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2010-07-30

落ち着いたぶん

4月から7月まで、とにかく走りどおし走り続けてきた感があるのだけど、本日をもってちょっと一息つけたかなという感じ、であってほしい。今まっただなかの案件も複数走っているし、9月までスケジュールはそこそこ詰まっているのだけど、ここ数ヶ月に比べると、そうありえない予定じゃない。

まあ、いつなんどき何がやってくるのかわからないのが受託仕事というものだけど、とにかく一息ついて、インプットの時間をとったり、しばらく放置状態になっていたMBTIのカウンセリングなども手がけていこうと思う。すでに数名の方にご希望いただいているのだけど、しばらく身動きがとれず、お待ちいただいている状態になってしまっているのだ。そんなわけで、これからちょっと落ち着いて、自分時間をもっていきたいなあって思っておりますので、よろしくお願いします。

って、前に一息ついたなぁと思ったときも同じような心持ちになったけれど、4月1週目にそう思って、2週目くらいから大変なことになって、気がついたら今(3ヶ月経過)。大丈夫かな。大丈夫だよな。夏だし猛暑だし。自分のもとに力つけていかないと、提供できるものも成長していかないもんな。もっとクオリティが高いものを提供していけるように足場を固めたいと思います。

あげて買うサイクル

そういえば、人知れずMacBook Proを買ったのだった。人に知られぬよう…という意図はもちろんまったくなかったのだけど、とにかく忙しいさなかにさっと買って持ち帰ってきたようなかっこうで、買った当日は開封すらできず、「とりあえず買ったぞ」という状態にもっていくだけもっていったという感じだった。

でも、なんでしょうね、「Macを買ったらその喜びを1週間以内に10人以上に伝えないと○○になる」という都市伝説があってもおかしくないくらい、なんか「買ったら人に言わなきゃ」感がありませんかね、アップル製品って。それもブランドのなせる技か。まあ世の中的にってだけで、比較的その辺はわが道を行くタイプなので気にはならないのですが、ここに書いたことで「○○になる」をまぬがれた安堵感がないわけじゃない…。

ともかく先週末、日曜の会社帰りという渋いタイミングに渋谷のApple Storeでぱーっと、さくっと。確か土曜の仕事帰りにApple Storeに行って、行ってみたらJIS配列とUS配列のそれが横並びにあって、その時点でもうほぼほぼ、「どっちのキーボードにしようかな」問題について検討していて、「買おうかな買うまいかな」問題は片付いていた。Apple Storeすごい。

その翌日に購入して、その翌日からちょこちょこ触ってはいるのだけど、これがまた亀の歩み。1日目買った、2日目出した、3日目触った、4日目ようやくBootCampでWindowsXPを入れた、5日目触らず就寝…。いまだソフトウェアの各種インストールに到達していない。

ちなみに私は白いMacBookをもっているのだけど、今回MacBook Proを買ってしまった事情を一言で説明すると、「友だちが山奥に引っ越すからMacBook Proを買った」ということになる。これをもう少しかみくだくと。

友だちが地方(それも相当山奥)に引っ越すと言い出し、さらに「テレビもパソコンももっていくのやめようかな」と言うので、「いやテレビはいいけど、何かのときに情報をこちらから取りにいけるパソコンはもっていったら?」と提案。「別に入らないときは立ち上げなければいいんだし」と。

その流れで、「うち、なんだか知らないけどノートパソコン4台あるから、使っていないのもあるし、1台用意できると思うし」と続けたら、「くれるんなら持ってく」と。現金やね。まあ、その子には前にもパソコンをあげたことがあって、なんとなくそういうサイクルで物がまわっていくのがいいのかなと思っている。

私は、メインで使うパソコンは壊れるまで使い倒すという感じでもない。全部にそうなのかというと、洗濯機13年ものしかり、壊れるまで使うぞっていうものもある、というか大方そうなのだけど、パソコンはどうも違う。一方で、パソコンは壊れるまで買い換える理由がわかないという人もいる。そういう人と人の間で中古品が行き来するというのは、なかなか良いものの流れだと思うのだな。

