして答えを問い続けている。目の前にある根拠らしきものにも懐疑的な目をもち、わからない、これのせいじゃないかもしれない、次もうまく行くとは限らない、他国でうまく行くとは限らない、そのスタンスを崩さずに日々手探りを続けている。

終わりに話していたのは、こんなこと。

ユーザーのことをまだ全然わかっていない、だから新鮮な発見の連続
昨日正しいと思っていたものが、今日はもう正しくない。そんなものがいくらでもある

もしかすると、私たちは決して答えのない問題を日々問い続けているのかもしれない。でも、意味を問わずにはいられない。いられないから意味を問うのだけど、答えがあるかないかもわからない中で、論拠がなければ動けないと、1年2年足踏みを続けていても、事態は一向に良くならないどころか、後退するばかりだ。ここは割り切って、「答えなんてあるかないかもわからない、必ず成功する法なんて世界のグーグルだってもってやいないさ」ということで、やってみるほか道なしではないか。

私たちは、上等に出来上がっているもの、成功しているものを見ると、そこまでのプロセスに目を向けることなく、「自分とは違う」という評価を作り手に向けがちなのかもしれない(ってそれは私が凡人だからか…)。でも、その背景にはたいてい「上等」「成功」を実現するための実直なプロセスがある。それは決して奇異なものではなく案外スタンダードな方法論であり、ただそれを本当にやってのけていること、やり続けていることが大きいんだと思う。異常さがあるとすればそれは後者のほうで、そこに常軌を逸したストイックさがあるのではないか。

成功する法を心得、その腕を磨いてから策を打つのではなくていい。そこに志があるなら、策を打つ過程で成功の法を模索し、試行錯誤を繰り返し、腕を磨けばいい。その過程を経てしか結局、成功する腕を磨くことなんてできないのだ。勝手な解釈だけど、私はそんなメッセージを受け取り元気をもらった。

2010-10-29

黙り込む話し込む

しばらくへたれこんでいたのですが、どうにか昨晩くらいから復活しました。1週間ほど前か、明らかに覇気がないなぁと気がついて、んーと思いながら、仕事の他は「よく寝る」「本を読む」とかして静かにしていたのだけど、そこから2、3日しても変化なく沈んでいるふうなので、これは何か原因があるのだろうとあれこれ考えてみたところ、結構わんさか思い当たることが出てきて、あれまぁ…と。原因はこれらの集合体かという結論。身体が最初に症状を訴えるというのは、何か一本神経が足りないんだろうなと毎度思う。

この閉塞感のようなものがいつから始まったか考えてみると、うーん、久しぶりに小説を読んだりしたからかなーとか、具体的な仕事のあれかなーとか、微熱があったので体調のせいかなーとか、まぁいくらでも考えられるのだけど。

ただまぁ、何が引き金になったかは別にして、根本的なところは「やはりここか…」というのが昨日今日で鮮明になった気がする。今日はひょんなことから数人の人に1対1で話をする機会があって、ここ1週間ほどの沈黙(というか寡黙)をやぶって、私は堰を切ったように話をしていた。次から次へと言葉があふれてくるのを、別の自分が「うわー、よくしゃべるなぁ」と思いながら眺めていた。

私は、普段はかなりもくもくと仕事をする。もちろん打合せの場などでメインで話すときは率先して話をするし、1対1や少人数で親密に話をするときもおしゃべりになったりはするけれど、社内より社外の人とのやりとりがメインということもあって、もくもくと画面なり机上の紙に向かっていることが多い。ここしばらくはへこんでもいたので、いざしゃべろうとしても声がかすれて出てこないぐらいに口を開いていなかった。なので、今日はよけいに自分のしゃべりっぷりが印象的だった。

で、よくしゃべっている現実世界の自分と、それを「うわー、よくしゃべるなぁ」と見守っている自分のほかに、もう一人の自分がその過程をよく観察していた。私の話しぶりから、自分がどこに向かっていきたいと思っているのか、自分はどこを深めたいのか、そのためには何が不足しているのか、私はどんな問題意識をもっているのか、何がやるせないのか、そういうことを仔細に捉えようとしている自分がいて、今晩は昨晩よりだいぶ私をつかめた感がある。まだ具体的な行動レベルではないけど、自分の指針のようなものが見えた。何には振り回されなくていいのかも。

