« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »

2010-09-25

点と矢印

最近歩きながら座りながらぼーっと考えているのは、「右が前」「下が手前」という感覚は、どれくらい後天的に学習したもので、どの辺りまでは先天的に身につけていたものなんだろうなぁということ。

Arrow_2例えば右にあるような矢印。電信柱の広告なんかでよく見かける形状。「○○工務店は、この電信柱を一つ手前の曲がり角まで戻って、左に折れるとあるよ」というのを一目でわからせているわけだけど、これってまだ「下が手前」って学習をしていない幼児などにはわからないんじゃないかって気がする。そんなことないのかな。単純な上向きの矢印、あるいはこの図を反転させた矢印に比べると、手前に向いた矢印の理解はちょっと難易度が高い感じがする。

一方で、では「右が前」「下が手前」って感覚がまるっと全部、後天的なものと考えると、それもなんか違うんじゃないかなぁという気がするのだ。スーパーマリオブラザーズの始まり、マリオが右を向いていることで、このゲームは右に進むことで進行していくのだと無言でプレイヤーにわからせる仕掛けになっているというのは有名な話だけど、これ、絶対に左を向かせておいて左に進むという選択はありえなかったよな、と思う。なぜかといえば、どうにもこうにも不自然だからだ。この不自然な感じというのが、すごく先天的な感覚のように思えてならない。

これは、多くの言語で左から右に文字が綴られることとも少なからぬ関係があるのかなと思う。この辺は、例えば昔からどの地域でも右利き人口のほうが圧倒的に多くて、書いた文字を目で確認し、推敲しながら次の言葉を綴っていくのに、左から右という流れのほうが理にかなっていた(適当に書いています)。

そういう所作の繰り返しで「左に始まり、右に終わる」という感覚がじょじょに人類の身体に入り込んでいって、その先天性を高めていった(妄想)。とかがあって、「左側が下手、右側が上手に」とか「左が手前、右が奥」「左が戻る、右が進む」と解釈が深まっていった(暴走)。

そうか。「右が前」感覚は先天的で、「下が手前」感覚はちょっと難易度が高い感じがするから後天的ってことかも(飛躍)。「上に始まり、下に終わる」っていうのは、文章だと違和感なくそうだなぁと思うんだけど、絵とか図で考えると、そう身体的にそれ以外ありえない!という感覚がわいてこないんだよな。だから上に描いた矢印も、ちょっと頭を使って解釈する感じがするのかも。それとも、難しさを感じるのは私の個人的なものだろうか。これまた秋の夜長。秋の夜長堪能中。

プロの定義

プロフェッショナルってなんだろう、専門家ってなんだろう、と考えている。Wikipediaによれば「ある分野について、専門的知識・技術を有していること」「それを職業としている人」「そのことに対して厳しい姿勢で臨み、かつ、第三者がそれを認める行為を実行している人」といったところ。

これはこれで読めば納得、もっともだという感じがするけれど、かなり汎用的に言い表しているからこそ言い得ている感が得られるのであって、自分や、自分が関わっている業界に照らし合わせて具体的な言葉に落とし込もうとすると、とたん難しくなる。

というかまぁ、プロスポーツなどごく一部を除けばどの世界も、プロの定義などあってないようなものかもしれない。それに「これが○○のプロの定義である」と明言されたとたん批判的に捉えたくなったり、「この定義に適っているから私は○○のプロである」という人にこそ胡散臭さを覚えてしまうのが人の常である。

さらにWebの周辺なんかで仕事をしていると、スタンダードやプロフェッショナルを規定している暇があったら前に進めってな空気感が少なからずある。個人的にも、変化の激しいところでどうにか仕組みを作ろうと立ち止まって、地盤の固まらないところでトンテンカンしているのをみて、どこか不毛な感覚を覚えることがあるのは確か。それができたときには、人はもう次の地点に移動しているのではないかという…。

なぜそんなことを考えだしたかといえば、直接的には、今走らせているあるお客さんの案件と、今手にしている本に起因している。まぁ仕事がらか性分か、そういうことはよく考えるのだけど。