という善良ぶった言い訳をして、白いMacBookは友だちへの餞別とし、MacBook Proを新しく購入することにした。ちなみに4台中一番古いThinkPadはもはや使い物にならない状態というのがこの度確認され(立ち上げるとビービー泣き続ける)メーカー返却することに、次に古いThinkPad(ときどき仕事で使う)は手元に残すことに。

これとMacとどっちをあげようか悩んだのだけど(Macのほうが断然新しくハイスペック、だけど友だちはWin使い、でもWinはときどき仕事で使っている)、悩んでも答えが出なさそうだったので、友だちにメールして「Macという選択肢もあるんだけど、どう?Windowsのほうがいいかな」と尋ねたら、Macに好反応だったので(使ったことはないそうだけど)、それを決め手とした。つまり間接的に彼女に決めてもらった。

というわけで、古いほうのMacは秋から遠く山奥へ引越し、友だちを助ける。私の手元には新しいMacBook Proがやってきた。罪悪感どころか、いいことした感を伴って。

2010-07-27

「雑誌愛読月間」の中吊り広告

昨日@tabbataさんがこちらをretweetしているのを見かけて、(こういうとちょっと皮肉っぽい聴こえ方になってしまうけど)「なんと意気のいい演習ネタだろう!」と思ってしまって、仕事の合間に衝動的にまとめたメモです。

 

最近は方々で勉強会が催されていて、ブームを過ぎて定着してきた感もあるけど、かなりざっくりしたテーマで集客して、なんとなく集まった者同士、
なんとなくな会話をして、楽しかったし、人脈広がるし、モチベーション上がるっちゃそうなんだけど、結局「情報交換」「意見交換」という名のおしゃべりに終わってしまって、ちょっと物足りなかったかなーとかいう思いを抱いている方は、こういうお題を設定してそのアウトプットを共有するような会を試してみてはどうかなと思います。すべての勉強会がそうあるべきとは、まったく思っていませんが、アウトプットせずして何かが身につくことはないということで。

 

お題:日本雑誌協会主催、2010年夏「雑誌愛読月間」の中吊り広告を作る

 

●想定

あなたは、都内の広告制作会社に勤めるクリエイター。今回のクライアントは社団法人日本雑誌協会です。同会では、“雑誌文化の発展を標榜し、雑誌への興味、関心の喚起”を意図した「雑誌愛読月間」キャンペーンを毎年主催・運営しています。1999年から行われており、2010年夏も実施予定。あなたは同会から、このキャンペーンの中吊り広告を作ってほしいと依頼を受けました。

 

●演習課題

雑誌離れが進む中、あなたは日本雑誌協会が今夏「誰に向けて」「どんなメッセージを」「どのような表現で」届けることを提案しますか。中吊り広告の提案を前提として、アウトプットは「企画書」「コピー」「グラフィック」「全部」など、ご自分の専門分野にあわせて作ってください。

 

※つじつまあわせで、現在はキャンペーン開始3ヶ月前ということに。またポスターなどは中吊り広告のコンセプトにあわせて作る想定。

 

●キャンペーン期間

2010年7月21日~8月20日

 

●キャンペーン内容
    • 雑誌協会会員社発行雑誌300誌以上にキャンペーンPRを掲載。

 

    • 全国の書店、公立図書館にポスター3万枚を掲示。

 

    • 首都圏と関西の主要電鉄会社に中吊り広告など約10万枚を掲出。

 

    • 読者謝恩企画として、期間中に対象雑誌126誌の年間定期購読を店頭で申し込むと、1か月分が無料。

 

    • 告知掲載雑誌の応募マークをはがきに添付して応募すると、イメージキャラクター桜庭ななみさんのオリジナル図書カードが2010名様があたる。

 

  • マガジンデータを500円で販売。

 

●イメージキャラクター

 

桜庭ななみさん(17歳)

 

●歴代のイメージキャラクター

 

99年(優香)
00年(本上まなみ)
01年(釈由美子)
02年(井川遥)
03年(吉岡美穂)
04年(井上和香)
05年(岩佐真悠子)
06年(安田美沙子)
07年(ほしのあき)
08年(南明奈)
09年(佐々木希)

 

●参考ページ

実はすでに出ている2010年「雑誌愛読月間」中吊り広告

※数分で作った粗い演習課題ですが、そういうこともあって一応Creative Commons(表示 - 非営利 - 継承 2.1 日本)ってことにしてみます。万が一(って相当確率低い)やってみたorみる方がいたら、ぜひ教えてくださいね。