人にしゃべりながら考える中で、自分の答えが見えてくる。こういうのはやはりライブ独特のもので大事だなぁって思った。私はそういうことをどこでも誰でもできるタチではないので、それを無言のうちに許容してくれた今日の話し相手の方々には心から感謝したい。

「自分の声に耳をすます」というのは、黙り込んで自分と向き合う時間と、人に向き合って話し込む時間(他者の介在)と、両方を必要とするんだなぁと思った。人との対話の中から、あるいは本を通じて親密に著者と物語と向き合う中から、自分の声が聴こえてくることがある。その声は、たぶん自分の内で黙り込んでいても一向に聴こえてこない声なのだ、そう思った。

2010-10-26

ソーシャルメディアの村化

ソーシャルメディアっていうのは、自分でTwitterなりなんなりを使ってみないとわからないっていう前提がある。これは見方を変えれば、完全に自分の主観を排除して、客観的・俯瞰的視点をもってそれを捉えることが困難なものとも言えるのではないか。

とすると、例えば最近のソーシャルメディア云々が「村社会」に見えると嫌悪する場合、それはあくまで自分と自分とつながっている社会が、悪い意味で村化しているだけかもと疑ったほうがいい気がする。手段・道具として有意義に、一定の距離感をもって使い続けている人はたくさんいるだろうし、そこには街が広がっているのかもしれない。

少なくとも、例えばTwitterがまったくない状態の世界に戻ることは、インターネットがない世界に戻るのと同じくらい困ることなんじゃないか、と思った。つまりそれくらい必要性が定着したものと。だとしたら、悪い道具になって終わらないように意味を生み出し育んでいくのが、プロの仕事なのかも。というのは素人考えか。

2010-10-24

「好き」のエネルギー

前の話の続編で、

「好き」のエネルギーについてはどうなんでしょうか? 「好き嫌い」って表裏一体でもあると思うんですが。

という質問について、自分なりに思うところを書いてみます。

まず考えたのは、「好き嫌い」というのは“表裏一体”なのだろうかと。いろいろ考えまわってみたら、そうかなと思い至ったのですが、その途中で“対極”ではないんだよなって思いました。「好き」の対極は、私のなかでは「無関心」です。決して「嫌い」ではない。「好き嫌い」というのは、どちらも対象に対して関心をもっているという点で共通しています。そういう意味では表裏一体か…と思い至った次第。

で、私が日常的に抱いているのは「好き」か「無関心」で、「嫌い」を取り出すってことはそうそうないなぁと。だってエネルギー使うでしょう。「好き」と「嫌い」はその対象に対して自分の人生のエネルギーを注ぐわけで、エネルギーを使いたい、あるいは使わざるをえないときにそう想うのです。そうでないケースなら、エネルギーを消耗しない「無関心」領域においておくのが、おさまりどころとしてちょうどいいのではと思うわけです。

ただ、対象を「無関心」と「嫌い」のどちら領域に置くかは、環境にも左右されます。「ゴキブリも嫌いだろう」と言われれば確かに。「ゴキブリ嫌い?」とふいに尋ねられたら「嫌い」と返してしまいます…。ただ、これはなかなか根の深い問題でして。

ここ東京では、しいたけにしろゴキブリにしろ、出会う確率が非常に高いわけです。どうしても距離が近い。ゆえに「嫌い」領域に入ってしまいやすい。これが、ゴキブリが出ない国や、しいたけをほとんど食さない地域に住んでいたらどうでしょう。私のしいたけやゴキブリに対する想いは、おそらく「無関心」領域に入ります。私には極力「嫌い」なものは少なくしておきたいという前提があるので。いやはや、「嫌い」か「無関心」かが環境に左右されるとなると、ますます「嫌い」と認定することの戸惑いは大きくなるばかりです。

まだ「好き」のエネルギーの話に踏み込めていませんが…。先に話したとおり、「嫌い」の感情については、好んでその感情を抱こうとか、表しようとは思わないという前提が私にはあります。なので、「嫌い」をもつには相応の理由が必要になる。

けれど、例えば仮想敵を作ることでエネルギーを起こすとかは性にあわないし、それよりは自分の内側で内的なエネルギーを起こしたほうが健やかに頑張れる。自分の劣等感をうやむやにするために人を下に見るのとかも、なんか人として弱いなぁと思うので、自分の感情としては採用しがたい。「嫌い」を望んでもつ動機はまず見当たらない。

