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2010-02-20

風邪と薬と薬屋さん

久しぶりに風邪をひいた。この冬初めてじゃないかなと思う。「風邪のひきはじめには葛根湯」というので、毎回「あ、風邪」と思うと葛根湯を買って飲むんだけど、一度として葛根湯で風邪が治ったことがない…。葛根湯を飲んで風邪のひきはじめで処置できた人っているのだろうか。

それはさておき、前に風邪をひいたときは、会社近くの薬屋さんで風邪薬を買った。適当に風邪薬を選んでレジに持っていき、レジで「こちらもあわせて飲むと効きがいいですよ」と小瓶を勧められ、レジ前にある小瓶を一緒に買って帰った。結局それからしばらく風邪をひいていた気がする。さして小瓶の効果も感じられなかったので、以降は小瓶はいいか…と思った記憶がある。

で、今回は自宅近くの薬屋さんで風邪薬を買った。直接レジに行って、おばさまに「風邪薬を探しているんですけど」と声をかけたら、「あらあら、おじょうさまが?」と。「おじょうさま」が自分を指していると認識するのに0.1秒ほどの時間を要した。が、マスクをしていたし、明らかに私。それで「そうなんです」と返し、「症状は?」というので、「熱、喉の痛みです」と返した。

おばさま、同じくレジにいた薬剤師の資格をもっていそうなおじさまに「熱、喉の痛みですって!」と声をかけると、おじさま「じゃあ、これ」と風邪薬を差し出す。はやいな、選択肢なしか…と思いつつ、「ほぉ、錠剤ですか」と意味なく間をおいてみて、「じゃあ、これをいただきます」と返した。するとおじさま、「あとはね、よく寝ること、あとよくうがいして、とにかく喉を治すこと。喉が治れば熱も下がる、そういうもんだから」と。「ほほぉ」と返すと、ふくよかなおばさまがふくよかな笑みを浮かべて「お大事にね」と。その間、おじさまともおばさまとも目を合わせて会話した。

なんていうんですかね。今回の薬屋さんのほうが、なんか場面場面に「表情」が残っているんですね。もちろん、今回のほうがごくごく最近の話で、前回のは一年前とかの話っていうのはあるんだけど、でも他でも何度だって経験しているように、何かの購入に際してほとんど何の表情もなく購入プロセスを終えているものっていうのは、一回かぎりのコンビニを代表例にいろいろあるわけで、そういうのは情も思い出もなかなか残らないわけで。

前者のほうの薬屋さんのほうが、風邪薬に小瓶がついて、一回かぎりでいうと儲かっているわけですが、後者のほうは、私は次買うときもここに来ようという気持ちを醸成させられているというのですか。その薬屋さんに実際何分いたかとかっていうんじゃなくて、気持ち的滞留時間が長いっていうんでしょうか、交わした言葉や表情なんかにどれだけ思い出せることがあるか、たぶんそういうのが大事なんでしょうなぁと。

それを教科書に書くときは「ユーザー体験」とかっていうのかもしれないけど、これがまた意図的に「ユーザー体験」を提供しようと思われてレジ対応がなされていると、客側としてはうさんくささを感じ取ってしまうものだから。結局気持ちありき、後から教科書に書き起こすなら「ユーザー体験」ってくくられるものが成功例には多いんじゃないかなぁとも思ったり。最近、一所懸命型や体系図を作ろうとするより、気持ちをもって実践してなんぼじゃないの?と思うことしばしばです。教育ができるのは“入り口”の能率化だと思っているので。

それにしても、風邪をひくと気が弱ってしまっていけない。おうちに帰って一息つくと、なんかこの先、私生きていけるかなぁなんてことが頭をもたげてしまう。不安な気持ちは、風邪が治ればどうにか自己処置できるもんかなとやりすごせる気がするし、こんな不安感情もいずれ誰かのカウンセリングに役立つ肥やしになるかもしれないし…と励ましてみられるけど。

今回感じたのは不安感情というより、かなり頭の部分で感じた疑問だった。ほんと、長期的にみて自分が社会に貢献しつづけられる核って…、今の方向であり続けるんだろうか。あり続けるような気もするけれど、今より圧倒的な専門性で研ぎ澄ましていかないと、たぶん意味なくなっちゃうだろうな。でも、この中途半端さのなかにある価値を信じて、そこから軸足を変えずに頑張っていきたい気もするんだ。ときどきすごく苦しいけど、でもまぁ模索しながら頑張っていこうか。風邪を治しつつ、気持ち鍛えつつ。

2010-02-11

取り戻そうと思うより

以前自分の近くにあったらしきものを、取り戻そうって気持ちは、一見楽そうでいて、実際のところきついものだと思うんだよね。それより、新たに手に入れるって気持ちに切り替えちゃったほうが、道のり長く苦しいようでいて、実はずいぶん気分的に楽。すがすがしくそれに臨めるんじゃないかなぁって、最近思ったんだ。結果的にそれが手に入らなかったとしても。そのプロセス自体が有意義なものなら、それが自分の人生そのものなのだし。そんなことを思っていた矢先に、偶然にも人の話を聴いていてその考えを共有する機会があったので、なんとなくここにもメモしておく。

※すみません、どうもしっくりこなかったので後からタイトルを変えました…

2010-02-02

現代の最大の退廃

橋本治氏の荒治療「青空人生相談所」を折り目のあるところだけ再読。この本はスゴイですよ。相談者も読者も、有無を言わさずこてんぱんにやられます。こんなの文庫本で出して怪我人でないのかしら。少しでも気を抜いたら本の中から橋本氏が出てきて、胸ぐらつかまれてひっぱたかれそうな勢い。それが思いのほか(人によっては)爽快かもしれないというスゴイ本。

でも、スゴイのは勢いだけじゃない。というか、スゴイの本質はそこじゃない。一つひとつの問題の捉え方、洞察の深さ、答えの導き方、その答えの相談者への伝え方が芸術の域で、キャリアカウンセラーとして大いに学ぶところがある(私はこのアプローチはとらないけど…)。

そうそう、最近月一くらいでキャリアカウンセリングをしています。計画だててというわけではないけれど、昨年末そろそろそういう取り組みにも時間をとれたらいいなと思っていたら、なんとなくいろいろご相談をいただくようになり。これを私は「風」と呼びますが、人生こういう風はほんと誰しもに吹いているものだと思う。風は感じるように生きたほうがいい。

それはおいといて、下に引用するのは、同氏が「付き合っている彼女に結婚をほのめかされて困っている26歳男性のご相談」にあてた回答の抜粋で、

どうせあなたはお分かりにならないだろうからお教えしますが、あなたが彼女と別れなければならない最大の理由は、“それが陳腐な女だから”です。

に続く話です。ここだけでもこの本の雰囲気を感じ取っていただけると思いますが…、1987年の本ながら、いい感じに2010年の私たちをひっぱたいてくれるなぁと。恋愛云々関係なく、何か今自分にひっついているテーマで一読を。

陳腐というのは凡庸ということです。凡庸ということは、ザラにあるということです。ザラにあるんだから、別にそれをいやがることもないんじゃないかというのが、現代の最大の退廃なのです。
陳腐であるということは、退廃しているということです。現代では、既に退廃もそこまで大衆化しました。平凡な顔をした退廃とくっつく必要はないということです。そして、平凡な顔をした退廃ほど、逃げるのに困難を極めるものはありません。何故ならば、平凡こそは、人類の行き着く最終の安息の地だからです。そこが退廃しています。そこに居着いたら、もう永遠に逃げ場はありません。だからすぐ逃げなさいと言っている訳です。
既にそれに見込まれているあなたにとって、多分逃走は困難でしょう。困難ですが、それをやらなければ、あなたも死にます。

人生観は人それぞれなので、この考えに好き嫌いはありましょうが、ときにはこれくらいの熱をもって自分の人生について考えてみる時間をもつのもいいもの。ときにはこういう本で身も心もざっぶーんと洗われてみるのもいいもの。でも健康じゃないときに読んじゃダメな本だと思います。

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