 

 

2010-07-25

ふとん持ち去られる

もう長年(子どもの頃から使っていたから30年くらい?)お世話になってきたふとんを、粗大ゴミに出した。おふとんなので、別に壊れてどうこうということではないのだけど、まぁたいそう重たいし場所をとっていて、部屋も狭いのでちょっとすっきりさせたいなぁと。今どきのふとんは軽くて、一枚でもあったかいんでしょ?っていうノリなんだけど(Amazon情報)。

思い立ったが吉日ということで、まずは今のふとんを手放す手はずを整える(この先1ヶ月くらいはタオルケット暮らしなので、ふとんなくても大丈夫)。これは大きさ的に、普通にゴミの日に出しても持っていってもらえないんだろうと思われたので、粗大ゴミの出し方を調べて、ネットで粗大ゴミ回収の予約をして、近所で区の粗大ゴミ処理券を購入し、前夜にふとんをひもでくくって(どうすればいいのかよくわからなかったがとりあえず)粗大ゴミ処理券を貼って、今朝マンション前にふとんを出してきた。

それでふとんを出すついでにコンビニに向かい、5分足らずで戻ってきたら、なかった…。ふとんなかった。ふとんなくなってた。粗大ゴミの回収は確か8時以降で、ふとんを出したのは7時くらい。だから粗大ゴミ回収業者さんじゃないんだろう。ホームレスの人が、ふとんとはめっけもんだと思ってもっていったんだろうと思ったんだけど、どうも釈然としない。

粗大ゴミ処理券を買って、業者さんを呼んで、この後業者さんはふとんを取りに来てくれる。わざわざ足を運んでくれているのに、ないというのも申し訳ない。申し訳ないけど、私も券を購入して、お願いしますという心もちでいたのだ。なんだけど、お願いできずじまい。なんかこう、もっと最初から必要な人に引き渡せる社会システムになっとればいいのに…と思ってしまう。それで、どうだったら一番よいサイクルになるのだろうと考えてみたのだけど。

市区町村がホームレスの人に粗大ゴミ回収業の仕事を発注する。必要なものはもっていってOK、不要なものは回収業者さんが通常行うとおりの手続きに流すとか。今同様の流れで業者さんが回収した粗大ゴミをどこかに集めて、その場を市民に開放する。一定期間そこに粗大ゴミを置いておき、そこに欲しいものがあれば市民が持っていけるようにするとか。

でもなぁ、そうすると「私は捨てたのであって、誰かが使うことは想定していない。見ず知らずの人が使うのは気持ち悪い」っていう人が出てくるよな。そこは「そう思うくらいの未練があるものは、使い続けるようにしましょう。(エコちゃんマーク)」とか。まぁダメだよなぁ。張り倒されるよな。それに、一般開放された場所ではいいものは手に入りづらくなるから、やっぱり回収時に家の前で捕獲っていうのは残るか。

つまるところ、今のが現実的な落としどころってことなのかしら。まぁ個人的には、粗大ゴミを手元から手放せたという点ですっきりしているのだけど。私が安易に区の粗大ゴミ回収を選択せず、もっと出し先を「ゴミ」じゃない何かになるように発想して、その手はずを整えられれば良かったのか。そんな気もするな。

でもそんな生活力ない。オークションとかフリーマーケットとか、そっち系で動けるだけの時間的・エネルギー的余裕もない。こういう生活力に乏しい人間にも優しい公の仕組みが、もっと有効な流れとして作れるといいなぁと思う。

と、結局何の答えもなく、さらさら流して仕事の準備を始める日曜の朝。相変わらず大変な日々でして、現実逃避の一幕でした(ゴミ問題のほうが超現実な気もするけど)。それにしても、5分たらずでなくなるって、すごいよな。敏腕である。

2010-07-15

仕様の背景をよむ

あるクライアントの新卒社員研修が終わった。平日毎日通ってもらって3週間強。私が請け負う案件ではかなりの長期プログラムなのだけど、本当に今年はあっという間に最終日を迎えてしまった。自分の時間感覚の麻痺っぷりをひどく恐ろしく感じた。この間、複数案件が猛烈に走っていて、ジェットコースターみたいとはまさにこのこと!という感じで毎日が過ぎ去っていった。

研修時間とその前後1時間は、その研修に意識が集中しているので、毎日誰のことを一番考えているかといったらその受講者の皆さんのことを思っている時間が一番長かったとは思うのだけど、夕方から夜中、休日はまた別の案件のあれこれに意識を集中しなければまわらず、いよいよ最終日を迎えるといった辺りになって、少し人間味のある生活を取り戻し、夜中に一人ひとりの成果物をみながら、落ち着いてその成長ぶりに感嘆する時間をもった。

最終日の締めでは、こんな話をした。世の中の大方のことは、答えを2つ以上もっている。ある答えの対極には、もう1つ正解があるし、2つと限らない。仕事のほとんどはそういうものだ。そういう中で、その案件、そのシーンの答えを自分たちで出していく。そのとき必要になるのは、やっぱりコミュニケーションなのだ。違う立場の人同士が、いろんな答えがありうる中で、今回はこれでいこうと決めるのには、意味のあるコミュニケーションが必要になる。

そういう場面で、「それは仕様です」とか「社内のレギュレーションにそって作ってあります」とかって言っても、会話しているようでいて何ら意味をもたない。「それは仕様です」というのは、その仕様のもとになっている意図がわかっている人たち同士の言わば内輪用語であって、同じ部内だったら「仕様にそってこう作りました」でよくても、他の立場の人、他部署、他社の人と会話するなら、企画の意図を踏まえて、仕様の背景をよんで、今回はこういう指針でこちらを採用しましょうという話をできなければ、本質的なコミュニケーションにならない。何の意味があって、別の側面のこれこれのデメリットを負ってでもその選択をする必要があるのか明示する必要がある。

思うのだけど、仕様の意図・背景を知らずして「それは仕様です」って質問に返すのは、「校則で決まっているから」としか答えられない先生、「法律で決まっているから」としか答えられない警官みたいなもので、そりゃコントの域だろうと。

とかそういう年寄りっぽいことを…。話し下手で、うまいこと伝えたいメッセージを届けられたかわからないけれど、話を聴いていてくれたときの一人ひとりの視線から察するに、なんとなくきちんと受け取ってもらえたのかな、という気がしている。そんなわけで、最後の最後、気持ちとして尽くしきれたかなという安堵感をもって終了(といってもこれからレポート書くんだけど)。

あとは現場でむくむくと育っていくことと思いますが、遠くから、心から、声援を送り続けます。またきっとどこかで会えることでしょう。

2010-07-10

内省エネルギー

相当追い詰められてたんだなぁ、ということに気づいたのは木曜の晩。ある案件の提案フェーズがひと段落ついて、あとは先方のレス待ちという状態に入り、とりあえず「一息つく」ことができた。

ここ数週間ずっと、5~6時に起きて7~8時に会社入り。ひと仕事した上で連日提供しているA社さんの研修準備に入り、9~15時でA社さん研修本番、15~16時でその片付けやレポート作成などして、16時すぎから別のお客さんの仕事を始め、B社さんにプレゼンに入ったりC社さんに打合せに行ったり、あるいは社内の打合せ。

そこから戻ってきて、19時くらいからようやっと自席に落ち着き、翌日のA社さんの研修準備、翌週にひかえたD社さんの研修準備、その先に本番がひかえているE社さんの対応や、年間でサポートさせていただいているF社さんとのやりとりなど1時間刻みくらいでやって、ふと気づけば夜中、みたいなのをくり返していた。で週末はG社の提案書作成。

ずっとかなり気がはった状態で、ひたすら走り続けていた感じだったんだと思う。「省みる」という時間がなかなか持てなかった。私は省みる時間をエネルギー源にして生きているようなところがあって、何かを見たり聞いたり触れたり感じたりの体験を持ち帰って、それを少し落ち着いたところで自分の中で省みて、人にしてもらったことに「あぁ、ありがたいことだなぁ」と改めてしみじみ感謝したり、「あぁ、あの人はこんな心情なのかもなぁ」と思いをはせながら自分のできることを模索してみたり。そうする中で、むくむく明日のエネルギーを充電していくようなことをしている。

だから内省時間をとる余裕なくひたすら走り続けている状態だと、どうも不健康になってしまう。一つひとつの体験をもって、自分が感じるところを存分に感じ入って、尊い人の行いや気持ちに触れたら、それをとことん感謝したいし、ありがたいことだなぁって気持ちを大切にしたい。そういうものをしっかり受け止めて、自分のエネルギーにして、その感謝の気持ちを次に展開していきたいと思う。

もっと丁寧に生きなきゃなと。そのためには、やっぱり心の器が大きくないといけない。小さな器ですぐ一杯一杯になってしまっては、一つひとつのことを味わい尽くして、それを次に展開するアクションまでつなげきれずに、時間ばかりが過ぎていってしまう。

広義の意味で、私はやっぱりキャリアカウンセラーとして社会に仕えつづけたい。そのためには、強靭でしなやかな精神性が必要だし、国分康孝先生がおっしゃるように「知性・分析力・攻撃性」が必要なのだ。そして、それをまるっと飲み込んだような人としての包容力が必要なんだ。もっともっと人間として大きくならないとなぁって思う。今も少しずつ大きくなれているとは思うんだけど、内省エネルギーをもって毎日の体験をしっかり自分のものにしていかないとなって思う。

壊れてももう一度

先週末、洗濯機が動かなくなった。使い始めて13年ほど、もらいものなので御歳17歳くらいじゃないかと推測され、さすがに寿命かしらと思って、買い替えかーとその事実を受け止めた。

脱水の途中で止まったようで、洗剤まみれではないものの、水分をたっぷり含んでものすごい重さの洗濯物たちが洗濯機の底にまるまって、どすーんと鎮座。まずはこれをどうにかしなくてはと、そのかたまりをまるっと持ち上げて、ある程度水のしたたるのが落ち着いたところで小走りに洗面所に移動。

そこから小分けにして手でしぼる、お風呂場に干す、手でしぼる、お風呂場に干すを繰り返す。幸い、お風呂場に乾燥機能がついていたので、これでどうにかなるんじゃないかとスイッチオン。ときどき様子を覗いて、ときどき衣服の下のほうにたまった水分をしぼり落としてやってと。それで、被害を受けた洗濯物たちは無事乾いた(けどぱさぱさになった)。

しかし、今後の洗濯をどうするのかは保留のまま。先週末はおっきな&急ぎの案件が舞い込んで提案書を仕上げなくてはならない状態だったので、洗濯機購入を検討する余裕もなく。さらに今週は平日も分刻みで並行案件の数々を動かさなきゃな状況で、まさしく忙殺状態。洗濯機選びはまあ時間ができたら検討、それまではコインランドリーか。近所のコインランドリーやさん調べないとなーというまま1週間を過ごした。

それで金曜の晩、久しぶりに生きた心地を取り戻しておうちに帰ってきて、洗濯機問題に向き合った。そこでふと、もしかしたら動いちゃったりして…とまわしてみたら、ほんとに動いた。そうかそうか、おまえも時にはぐずってみたくもなるよなぁ、よしよしと。

というわけで、壊れたのは一時的な気の迷いだったのだ!ということにして、洗濯機問題は決着とした。まだまだいける。全然いける。いやー、いい加減もう寿命だよな、ご老体に鞭打っちゃいけない、買い替えどきなんだよな、というのは早計であった。少し時間をおけば事態が変わることもある。おまえ、まだ働きたいのだよな、十分働けるんだよな。うんうん、わかるぞ。

壊れても、時間をおいてもう一度、「ものは試し」の一手あり。

まりぞう、心の教訓。

2010-07-03

ロジカルボタン

毎月恒例の家族のお食事会。先週末は6月ということで、父の日感謝祭を催した。ちなみにプレゼントしたのは、空気に触れると冷たくなるタオル、水につけてしぼるとひんやり快適な首に巻くタイプのなにか、腕に巻きつけるタイプのミニバッグ(黒地に赤のラインが入ったNikeの)と、これからの暑い毎日を涼しく楽しく歩くためのグッズあれこれ(父はよく歩くので)。

そのときの会話で、「激動の人生」というのがテーマにあがった。「動いている人生のほうが素晴らしい」という文脈できて、父が、「なんや、おまえは仕事ばっかりして、5年前と変わらん人生か」みたいにからんできたので、「生活はさほど変化ないかもしれないけど、私がこれ大事って思っている部分的なところではいろいろ激動してますよ」と返した。

そしたら父が、「激動って言ったって、他と比べてなんぼのもんじゃい」みたいな返しをしてきたので、そこで久しぶりに、家族内の会話でロジカルボタンがスイッチオーンになってしまった。仕事以外のことには大方こだわりというものがないので、家族の会話でこれを発動することはほとんどないのだけど(しかも以前何度かやって、TPOにそぐわぬことをしたと後で反省した記憶も残っており…)。

しかし今回は、人生→キャリア→仕事領域と関心分野寄りだったということもあってか、知らず知らずこだわりっぽいものが自分を突き動かしてしまったのかもしれない、と後で振り返る。父の言葉を受けて、こんな趣旨のことを展開…。

誰かと比べて激動の人生かどうかなんて、そんな測り方はナンセンスだ。人生ってそうやって相対的にみられるもんじゃない。自分でみてどうかって軸でしか結局のところ評価のしようがないし、激動の度合いが万人にとっての人生の豊かさの尺度になるわけでもない。じゃあ何かい、マイケル・ジャクソンの人生は大方誰でも激動だったと思うだろうけど、それと比べたら他の人の人生はクズになるのか、そんなバカな話はない。人生なんて結局は自己満足の世界だ。

みたいな、みたいな…。まず出だしっから「相対的」という言葉の採用がいただけない。場にそぐわない。浮く。減点1。「結局のところ」とか「結局は」とか、そもそも論的立ち返り系アプローチも減点2。さらに「万人にとって」に加え、ここで「マイケル・ジャクソンの人生」を説得材料に持ち出すあたり減点3。そんなわけで、父からここで「おまえはほんと理屈っぽいなあ」とあきれかえされ、以降自粛。たぶん時間にしたら1分くらいだから、微量の過ちということで許されようか。

私はあまり自分について話すこともないから、父にとっては情報が少ない分、地味でつまらない人生にうつっているのかもしれないし、娘の今後も気になろうし、自分の人生と重ね合わせて思うところもあるだろうし、父には父の人生観もあるので、その気持ちもいろいろ察するのだけど、久しぶりにちょっと勢いあまってやってしまった…。もっとどーんと構えて、器の大きい人間にならないといけませんな。本当に伝えたいことは何か、それが相手のものの見方、価値観の中で本質的に伝わる方法を大切にしたい。

ハードルな近況

なんとも忙しく、なかなか余裕がない。忙しさが常態化したところに、さらに新しい案件がやってきて、どーん!というのをここ数ヶ月ずっとくり返している。同時並行でまわす案件数が、常に(私の人生)史上最高値をはじき出し続ける日々。お客さんの業態、相談内容もいろいろと広がりを感じる今日この頃。潜在的に求められているレベルも高くなっていっているような気がする。というか、毎日仕事していていつまでも同じ許容量というのもどうなのかと思うと、無意識に自分でも自分に課す量・質のハードルを上げながら仕事をしているんだろう。

今週来た話はすごく大きいので、絵を描くのに難儀しそう。その分、自分を伸ばす機会にもなるってことなんだろう。立ち上がった現実に対して前向きな解釈を発想するのは、得意というより、そうでないと受け止めるのが大変になるからで、癖といったほうが合っている。まあ、やるだけやってみて、あたってみてくだけるかくだけないかは先方にお任せだ。いずれにしても、やって良かったと思えるように今週末頑張るしかない。取れたら取れたで、8月でひと段落するかと思っていたのが年末まで休めないなーという感じになるけど。とりあえず相談をいただけるのはありがたいことだし、経験こそ人生の価値だ。

提案書を書くときは、もし自分が今回ご相談いただいたクライアント担当者で、そのミッションを与えられたら、どんなプロジェクトを計画するかなって考えると、やるっきゃないし、やることの意味がより近く熱をもって感じられるし、先方社内の人肌感覚をイメージしながら現実的に実りのあるプランを考えやすい。ということで今週末は、次の週末までにプロジェクト計画を落とし込まなきゃならないあるクライアント担当者を憑依させながら提案書づくり。それから、今まさに動かしている大切な案件の次週仕込みも。そんな近況。父の小言が聞こえる。

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