それ以外で考えられるのは、「自ら望んでじゃないけど、嫌いになっちゃうのよ」ってケースだけど、まぁこれは仕方ない。でも、人の多様性を認められれば認められるほど、あと自分と対象との距離感をコントロールすることでも、「嫌い」エネルギーを注がずに済むことは多いんじゃないかなーと思う。この辺は職業柄日々鍛えていますが、まぁゴールのあるものじゃないので日々精進。

って結局「好き」のエネルギーについて、あまり話していないことになるのか…。とりあえず、「好き」という感情は肯定的に受け止めているという点で、そこには「嫌い」感情と対比して私のなかに大いなる差があるように思います。

もう一方で、「好き」と「嫌い」に向けた共通の捉え方というのも私のなかにはあって、それはどちらも行為ではなく状態として見ているなぁということ。「好きである」「嫌いである」という状態をできるだけ澄んだ目で「へぇ」と捉えようとしていて、「好きになろう」「嫌いになろう」と思うことってないかなぁと。これはみんなそうなのか、人それぞれなのかよくわからないけど。昭和時代のドラマとかではよく、「あの人を早く嫌いにならなきゃ」みたいなセリフありましたよね。ああいうのはもう古いのか、もともと仮想の感情だったのか。

あるものはある、ないものはない。行為として捉えることがあまりないというのは、言い換えると、自分の「好き嫌い」の感情に対してあまり関心がないってことですかね。それよりも、そこにどんな本質的価値があるのかに関心を向けるほうが有意味だと思っている感じがします。自分の感情に重きをおくと、大事なそれを取りのがしてしまうような怖さがありますね。なんだか相当遠いところにきてしまった気がするので、とりあえずこの辺で。何もまとまっていない…。

「嫌い」という言葉

先日書いた「しいたけと嫌い」の話を読んで、

嫌いという言葉は使わないんですか! それはスゴいことです。食べ物以外でもそうですか?ちなみに藤井フミヤも嫌いではない、ですか?笑

とコメントをくださった方がいたので、その回答を書きました。コメント欄に回答を書いたのですが下にもコピペして残しておきます。書いてみたら一つのお話みたいになってしまったのと、その回答の後に再びいただいたご質問について別途話を書いてみようと思ったので、まずはと。というわけで、下は前回の話のコメント欄のコピペですが、よろしければご賞味ください(世の中全員がこうあるべきとは一切思いませんが)。

嫌いという言葉は使わないですね。食べ物以外でも使わないです。無自覚に使っているケースがあったらあれなんですが、少なくとも人については「嫌い」は使わないです。これは無意識的にもそうなるし、意識的にもそうしているので使っていないはずです。

あらゆるものをひっくるめて嫌いを使うのはしいたけくらいってことで、しいたけはだいぶ偉大な存在です。ときどき食べられないものを尋ねられて、「うなぎとしいたけ」と答えることがありますが、「うなぎが嫌い」というのは誤りで、うなぎは昔骨がのどにささって痛い思いをしたので食べたくない、つまりそれそのものの存在への嫌悪はなくて、あくまで出会い方が悪かったと認識しております。(笑)

私自身が、人から「嫌い」という感情を向けられたら相当きついなぁと思うからなのか、あるいは私自身のなかに「嫌い」という感情があることが自分的にきついなぁと思うからなのか、おそらく両方なのですが、特に後者の理由から自分の中に「嫌い」と認定されるような感情がわくことはないですね。

例えば、一般的に嫌悪感を与えそうな行動が誰かのふるまいに見られたとして、それの事情・背景を察する方向に意識がむくのが職業柄の使命のようにも思いますし、自然焦点はそこにあたります。ここ十数年はおおむねそんな捉え方をしてきたように思います。

藤井フミヤは、会ったことがないので好き嫌いでどうという答えが出てこないのですが、ラジオなんかで話しているのを聴くと、そういう考え方をする人かーと静かに受け容れる感じでしょうか。

状況に応じてですけど、2〜3割くらい本人を憑衣させて考えるのが癖みたいです。だから、嫌いというのはなかなか出てこないですね。あとは、そういう感情が出てくる危険性を伴う場合、そう思うところまでその人に近づかない、その人と自分との最も心地よい距離感を推し量ることで、好意を持ち続けたり、少なくとも嫌いにならないで済むってことはあるんじゃないですかね。

