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2009-08-12

デザインのさじ加減

少し前に書いた「デザインの両義性」の冒頭で、私はこれまでずっとデザインを一義的に捉えてきた部分があると書きましたが、なぜ“部分”としたかといえば「キャリアデザイン」に関しては以前から両義性を意識してきたことに思い当たったからでした。

以前連載していたコラムの中で「キャリアをデザインしすぎるな」と書いていたのがまさにその表れで、ただそれがプロダクトデザインや空間デザイン、Webデザインといった分野で使われる「デザイン」と統合されたものとして、自分の中でつながっていなかったんだなーと。そういう意味で、あらゆる分野のデザインの両義性について考えさせられたのが先日のことでありました。

それで、何かのデザインを手がけるなら、それがどんな分野であれ「ここはデザインしない」という選択肢も常に併せもっておくことが肝要ではないかと思ったわけです。例えばキャリアの場合“節目”ではしっかりデザインして、あとはドリフトせよと言われますが、あらゆるデザインで、こういう使い分けの観点があるんじゃないかと。

コミュニケーションデザインと呼ばれる分野であれば、広告デザインやWebサイトのデザインが全部作り手側の「おもてなし」や「良かれと思って」で、良くいえば「至れり尽くせり」だけど悪く言えば「がんじがらめ」な表現に着地していては、なんというか、ちょっと息苦しい。悪い言い方をすると、受け手が無能に扱われている感じがするというのか。

公園を作るのでも、遊び方がすべて決められた遊具で園内が埋め尽くされているのはちょっと違うかなとか。おもちゃを作るのでも、このボタン押したらこんなアクションが起こるってだけでは、これ子どもに与えて日本の将来は大丈夫なのか?という不安が…。服屋でお客さんに自由にみてもらう時間を与えず、あれこれついてまわって説明するのも、私も一人で考えたり感じたりできる生き物でして…というか。

そういうのって、作り手はそれこそものすごい気合いをいれて隅々まで完璧にデザインしてゴールに到達させようとしているのかもしれないけど、本当に一流の仕事っていうのは、デザインコンセプトをしっかり具現化していながら、使い手にゆだねる部分、使い手の解釈の余地を意識的に確保しているものじゃないかなーって最近よく思います。

これがまた、だからといってデザイン行為の手を抜けって話ではないので、どこまでしっかりデザインしてどこからは意識的に使い手にゆだねるか、解釈の余地を残すかってさじ加減がすごく難しいと思うんだけど、でもそこを考え抜いて具現化できるからこその思想と志あるプロの仕事って思います。

使い手に向けた謙虚さ、期待感、信頼感がないとできないって気持ちの部分も大きいし、自分の仕事によって社会にこういうふうに貢献できたらって思想がないとできない。そういう健やかな気持ちをもって仕事をしていきたいなぁと。私はそういう学習の場づくりをしていきたいと思いますので、まぁみんなでえいえいおーです。

次からはもう少しまとまった文章を書きたいなぁ…。すみません、こんな読解しづらい話の連続で。

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