デザインの両義性
「デザイン」という言葉は、たいてい“善”なるものとして語られている気がします。というか、私はこれまでずっと、そういう意味で一義的なデザインの捉え方をしてきた部分があるなと思いました。最終的な成果物を下支えする重要なプロセスとして、また何かをデザインする人への敬意の念をもって、“功”に光をあてて「デザイン」をみてきました。
棚橋弘季さんの『デザイン思考の仕事術』は、デザイナーという職業人に限らずあらゆる仕事人(家庭の仕事、社会活動なども含めて)に有益な思想、考え方、やり方を説いている本なのですが、私が最も反応したのは、デザインの両義性についてのくだりでした。
確かにモダンデザインが提案した生活スタイルは、人びとをそれまで苦しめていた困難や苦痛から解放しました。しかし、その一方でかつての人びとが自ら苦労をすることで身体に刻みこんできたさまざまな感覚や能力を得る機会を奪ってしまいました。デザインは人びとの暮らしを良いほうにも悪いほうにも変化させるのです。そして、その力はどちらか一方に働くのではなく、同時に両方に働く場合のほうが多いのです。物がひとつ増えれば世界は変わるのです。
こう指摘されると確かに、日頃から感じていた事例が頭の中にうじゃうじゃ浮かんできます。例えばこの話を書いている今目の前でも、ココログの管理画面が「おまえのブログでこれを書け」とネタ提供してくれているのですが、このネタ提供機能が追加された当初は、「ブログのネタを考えるところからが書き手の創造性を育む過程なんじゃないのか?それ奪ってどうするんじゃい」と疑問に思ったものです。後々、「でもブログを始める人たちがそれを習慣にしていくとっかかりとしては有用なサービスともいえるのか(うまく使えば)」と捉え直しましたが。
でもこれだって定期的にネタを提供する側は大変だし、これに限らず世の中のあらゆるものは作り手によって考え抜かれ、使い手の手に渡るときには頭を使わなくていいようにどんどんなっている気がします。何が出てこようと「自分で使い方を考える」ことが習慣づいている人は大丈夫なんだけど、思考停止してしまった人、あるいはもともとそういう思考を鍛えてこなかった人は、与えられるものを与えられた使い方でしか使えない状態になってしまう。デザインには、そういう負の影響を及ぼす側面ももっていることを作り手は自覚しておかねばなるまいと。
しかしまた、先のくだりも「はじめに」に書かれている文章であるように、そこで尻込みしてしまうのではなくて、そういったデザインの両義性を踏まえてデザインに踏み込む。そういう精神性がすごく大事なのではないかと考えさせられたわけです。それがデザインの善なる力をより引き出すのではないかなぁと。
実際これは結構な精神力がいると思うのです。デザインという行いが“善”しか生み出さないのであれば話は簡単。いや、簡単でもない。何かを生み出す場合、短期的なコスト抑制の意図で「それってやって意味あんの?それよりじっとしてたほうがコスト的によくない?よくなくない?」と言う身内はいるし、そういう人たちに有意味性を納得させられなければまず第一歩が踏み出せない。
そこ出て次なる関門がこの両義性です。これはある種自分との戦いともいえるのでしょうが、自分がそれをデザインして世に送り出すということは、良い面と悪い面の両方をもった何かを社会に送り出す意味をもつ。その両義性をわきまえて、それでも「これは絶対価値があるし、悪い面に関してはこういうふうに考える」ということが自分の中でしっかり考え抜かれていないと、簡単に折れてしまう。
世に送り出せば、いくら作り手がその両面をわきまえて出したとしても、良い面だけ見る人、悪い面だけ見る人から規模に応じたフィードバックが返ってくる。その賞賛だったり非難だったりを作り手としてフラットに真摯に受け止めていくことを前提にデザインを成し遂げるには、やっぱり強い信念とか責任性みたいなものが必要じゃないかなぁと思うわけです。それが商品・サービス開発であれ、社会活動であれ、子どものしつけであれ。
そんなことを考えつつ、まずは「ここで今、私はデザインするのかしないのか」というところから選択的でありたいなぁと、そして信念と責任をもって自分なりのデザインに取り組みたいなーと思った次第であります。
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