って、年寄りじみた話ですみません。むしろ私は、好き嫌いが激しい人のほうがエネルギッシュでスゴいなと思います。返信が一つのお話なみに長くなりましてすみません…。(笑)

というわけで、「好きのエネルギー」は次号に続く…。言葉にするの難しいなぁ。

2010-10-19

しいたけと嫌い

今朝の夢は、しいたけだった。藤井フミヤと横並びで、キノコづくしみたいな料理を一人一皿ずつ前にして、キノコを食べている。その前にも長いストーリーがあったのだけど、どうもその仕事帰りのゴハンだったっぽい。

私はしいたけが食べられない。しいたけ以外のキノコはまったく問題ないのだけど、しいたけはダメなのだ。あれはまずい。しいたけは昔から今に至るまで、ずっと嫌いなのだ。どうしよう、よそってくれた、そして隣でもぐもぐ食べている藤井フミヤに、「私、実はしいたけが苦手でして…」と残す宣言をしていいだろうか。

いや、もう十分に大人なのだし、よそってくれたのは仕事相手なのだし、ここは克服する良いチャンスと割り切って、目の前のしいたけに手をかけるべきではないか。そしてしいたけをまじまじと見つめる。箸をかける。しかしこれ、克服のための第一歩にしてはあまりに大きすぎる。姿そのままで、サイズも10cmくらいに見える。これは大きすぎるだろう。

突き進むか引き返すかうじうじ考えながら、しいたけのお腹のあたりをしばらく見つめていると、気持ち悪くなってきて、うわぁー、やっぱりこれは無…というところで目が覚めた。ひどい夢だった。

私は「嫌い」という言葉をほとんど使わない。たぶん、ここ10年だか20年だか、記憶するところだとしいたけにしか使っていない。苦手なものはあるけれど、嫌いなものはしいたけぐらいだ。

若かりし頃、しいたけも苦手なものに位置させたほうがしっくりいくんじゃないかと検討したことがあった。嫌いなものはゼロにしたほうが気持ちよく生きられるのではないかと。でも、「嫌い」と思うものが一つもない人間として自分を認識するというのは、なんか完璧を追求しすぎて結局自分の本当の姿が見えなくなっている滑稽な人に通じる気がした。

嫌いという感情を正面から自他に公言できる存在を一つもっておくのは、それはそれで健全なのではないか。その役を人ではなく、寛大なしいたけに一任させるというのは、なかなか落ち着きがよい。ということで、長いことしいたけ嫌いを甘んじて受け入れている。

しいたけには、そういう意味では感謝しているのだ。本当だよ。その唯一無二の役割をずっと担い続けてくれているんだから。だから今後もそういう位置づけで、私のなかに大きな存在であり続ける。決して無視したり、無関心であったりって非情な気持ちはもたない。君のことは決して忘れないよ。だから、夢には出てこなくていいよ。スーパーで時折目に入る程度でいいから。

しかし、なぜ藤井フミヤだったのか…。

2010-10-17

翻訳語成立事情

「社会」や「個人」という言葉は、そう昔に作られたわけじゃない。「society」や「individual」という言葉が外国からやってきて、それが翻訳されたのは明治初期のこと。それまで日本に「社会」や「個人」という言葉はなかった。つまり、それが示す概念そのものが、日本人のなかでは言葉に表せるほど意識されていなかったということ。

知らない概念を日本語に翻訳するって、どれほど難儀なことだったろう。その辺りの事情と著者の考察がまとめられた「翻訳語成立事情」(柳父章著)を読みながら当時に想いをはせていたら、その難儀は今も同じかと思い当たる。けど当時の福沢諭吉の苦闘にはかなわないか。

近年の仕事まわりだと、「Web2.0」とか「エンゲージメント」とか。言葉が先に入ってきて、意味は説明されるけど、用例が少ない状態。ゆえに、いまいちそれが示す概念をつかみとれない。明治初期と違うのは、向こうとこちらにそう時差がないことかな。海外でもほぼ同時期にその混沌を味わっているのかな、と思う。よくわからないけど。

ともあれこの本は、今に通じる考察が面白い。翻訳された言葉って、同じような意味をもつ日常語と比べて、より上等、より高級という漠然とした語感に支えられているよね、と。天邪鬼にみればマイナスのイメージにもなるわけだけど、舶来品というのは概ね肯定的で、いい意味に受け取られる。

しかしこれ、「意味」は知識として入ってくるけれども、なにぶん具体的な「用例」に乏しい。ゆえに分かりにくい(けど、肯定的でいい意味)ということになる。ここで、分かりにくい言葉だと人は使わない、はい終了になるかと言えば、そうでもないよねという話。 著者は、

ことばに意味が乏しいことは、人がそれを使わない理由になるよりも、ある場合にはかえって使う理由になる

と指摘しているところが鋭い。「ある時期盛んに乱用され、流行語となる」としている。これを読んで、ごく最近なら「エンゲージメント」みたいな言葉なんだろうなと思い浮かぶ。

この本が出版されたのは1982年、この本が言及しているのは明治初期、そしてこの本を読んで共感している私は2010年に位置していて、いつの時代もおんなじような混沌があるんだなぁ、人って変わらぬ生き物だなぁと。

何らかの概念を日本語に翻訳するとなると、「既存の日本の言葉にあてはめる」「カタカナ表記にする」「新しい日本の言葉を作る」とかがあるんだろうけど、何を生み出しても、やっぱり完全イコールにはならない。

最近Twitterを見ていて、「user experience」を「ユーザー体験」と訳すと、どうもしっくりいかないというような声を見かけたのだけど、こういう感覚は今の時代もたくさんの言葉の周辺にあるんだろうなと思う。

私は原著にあたることがないので(英語読めない…)単なる憶測だけど、user experienceで言えば、本来意味するところに比べて、日本語の「体験」というのが“具体的”に寄り過ぎているって違和感じゃないかと思う。抽象-具象の軸がずれ、守備範囲が狭い感じじゃないかと思ったのだけど、あっているかしら。

言葉の意味範囲は文脈によっても変わるけど、言葉単体がもっている意味範囲というのもそれはそれであるわけで、しかし辞書にはオモテの定義しか表していないことがままある。ウラでその言葉がまとっている意味範囲をつかむ重要性を思う。

例えば、その言葉は肯定的な場面に用いられるか、否定的か。抽象的な対象に用いられるか、具象的か。目上の人に用いられるか、目下の人か。あるいは、そういった意味合いは特に持ち合わせていないのか。その守備範囲は広いのか狭いのか。どこを軸にしてどこまで範囲を広げているのか。言葉のウラには、こういう意味がまとわりついている。

でも、その感覚が漠としたまま、多くの人が分からない状態でも、言葉は生まれてしまった以上、何らかの意味をもつものという顔をして存在していく。面白いですねぇ。と…、また結論がないので、最後に、この辺りに言及していた先の本の一節を引用して終わる。かっこいいなぁ、この文章。

そして、ことばは、いったんつくり出されると、意味の乏しいことばとしては扱われない。意味は、当然そこにあるはずであるかのごとく扱われる。使っている当人はよく分らなくても、ことばじたいが深遠な意味を本来持っているかのごとくみなされる。分らないから、かえって乱用される。文脈の中に置かれたこういうことばは、他のことばとの具体的な文脈が欠けていても、抽象的な脈絡のままで使用されるのである。

この一節読んで、何の言葉を思い浮かべますかね。2010年初秋の私は「エンゲージメント」でした。

2010-10-12

当たり前感覚の移行

この休みの間に、思い切ってiPhone4を買った。思い切ってというか、もういい加減、自分の「当たり前の生活を何とするか」とか「習慣を何とするか」をリデザインしないといけない時期だなと。期が熟しすぎた…。

日曜に「よし、買ってしまうか」と思い至り、ショップに行ったら意外にも在庫があって、すぐ持ち帰ってきて、いろいろ最初に覚えなきゃいけないことを読んだり調べたり、初期設定したり、フリック入力ってこんな操作をいっていたのかと今さら感嘆したり(あんなの思いつくなんて人間てすごい)、慣れない手つきであれこれやっていたら疲れてしまって、月曜までもたなかった…。あとはのんびり慣らしていこう。

で、無性にiPhoneから離れて本を読みたくなり、そうそう…とAmazonのウィッシュリストに入れておいた本を買い求めに近所の本屋さんへ。しかし置いていない。お店の人にきいてみたら、その本は1982年に出版されたものなので在庫はないとのこと。なるほど、そんな古い本ならそりゃそうかと思い、お礼を言って本屋を後にする。