私はWeb系の研修サービスを提供する仕事をしていて、クライアントは「受託系」と「発注系」の2つに大別される。便宜上乱暴に言ってしまうと、前者はWeb制作あるいは広告制作会社、後者はネット事業会社や一般事業会社のWeb担当部署。今ちょうど、後者に位置づけられる発注系の企業さんに研修を提供しているけれど、それは発注者として知っておくべきポイントに焦点をしぼって研修テーマをカリキュラム化している。情報アーキテクチャやビジュアルデザインのセオリー、HTMLとCSSなど。

例えばビジュアルデザインのセオリーを実践場面でどう扱っていくのかという話で、講義を聴いたり演習で実践してもらったりすると、一定の知識、スキル習得の勘所を持ち帰ってもらえる。彼ら・彼女らは言わばスペシャリストではなく、ゼネラリストとしてそのテーマを学習する。その一環として、そうか、スペシャリストである発注先のどこどこ会社とかは、こういう専門知識・スキルをもって、こういう頭の動かし方でもって問題解決にあたっているのか、という頭になる。

受託する側が必ずその分野のセオリーを適用して問題解決しなくてはならないってものではないけれど、ある専門をうたって受注しているなら少なくとも、マーケッターならマーケティング、デザイナーならデザインの理論を知っていて、必要に応じてそれを適用できる状態でないとまずい。発注側がその分野の理論を知るということは、少なくともそれと同等以上のモノを受注側のスペシャリストがもっていないとつじつまがあわなくなる。

同等以上のモノというのは、その専門領域の原理、理論、技法、実戦経験で培ったノウハウ、自身の職業に適合するスーパーバイザー的人物から得たフィードバック、職業倫理観を総動員したスペシャリティというようなイメージ。つまり、相手方がもっていない専門性ということ。

これがないビジネスも成立はすると思うけど、これがない前提で発注を受けるというのは、つまり発注する側が社内では時間がとれない、そこに中の人材をあてられないから外に頼む、という代理機能を超えられないということで、そういう領域の話になっちゃうと、競合対比の安さが勝負とか、相性とかつきあいとか、そういう部分でのつながりでしかなくなってしまう。それで長く立ち、歩んでいくのはきついな、ということになる。

そんなことを思っていたさなかに、ある本をいただいて読んだ。すでにデザイナーしている人に向けた本という体裁なのだけど、これがかなり今回発注者向けに提供した研修の内容にかぶっていて、うむむ…と考えてしまった。これは、少なくとも今回研修を受けた発注者さんたちにしてみると、発注先のデザイナーは当然知っているものと思っている領域ってことになる。つまり受発注のやりとりで、「え、知らないの?」ってことが発覚すると、ものすごく微妙な空気になる。

私はこの本は、どちらかというと見た目にもう少しこだわりたい一般ビジネスマン向けかなという印象をもったけれど、本の帯にはデザイナー向けと書いてある。出版社の編集サイドが、いやデザイナーだったら知っているべき領域だけど、現実的にはこの辺を押さえていないで活動しているデザイナーも多い。そういう人たちに手にとってもらうためにと確信犯的にやったのかもしれない。そんな気もするのだけど、実際どんな胸のうちだろう。

なんというか、自分自身の専門性への問題提起も含めて、うーんと考え込んでしまった。と身も蓋もない話のまま終わる。とりあえずこれを一通り書いてみて思ったのは、プロとは何者かってものすごく相対的なものだということ。相手方のレベルとか標準的な基準が上がれば、それをはるかに超えた状態にまた上がらねばプロでないってことで、まぁこれについて考えるのは秋の夜長くらいにして日々精進するかな、と。

2010-09-23

音楽を身にまとう

@etojiyaokamoto さんのtweetに始まり、久しぶりにYouTube三昧の晩を過ごした。右側に出てくる音楽をつまみつまみ、次の曲、次の曲ととっかえひっかえ気になるものを流してはウルウル。こういうの、半年に一回ぐらいやっている気がする。

うちはテレビもないし、最近は朝も夜もCDもラジオもかけずじまいで無音のままということが多いので(と言うと人間扱いされなかったりするのですが、無音も慣れるとそのほうが自然に…)、久しぶりにいろんな曲を聴いて、音楽を聴くとき独特の心の振動を味わった。いや、別のところできちんと心は動き続けているので、そこは誤解なきよう。

