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2009-12-30

ほろり、国家の話

今日はいいお話ができたな。京都から里帰り中の友だちに会って、なんだかなー、いろんな話をした。その豊かな時間を過ごしに待ち合わせ場所に向かう途中、「吉本隆明の声と言葉。」を電車の中で読み返していた。

前に読んで、ここは!とすごく共鳴したところを開いて改めて文字を追っていたら、理由をつかみ損ねたまま、ほろりと涙腺がゆるんでしまった。なんだったんだろうなぁ、あれは。しかも国家の話で…。

吉本さんの講演録はこちら。1987年「農村の終焉」から一部抜粋。

国家というのは要するに、ある歴史があるときに国家というのが発生したんであって、人間が必要上作ったのであって、これはあるときに人類の歴史とともにあったんじゃないんですよ。歴史のあとの段階に必要上できたのであって、あるときに必要上できたものは、あるときに必要上消滅するに決まっているわけですよ。

私は実は、割とはっきりとこういう志向の持ち主で、近代とか現代とかの歴史と照らし合わせることはできないけど(歴史に弱い)、とにかく地球が生まれてから猿、人間とやってきて、そこからこの先の未来までまるっとひとまとまりで考えたら、国家も、企業も、組織的なものっていうのはいかようにも必要上生まれ、消えるものだと思っている。

人間なので普通に「場」に対する情みたいなのはあるけど、それを軸に(例えばこの場を守りたい、残し続けたいからという理由で)何かを判断するということはあまりないんだよな。場はやっぱり入れ物にすぎないので、大切にすべきは生身の人間、成し遂げるべきはその組織が希求してきた理念や目的(であって組織の存続ではない)、従うべきは自然の流れ、みたいなところがある。これはいい悪いじゃなくてタイプの問題だと思うけど、組織マネジメントは私と逆のタイプの人のほうが適性あるんじゃないかと思ってしまう(私は断然プロジェクトマネジメントのほうがなじみよい)。

と、話が横道にそれたけど、この講演録の下に添えてある糸井重里さんの解説の後半を読んだら、ほろりとしてしまった。急に取り出されてもわかりづらいかもしれないけど、お伝えしたいのでまるっと後半部分。

けしからんと思われるような国の振る舞いが、その時代時代に、あちこちにあります。でもそれは「国」がやってるんじゃなくて指導者がやってることですよね。それを「けしからん」と、その国のお茶の間の人たちを蹴飛ばすわけにはいかないんです。そこが「違うもんだ」とわかるかわかんないかは、大きいところですよね。こういうことをみんながわかってるというだけで、生きやすくなる気がします。僕は、ほんとうの思想って、僕らを自由にする道具としても使えるんだなぁと思っています。

なにか来るんだなぁ。来てしまう。何が来たんだろう。私はまだ赤ん坊だ。

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