そのまま新宿の紀伊国屋書店に向かい、ここならあるかなぁと思ったけれど、ない。岩波新書の本なのだけど、この種が1つの本棚を占拠しているとはいえ、ここに1982年ものまでは置けないよな、とはいえ岩波新書に本棚2つ割くわけにも、と一人納得。Amazonで買うか、と落ち着いた。

この一連の中で胸のうちにわいた「そりゃそうか。1982年のものを在庫で抱えるってそりゃないよな」という感覚があまりにすっと自然な感じで、その腑に落ち加減に時代変化を感じた。いよいよ、「当たり前」を何とするか、その感覚自体が私の中でさっぱり前時代と変わってきたなぁと。

古い本は本屋になくて当たり前。大きい本屋でもまぁない。そういうのはネットで買うほうが理に適っている、話が早い。そういう感覚がすっとそこにある。気づけば大型書店も「行けばなんでもある本屋」という顔つきではなくなっていた。いろんなテーマ軸で本と巡り会わせてくれる、出会う機会を与えてくれるテーマの幅が広いって感覚に移行を終えていた。15年前の学生だった私は確かに、大型書店を「行けばなんでもある本屋」って顔つきで見ていたのを憶えているのだけど。

で結局、今日はポール・オースターの「オラクル・ナイト」に巡り会わせてもらった。うれしいなぁ。1階をふらふらしたところでたまたま見つけた。やっぱり書店は、そういう意味で足を運びたい場所だよなぁと思った。店に入る前には知らなかった、出会うべき本と巡り会わせてくれる場。本屋さんにはその役割を心から期待したい。

それにしても、ポール・オースターはやっぱりいいなぁ。ここしばらく仕事がらみの本ばかり手にしていたので、いちいちその豊かな描写力に感嘆してしまう。言葉の美しさが半端ない。事象の表し方もこの上ない。オースター、すばらしい。訳は柴田元幸さん。これまたすばらしい。

と、好き勝手書いた日記を読み返してみて一言を考えるなら。普遍的な価値をより深く愛するために、「当たり前」の感覚は変化をいとわない人間でありたい。思うのはそんなことかなと。というわけで、iPhone4を買って良かったのだ。ちょっと手を出すのが遅すぎた感は否めないけど。

2010-10-10

受託型体質

自分の仕事の役割については、原則不要論を唱える立場を基点として仕事をしている。別に悲観的にそう捉えているわけでもないし、主体的に仕事していないというのでもない。たぶん死を意識することで、より意味のある人生を送ろうとするのと同じスタンスで、最上の仕事をするためには、「私の仕事ってなくても成立するよね、じゃあなんでやるの?」ってところを起点にものを考えたほうが、逆に健全な発想ができるという感じだと思う。あえて言葉にするなら。

言い方を変えればこれは、私のような部外者が仕掛けなんぞ作らなくても、やりたい勉強は自分でやるさという人を、サポートする対象者の基点においているということだ。こういうスタンスでいたほうが、人の可能性を信じる気持ちが前提になっていて気持ちがいいし、高レベルな学習支援にも対応できるようになるし、実際そこを軸にしていかにその人の学習をサポートするかという立ち位置をとらないと、本質的な学習など成立しないのではないかと思う。馬を水際まで連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないのと同じで。

個人的に、そうまでして水を飲ませたいとも思わない。何かを学びたい(あるいは組織としてこういうチームを築いていきたい)という当事者の展望なしに、頼まれてもいないのに「さぁ、立ち上がって!こっちにすばらしい世界があるから」と何かを訴求するエネルギーというのは、ないんだよな。人それぞれ、組織もそれぞれ。生き方がいろいろあるからなって思ってしまうので、ある学習テーマが「絶対的に重要なのである」「これは万人が共通して習得すべきものなのである」と働きかけたいテーマもエネルギーも、実はこれといってない。その熱は都度、先方の課題に応じて講師にゆだねているのかもしれない。

学習方法の面からみても、例えば学習の専門家として「あなたのやっている学習の仕方より、こうやって勉強したほうが能率的だよ」って方法論をもっていたとして、必ずしもそれに切り替えるのが良い選択とは思わない。一つの学習テーマでは回り道に見えたとしても、当人が試行錯誤しながら習得していくこと、それにはその価値があると思うし、それを短絡的に取り上げるようなアプローチは(そもそもそんな権限はないのだが)ちょっと違う気がする。もちろん当人の悩みが能率的な方法論を知りたいということであれば、この限りではないが。

というわけで、絶対的な推奨テーマをもたないという意味では実にはかない私のエネルギーなのだけど、当事者から相談をもらって、なるほど、そういう状況ならこれをこんな方法で習得することで明るい未来が手に入れられますねっていう対象者と文脈が見えてくると、それに適したコンテンツを提供したくなる。

こんなことで困っているとか、こういうふうになりたいとか、それ自体は漠然としていていっこうに構わないのだけど、何かしら変えたい、変わりたいという欲求のわいているところに仕えたいという思いがある。困っているのだ、前進したいのだという人に対面すると、そこでぐんとドライブがかかる。そういう体なんだな、と思う。ここ数年クライアント仕事中心にやってきて、すっかり受託型体質になったなぁと思う(受け身という意味ではない)。

ともあれ、自分の仕事の役割については、常に一番に自分自身が懐疑的な視点をもっていたいなと思うのだ。他の誰より批判的に、あなたの今の仕事って価値あるの?って問いかけながら、意味のある仕事をしていきたいなと。そうして、あ、きちんと結果が出せたなと実感できたときには、よーしよしよしと自分をねぎらってやって、生きながらえていきたいわと。

2010-10-08

研修の提案

「実践」「応用」「アドバンス」あたりの言葉というのは、まさしく形のない概念語だなぁと思う。研修サービスでいうと、その都度「この案件における“実践”とは何を指すのか」を仮説立てて、言葉に落として、こういう意味合いでいいですかね?って関係各位と合意形成しないと実質的な意味をもたない。どんな業界にもおそらく、こういう取り扱い注意なワードの代表格というのが存在するんだろうと思う。

もちろんこういったワードにも単体での意味がある。言葉は文脈に頼らない意味を何らかもっているはずで、「実践」や「応用」は下に「基礎」や「基本」を置き、その次のステップを指すのだという概念理解は共通のものだろう。これが逆に落とし穴になるんだと思う。

共通認識とおぼしきものがあるからこそ、「実践といえばこの辺でしょ?」という暗黙の了解を、人は無意識に枠組みする。だけど実際には、どこからどこまでを「基礎」の範囲とし、どこからどこまでを「応用」の範囲とするかは人それぞれ。組織ごとの暗黙の了解もある。この概念と対象の不一致を大前提にしておかないと、現場はえらいことになる。

現実的に、ある人のイメージする「基礎の中身」が、ある人のイメージする「応用の中身」とイコールということは往々にしてあり、こういう食い違いが起こると、研修サービスとしては大いに問題なのだ。というわけで、研修の作り手としてはいやがおうにも概念の定義づけにセンシティブになる。それでも、やってもやっても…の世界で、概念の言語化、認識あわせというのはどの案件でも常に難しい。

クライアントさんに研修を提供すると、今回の研修を踏まえた「実践編」「応用編」「アドバンス編」を提案してもらえないかという相談がよくある。個人向けの講座でも、事後アンケートで今後勉強してみたいテーマを問うと、「今回の講座の応用編」という回答をまま見かける。

これは、ここから先への言語化が難しいということの表れと言えるし、ここで進んで骨を折るのが研修の作り手ということになる。この組織、この受講者にとっての「実践」「応用」「アドバンス」とは何なのか、その概念イメージをとらえて言語化し、対象者とすりあわせる。

この言語化にあたって、クライアント担当者の問題意識をヒアリングするほか、以前に提供した研修の講義内容や、そのとき演習で提出いただいた受講者のアウトプットから、受講者がすでに何を習得できていて、何はできていないのかを分析して現状の問題点をこれと置く。

それを解決するために、研修というアプローチから何ができるのか、実践現場から離れたオフJTだからこそ、やって習得の能率を上げられるプログラムを考える。これを提案書に落としてクライアントにプレゼンし、現場の問題意識とすりあわせながらブラッシュアップする。

研修の提案、やってもやっても奥が深くて難しい。でも案件をこなした数だけ苦悩した分だけ血肉となっていると信じて、引き続きがんばります。と、結論がないので、がんばります宣言で幕を閉じる。

2010-10-04

概念と対象の不一致

まったく同じ出来事に出くわしても、それについて言い表す言葉が人によって異なるということは、ままある。

顕著な例では、男女の「差別」と「区別」とか。男女を比較する類のものに出くわしたとき、大方の人はそれを男女の「区別」として受け取っているのに、躍起になって男女「差別」と訴える人がある。あれを見かけると、もしや「区別」という概念を知らないのではと不安になる。

言葉として「差別」と「区別」の双方を知っていたとしても、具体的な物事、行為、出来事を目の前にしたときに、知的技能として「差別」と「区別」を使い分ける能力を身につけていないと意味をなさないのであるな、と思う。

もう一つ例を挙げるなら、「意見」と「苦情」とか。どちらかというと否定的な声をお客さんからもらったとして、聞こえてきた声を「意見」という言葉で捉えるか、「苦情」という言葉で捉えるか。「新しい意見が出た」と受け止めるか、「また苦情が出た」と受け止めるか。「意見を活発に出してくれる人」と受け止めるか、「厄介なクレーマー」と受け止めるか。

同じ人、同じ行為、同じ出来事でも、受け取り手によって名前のつけられ方は異なる。その人がいかにその対象を概念化するかによって異なってくるのだ。それは、個々の目に映る世界そのものに違いが生じているということに他ならない。

エスノグラフィー入門 <現場>を質的研究する(小田博志著)より。

概念と対象とがピタリと重なることはありえませんし、対象を狭めたり、歪めたりする可能性は常につきまといます。(略)このリスクを防いで、対象をよりよく捉えられるようになるために、自分が使う概念について省みることが必要です。

願わくば、できるだけ健やかに、できるだけ建設的に、できるだけ心豊かに、あらゆる対象の概念化をなしたいと思う。日々そんなことを思いながら生きているのであるよ。

2010-10-01

偶然と才気

「セレンディピティ」という言葉を最初に目にしたのは、外山滋比古さんのロングセラー本「思考の整理学」だった。ここでの意味は「偶然」の力にフォーカスがしぼられていた印象で、今日「あれ?」と思って読み返してみても、やはりそうだった。

「思いもかけない偶然から、まったく別の新しい発見が導かれること」をセレンディピティとして紹介している。

例えば、兵器の開発目的で遠くにいる潜水艦の機関音をキャッチしようと実験を重ねていたときに偶然イルカの交信音をとらえて、そちらが一挙に研究課題として注目を集めた話とか、探し物があってあちこちひっくり返していると、今の探し物は出てこないのに、前の探し物がひょっこり出てくることがあるとか。

人間は意志の力だけですべてをなしとげるのは難しい。無意識の作用に負う部分がときにはきわめて重要である。セレンディピティは、われわれにそれを教えてくれる。

こういう話で読者をうならせる。うむうむ。で、今日なぜ「あれ?」と思ったかといえば、別の本で「セレンディピティ」という言葉に再会して、ちょっとニュアンスが違うな、と思ったから。別の本とは小田博志さん「エスノグラフィー入門<現場>を質的研究する」で、「偶然と才気」の2つにフォーカスがあたっていたのが面白かった。

ここではセレンディピティを「偶然と才気によってさがしてもいないものを発見する」能力としている。

そもそものセレンディピティという言葉の誕生は、「セレンディップの3人の王子たち」という物語にあるらしいのだけど、この話もまさしく「偶然のみならず才気あってこそ」という内容だった。

(だいぶ話をはしょるけど)3人の王子たちが旅の道中で、はぐれた1頭のラクダを見なかったか尋ねられる。3人の王子は、ラクダを見てもいないのに特徴を具体的に言い当てる。「そのラクダは片目」「歯が一本抜けている」「足が不自由」と。

なぜ彼らは特徴を言い当てられたのか。理由は、「歩いていた道の片側だけ草が食べられていた(しかも反対側のほうが良質な草だったのに)」「道沿いの草が一足ごとに、ラクダの歯ほぼ一本分の幅で食べ残されていた」「一本の足を引きずっている足跡が地面に残されていた」ことに彼らが道すがら気づいていたから。

これは「偶然」だけじゃあないですよね、と思わざるをえない。別にこの話がそうだからといって何なのさと言われればどうなのさという話なのだけど…、とりあえず私の中では今後セレンディピティなるものを、意志と対比させた「偶然」の力だけじゃなくて、「偶然と才気」による力としてとらえていきたいと思った、というメモ。偶然×才気で「必然」が生まれる(適当)。

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