しかしこうして音楽三昧して心を揺さぶられる度、日常に音楽を流している人って、どういうふうに音楽とつきあっているのかと感心してしまう。移動中に道を歩きながら電車に揺られながら、音楽を聴くのが常。音楽がないとダメ!という人はけっこういる。

私もそれをやったことがないわけじゃないけど、音楽を持ち歩くと、所かまわず音楽世界を漂うか、とりあえず流しておくけど適当に聴くようになるかのどっちかに陥ってしまうので、どっちにしても困るなぁと、音楽は持ち歩かない選択に落ち着いてしまう。

で結局、移動中は無音状態というか雑音状態で過ごしているのだけど、日頃音楽を身にまとって生活している人、しかもないがしろにせず、きちんと大切に聴いている人というのは、どんなふうに日常の中の音楽とつきあっているのだろうか。

音楽に思い入れのある人こそやっているのだとすると、たぶん自分なりの音楽の聴き方のスタンスみたいなのが確立しているんだろうなぁと思うのだけど、いまいち具体的な心のありようがイメージできず。今日みたいな日は、いつもそこに行き着いて「謎だ…」と考えあぐねてしまう。

まぁそんなんで、私は素人感満点な聴き方しかしていないのだけど、ただ音楽を聴き、それを聴く人の表情を見たり(ライブ映像とか)、それについて語る人の声を見聞きしていると(コメント欄とか)、この音楽に、こんなふうに共鳴する人たちの世界なら、いろいろ問題を抱えた世の中だけど、どうにかこうにかプラスのエネルギーをもってやっていけるんじゃないのかしら、という気持ちになる。少なくともそのポテンシャルはしっかりあるわよね、と(何様…)。

そういう独特の体感はこういう音楽空間とかにあったんだなぁと思い出しつつ、日常のなかに帰っていき、またしばらく無音と雑音の日々を過ごしてしまったりするのだけど。いや、心はしっかり動いています(確認)。でも、音楽界隈にある独特の心の振動というのは、大切にしたほうがいいなぁって改めて思った晩でありました。

2010-09-16

hysmrk1.1

昨日、分析力に長けた某氏から「hysmrk(私)がやろうとしているのは、今のhysmrkを1として、hysmrkって人間を1.1とか1.2にしようってアプローチなんじゃないか」と言われ、実に見事に言い当てている!と思った。なるほど、なるほどなぁと今日も何度か思い出しては、ふむふむーと考えいってしまった。いや、ほんとシャープに言い当てた感じがある。

無条件に、だから良い悪いに直結する話ではないと思うのだけど、私がそれを聞いて、「なるほど、なるほど」と思ったことに、自分のある面が意識化されたという意味が一つあるし、私がそれを意識のまな板にのっけられて主観的にどう思うのかが、また大事なところである。

で、どうなのかというと、例えば「おまえはそういう小数点第一位な成長曲線をたどるのでいいのか?」と自問してみると、胸がざわざわしないでもない、という心境になる。だからまぁ、一の位が2、3と上がっていくような舵取りに切り替えたいってことを自覚しないといけないんだろうな、これを機に、と思った。しばらくドリフトを続けたしなぁ。

ただ、そういう一の位レベル(いや、やるなら十の位、百の位で発想せよという人もいるだろうけど…)の成長曲線、あるいは世の中への貢献曲線のステップアップを遂げるのに、具体的にどういう変革をもって成していけばいいのか、具体的な計画イメージに落とし込めない。一般的なアイディアは出せないこともないのだけど、自分自身が2、3に上がっていると実感できるものがいいわけで、その核心をついたステップアップが実際どんなものに着地しうるのか、これは結構難しいお題じゃないかと思う。

私は価値基準がかなり抽象概念に振り切っているので、「転職」とか「独立」とかいうイベント性が高いものの現実的変革にはむしろ抵抗感があるし、内面的な変化をどうつかむのかがはっきりしないと、現実世界に変化を加えることに必然性を感じられない。面倒くさいですね…(前者がわかればけっこう一気にかたつけますが)。

それもこの歳になると、まったく方向性のあてがないわけでもなく、それなりの軸と範囲はある。人の学習の場を、より専門的に分析・設計・開発・運営・評価できるように腕を磨いていって、より有意義な学習機会を提供するってあたりが範囲になるのかな。

