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2010-01-06

臨界値に達する

過渡期、過渡期と言われて久しいけれど、いよいよ「臨界値に達する」という感じなのかなぁと思う。紀元前6~5世紀の出来事が、ものすごく今の時代と重なってみえた。松岡正剛さんが、この時期それまで各地でばらばらに起こっていた原始的な宗教をまとめようとする人々が一斉に登場してきた背景を、こう話している(「17歳のための世界と日本の見方」より)。

おそらく言語や宗教や、あるいは国や都市の出現、さまざまな民族同士の戦争や侵略といったことが、非常に複雑になって、それがある量にまで達したからなんだろうと思います。このように、ある傾向が一定の量まで達することを「臨界値に達する」といいます。臨界値に達すると、それまでにないものが生まれてくるんです。それを「創発」といいます。

西でも東でも、現実世界においては新しいルールやしくみが必要になり、また人間の想像力やイマジネーションにおいても大きな変革が必要となっていたんですね。そこで紀元前六世紀から五世紀にかけて「創発」がおこって、ゾロアスターや老子や孔子やブッダやピタゴラスが出てきたんでしょう。

調べてみると本当に時期が集中していて、同じ地域ならともかく、ゾロアスター、老子、孔子、荘子、マハーヴィーラ、ブッダ、ピタゴラスにヘラクレイトスと、そうそうたる宗教者や哲学者が世界のさまざまな地域で一斉に出現しているのは意味深いことだよなぁと思う。

これを読んで、どうにも現代と重ね合わせてしまう自分がいたのは、今を生きている自分が今を特別視しているだけなのか、はたまた…。そんなのは一生わからないままかもしれないけど、いろいろなことが今までのやり方では間に合わなくなっていて、世界的に新しいルールやしくみが必要になっていて(追加じゃなくて入れ替え)、その傾向が一定の量まで達している感じっていうのは、あると思うんだなぁ。

で、この時代に改革が起こるか否かは、結局そこに生きている人たち次第なんだろうと思った。紀元前の宗教改革者たちがものすごい偉業を成し遂げたのは、時代が彼らにそうさせたとも言えるけど、彼らが時代の要請に存分に応えたからとも言える。そのまま放置して、次の時代の人たちに引継ぐこともできたわけだし。でも、彼らは引き受けた。もしその時代の人たちが引継ぎ引継ぎ問題を先延ばしにしていたら、徐々に世の中は取り返しがつかないところまで落ちていって、紀元前3世紀くらいには破綻していたかもしれない(適当)。

今にも通じるような偉業を成し遂げたのは、やっぱり彼ら自身なのであって、「今、自分が、やる」と思って実際やったからこその偉業なんだよなぁと。もし現代にその改革を起こすとすれば、それはやっぱりそういう人間がここ現代にも必要なわけで、それって自分たちなわけだ。そこで改革を起こす人がいれば全世界的な改革時代ともなろうし、でなければそのままずるずるっといくのかもしれないし、あるいは没落するのかもしれない。

少なくとも、このまま放置していたらまずいよなぁと思うことはいろいろ起こっている。旧来の法律では解決できないことばかりだし、無理やり法律に頼って答えを出しているから、一件落着ながらどうも腑に落ちないということもある。その割に私たちは法律以外に皆が合意できる解決策をもっていない。法律で決まってなきゃなんでもありって、それだけの判断軸しかもっていないんじゃ子どものけんかだ。そう考えると、ここは改革となったほうがいいんだろうなぁ、なんとなく。

で、そういうときに必要なのは、文句があるなら自分でやるってこと(少なくとも自分がそれに貢献できることを考えて、そっち方向でアウトプットする)と、後方互換<前方互換ってことかなと。前方互換と後方互換の両視点が必要っていうのはたいていそうなんだけど、実感値で後方互換に5割超えというのはちょっと不毛だよな。立場によるだろうけど、いって3割までがバランスじゃないかしら。

なんかよくわからないまま話を終えるけど…、どこ分野というのではなくて、あらゆる分野の人がそれぞれに改革メンバーなんじゃないかなぁと思いつつ、新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

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