報酬よりいいもの
「報酬を与える」というのは、子どものしつけなり、部下の指導なり、仕事関係の勉強会企画なり、効果的な学習を促すのによく用いられる方法だ。テストが○点以上だったら○○を買ってやるとか、優秀者には○○を贈呈とか、実にポピュラー。動物のしつけではこれが基本とも言えるだろうけど、こと人の学習においては負の効果をもたらすとする研究結果が数々ある。
ひとたび報酬のために何かをさせると子どもは自発的な興味を失い、報酬を得るためにその課題をするようになる。そして、その課題遂行のための自分なりの工夫をしなくなり、報酬がもらえるようてっとりばやい方法でいい加減に結果を出そうとする傾向が強くなるらしいということ
「人が学ぶということ - 認知学習論からの視点」(今井むつみ・野島久雄著)
「報酬を与える」というのは、確かに理に適っている面もあるし、奏効することもたくさんあると思う。短期的に具体的な成果を上げやすいとも思う。ただ、だからといって、非選択的に、安易にそれに手を出したくないな、と思う。報酬がなくとも、というよりは、報酬を与えられない環境が確保されるからこそ、人は自然に、自発的に学習し続けられる面がある。そういう人の尊さを守りたいし、傷つけたくない。
人の学習を支援する立場としては、どういうやり方で動機づけるかについて、専門性と信念をもって選択できるようでありたいと思う。即効性を期待するものは報酬でもかまわないけど、もっと根源的にそれを学習する意味を感受してもらうことで、本人が永く自立的にそれに励んでいけるような学習を期待するなら、そうなるような仕掛けをつくるべきだ。
確かに、報酬を与えれば当人は目の前で喜んでくれるにちがいないし、支援する側される側、どちらも嬉しい気分になれる。それに、報酬ではない仕掛けを考えるより、「なになにを買ってやる」という報酬を考えるほうが楽なことが多い(いくらかかるかは別の問題だけど)。
なにせ、報酬ではない方法で学習を促すのは、けっこうな創造力を必要とする。その学習の面白さは何か、それができるようになるとどんなふうに喜ばしいか、その学習の根源的な魅力に迫っていく必要が出てくるはず。それを埋め込んだ仕掛けづくりが求められる。
だけど、報酬の喜びが短命で、それでは本当に意味があることにはならないと思い至るなら、そこは信念をもって考えたい。私はやっぱり、それを学習する根源的な意味をいかに感受してもらうかってことを考えながら、人の学習の場づくりに仕えていけたらな、と思う。だってそれはとても人の美しいところ、尊いところだと思うから。今朝ふと、深くそう思った。
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