とはいえ、どこにどうフォーカスをあてて磨いていくと、それが2、3の実感を得ることにつながっていくのか、んー。キャリアカウンセラーの専門性と、インストラクショナルデザインの実践と、まぁそのあたりでうろちょろはしているけれど、ほんとうろちょろしているだけって感じもあるし、まぁ、とりあえず考えながら仕事して、仕事しながら考える。で、あるとき何かが見えてきたら、それにしよう。

冷房と送風の間で

ここしばらく、あるクライアントさんの研修を自社内のトレーニングルームで提供している。昨日まではずっと冷房をつけていたのだけど、今日は送風に切り替えた。正確に言うと、送風と冷房を適宜使い分けて調整した。昨日までは迷うことなく冷房だったのだけど。

今のような季節の変わり目に、空調の管理はとても大事だ。サービスを提供する立場で空調を備えた場を提供している場合、「お、今日一歩秋が深まったぞ」と肌で感じたその日に、すかさず冷房を送風に切り替えることを検討・ジャッジできることは、とても重要だと思う。私なら研修会場だし、お店でも電車でもオフィスビルでも言えることだけど、この一日を捉えきれない場所は毎年かなり多いとみる。

特に季節の変わり目は一日の中でも空気の変化が変わりやすいので、肌感覚をもって随時調整をしていかないと、「寒すぎる」「むわっとする」「なんか暑い」という感覚を与えてしまいやすい。何らかの違和感を感じさせている時点で、素晴らしく100点満点な環境を提供できているとはいえないということだ。

必ずしも空間を提供するすべての立場の人が、その快適環境に意識を払わなければならないということではないし、対象者が幅広く数も多い電車なんかでは対応するのにも限度があるだろうけど、私の場合は比較的小規模な学習の場を提供しているので、環境が悪くて学習に集中できないという状況は必死に回避しなくてはならない。いい場合は、気候の変化に耐えるとか、悪条件のなかでも集中力をきらさないためのトレーニングを提供するときくらいだろう。

しかもトレーニングルームを使う研修では、受講人数分のPCを稼動させるので、一層空気が変化しやすい。全員がマシンを使っているときとそうでないとき、講師だけがしゃべっているときと全員がチームに分かれてディスカッションしているときでも、空気に変化がある(ように思う)。これを感じ取らなければならない。ずっと室内にいると、この変化に気づけないので、適当なタイミングで室外に出て、再び入ったときに肌で感じるところをたよりに調整することも心がけたい。って、この話は誰のための何なんだ…。

ともかく、あらゆる要素に神経を配って、参加者が学習に集中できる環境づくりをするっていうのは大事なことであって、そのかなり大前提のところに空調管理はある。そういうところは学習サービスの本質じゃないとかいって軽視するのは違うと私は思う。大前提が整備されていなければ、事が始まらない、本質を深めること自体が困難になるのだ。

とかいろいろ書いたものの、この話を書き始めたのは、今日いろんな場所場所が寒かったなぁというだけなのだけど…。ただ私は極度の寒がりなので、自分標準でものを考えちゃいけないことは肝に銘じております。

それにしても、「次の季節っていうのは、雨が連れてくるんだな」と、季節の変わり目に雨が降るたび思う。今日もそんなことを思う雨の日だった。雨が降ったあくる日、「あ、ちょっと秋になった」と思う。また次の雨が降って止んで、あくる日「あ、もっと秋になった」と思い、じょじょに秋が深まっていく。

なんだかいいですねぇ。深まる秋。季節が「深まる」って表現をするのは、やっぱり秋だものな。春は訪れる、夏はやって来る、冬は到来する感じ。あれ、あんまり変わっていないか。まぁ、いいや。

2010-09-15

忙しいtweet

9月は忙しいのだ!ということで、10月になったらもう少し落ち着くだろうと思いつつ日夜頑張って生きているのだけど、それにしてもちょっと忙しさが過ぎて大変な状態が続いている。社内の滞在時間が一日16時間を超えないように必死に頑張っている的な…。今日は人事のマネージャーさんに声をかけられ、「あなた最近、深夜・土日にあきたらず、早朝出勤に手を出し始めましたね…」と喪黒福造(もぐろふくぞう)ばりの突っ込みを受けた。ドーン!!!

そろそろちょっと抜本的な改革をしないといけないかなーと思いつつ、総合的にみるとどうもこれっていうおとしどころが見いだせず。とにもかくにも、忙殺状態が続いて健やかさが薄れていったり、伸びていっている実感、より良いものを提供していけている実感が得られなくなるような事態の常態化からは逃れなくてはならない。自分自身へのインプット時間も大事だし、人との関係を広げたり深めていく時間も大事にしたいところ。そうして、お客さんに届けるものを着実にレベルアップさせていきたいし、対応力を増していきたい。

という真面目な問題は別途考えるとして、毎度反省するのはTwitterのつぶやきだ。最近は日中タイムラインを見る時間がない。お昼休みとか夕方過ぎくらいで、人のつぶやきをちょろちょろ覗いてみたりする。夜遅くなって、自分もつぶやいてみたりする。となると振り返ってみるに、私「忙しい」しか言っていない。この、究極つまらない人間的tweetをやめさせたいのだけど、毎度反省しては、毎度同じことを繰り返している。なんて成長のない人間なのか…。

というわけで、まとめてブログに1エントリー書いてみたら、無駄に小分けしたtweetとか(少)なくなるんじゃないかと思って書いてみた。すみません、つき合わせて。ここまで読んでくださった方に心から感謝します。これで落ち着くはず。頑張ろう。

2010-09-11

仕事の手触り

自分の仕事の重み、責任のありかみたいなことをたくさん考えた1週間だった。私の預かっている仕事は、これという名前がつけづらい。世の中の大半の人はそうかもしれない。名前のない仕事領域を預かっていると、やっている本人も周囲も、なんとなく全容とか核になっている役割が把握しづらくて、所在なしの感覚を味わうこともある。

だけど、いろんな現実的な問題に直面して、それを一つひとつ乗り越えていくときに、自分のなかではっきりくっきりと思い知る。自分が何を担っているのか、自分がその求めに応えきれないと、現実的にどういう問題が起こるのか。

起こった問題の責任を他人に預けてしまうことは簡単だ。役割が不明瞭な仕事ほど、他人のせいにして片付けてしまうのは簡単かもしれない。だけど、自分の責任において何をしていればその問題に直面せず済んだのか、そういう面から問題を捉えれば必ず、自分の側でできたこと、やるべきだったことは出てくる。出てこないことはない。「いや、これは明らかに誰々のせいで、自分には一切の責任がない」と思える場合、まずは自分の想像力の貧しさを疑ったほうがいい。ごく個人的にだけど、私は自分の仕事をそういうふうにみる。意志というよりは、癖なだけだけど。

今回ある問題を乗り越えていく過程で、とにかく逃げないこと、これに尽きるのだと思った。誰より自分の責任として受け止めること。決して判断の健全性を失わずに、何のために、どうしたらいいか、誰より真剣に考えること、判断すること、動かすこと、これを繰り返して問題を一つひとつクリアしていく。これに尽きる。そうすると必ず問題は健全な解決に向かっていく。この繰り返しを途中で断念してしまうと、何にもいつまでも解決されない。逃げないこと。逃げないで建設的に問題解決にあたる人があっちとこっちに一人ずついれば、けっこういろんな問題は打破していけるのではないかと思う(もちろん問題の規模にもよるだろうけど)。

この過程で改めて思ったのは、問題を起こしたから辞任しますとか辞めさせましたとかは、最も安易で、何の解決にもならない一段落のつけ方だなということ。誰も成長しないし、何も解決しない。その人がよっぽどの骨なしで、隣によっぽど骨のある人が待機しているなら別だけど、そうでもないなら、辞める辞めさせる話で使っている時間を、本来的な問題解決にあてたほうがよっぽどいいと思う。そうじゃないと、ほんといつまでも何の価値も生み出さない。

というわけで、逃げずにやりきる。終わったらひとまわり大きい人間にもなっているはず。そうやって、私は名前のつかない仕事を、はっきりくっきりとした触感をもって手づかみして、その役割を深めたり広げたりしていこうと思っている。ここ何年かで、手の感触がだいぶはっきりくっきりしてきた。

« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »