« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »

2009-05-31

概念の定義を述べる

ある概念の定義を述べられることは、その概念を理解していることの何の証明にもならない。逆にその概念の定義をこれと述べられなくても、その概念を実践している人は大勢いる。そして世の中が欲するのはいつだって後者だ。

評論家なんて相当洞察力と表現力に優れた一握りでいい。人は実践家を求めるものだし、実践家として生きることを欲する生き物なんじゃないか。優れた評論家は、どこかで実践家だからこそ優れた評論家なんじゃないか。

そして私は、その概念を実践し、新しい概念に挑戦し、さらにそれを情熱的に語れる人に無性に惹かれるのだなぁと、この週末思った。この大変な時代に、こんなたのもしい人たちとともに生きられることに、感謝と幸いを感じた。私もささやかでもいいから確かな貢献をして、この人たちと一緒に生きていきたいなぁと、この週末思った。あとお正月ぶりに2連休した!

2009-05-29

コラム書きました

ほぼ月連載コラム「withD│キャリアデザインのススメ」も早いもので28回目。2年半近く書いているのかと思うと、なんでこんなに成長がないんだろうなーという不思議がまず胸に湧き起こるのですが…。

でも今回もめげずに書きました。今回のテーマは人の作品を"観る"方法。デザインは門外漢なので、あくまでその辺りは素人目線で書いているのですが、身の回りのものをうまく学習コンテンツとして生かすためのやり方の一つとしてまとめてみました。

といっても、たぶん少なくない人がすでに習慣にしていることなんですが…。どこかで誰かの役に立てばなぁという感じで。さらりと読んでいただければ幸いです。

さて、長くなるのでこのコラムからは省いてしまったことを、こちらにメモ。他の人の作品を観たときのトレーニング方法としては、模写トレにとどまらず、自分で新たに作ってみるというのもありですよね。その作品から読み取った自分なりのクライアント要件とかコンセプトとかをもとにして、自分で新しい作品を起こしてみる。

「家でやろう。」シリーズであれば、こんな感じに(ざっくりですが)。
基礎トレ:「家でやろう。」のコピーで新しいイラストを作ってみる
応用トレ:新しい「○でやろう。」を考え、それにあったイラストを作ってみる(このシリーズには、「家」のほか「海」「山」「庭」「店」がある)
実践トレ:まったく新しいコンセプトで東京メトロのマナーポスターを作ってみる

実際作るとなると相当大変ですけど、電車に揺られながら「自分だったらどう作るかなー」と考えてみるだけで頭の運動になりますよね。なんてことを時々やったりしています。というか、そういうトレーニング課題をクライアント仕様に作りこんでご提供するのが本業のひとつ。

2009-05-23

昇進と自由

前に「昇進した」という話を書いたのは、調べたら2年前のことだった。同じ状況に面している自分の心情を2年前と今とで比べられるのは、長くブログを続けていくことで得られる面白さの一つかもしれない。再び昇進することになった今読み返してみたら、「あぁふけたなー」じゃなくて「あぁ少し大人になったんだなぁ」と思った。

それで今回、会社から「昇進です」と言われて何を感じているのかというと、実はこれといって特にないような…。相変わらず部下をもつわけでもなく、家族を養っているわけでもないので、そういうお気楽さあるがゆえというのは承知しております、すみません…。さらに、別段会社への貢献のあり方が変わるわけでもないので、おそらく名刺も肩書きも変わらない、社内にもこのまま公表されない(ほうがやりやすいなーと思っている)。

でも、部下をもたずにそれでも会社が期待するレベルの貢献をする別のあり方を築いて、実際貢献したいとは思っている。ないものは作ればいいというか。そうすると、そういう働き方で働きたい20代のコとかも働きやすくなるのではないかとか、そういうまっとうなサラリーマン意識もきちんともっている!

というのは置いておいて、前回の「昇進した」を読んでみて、2年前以上にもう本当に自分が組織というものからかなり自由になっているんだなぁと思った。

ここでいう「自由」というのは、“組織の寿命より人一人の労働寿命のほうが長いなんて当たり前の時代だし、組織からは独立したスタンスでいないとね”っていう、私の同世代の間によく根づいている感覚とはまた別の感じで。

私が求婚したい人ナンバーワンのピーター・ドラッカー氏(95歳で老衰のため死去し会えずじまいで恋やぶれる)の著書、『断絶の時代―いま起こっていることの本質』の中にある、こんな感覚の「自由」。

人生から何を得るかを問い、得られるものは自らが投じたものによることを知ったとき、人は人として成熟する。組織から何を得るかを問い、得られるものは自らが投じたものによることを知ったとき、人は人として自由となる。

なんとなくそういう意識はずっとあったと思うんだけど、ここ数年でいろんなことを乗り越えていく中で、本当にきついときでもこういう意識であり続ける強さを養えたのかなぁと思ったりする。組織と自分の関係が、もちつもたれつ以前よりももっともっと自分の中でフラットになってきたというか、力みがない。

もともと形あるものに対する価値認識にうとく、その奥なり下なりにある見えないものにばかり目を向けやすいので(それは最近良くも悪くもの特徴だと思うようになったけど)、うまく新しい形とつきあいながら、自分がなすべきことを成し遂げていけたらなと思う。なすべきことを成し遂げる、私はそれしかできないけれど、欲張らず淡々とそれを続けていこうと思います。

2009-05-21

人体実験

4月から引き続き、ゴールデンウィークもその後の平日も週末もせっせと会社に通い続けておりました…ら、もう5月も下旬に。今なお新しい案件は増え続け、いろんなものが走り続けているのですが、精神的にはここ1日2日で急に落ち着いたところがあります。まぁいずれまたハマるでしょうけれども(いつもその繰り返しなので…)。

とにかく数日前までは相当参っていて、しかし方々に気を張っていないとダメな状態続きだったので(その状況はまったく変わっていないのですが)、一日の仕事時間をまっとうすることで全精力を使い果たし、会社を出た瞬間から半分透過してんじゃないのかってな具合で家に帰っておりました。

そしてまた職業柄なのか体質なのか、そういうときこそ何人もの私が中でフル稼動するのでして、これがまた相当疲れるんだけど自分でも止められない…。一人は私の[身]をなしているもので、これは半分透過状態で歩いている人。そこから一つ内面に入ると私の[心]みたいなのがいて、これがまた相当追い込まれてぐずっていた人で、よく考え(すぎ)るのとめっぽう素直なのが特徴。

この辺りの生身の私たちを常に論破するのが[頭]の私で、さらに暇さえあればいろんな人を憑依させて「私の立場からみたらそうかもしれないけど、だれだれさんの立場に立ったら私にこう動いてほしいと思うのは当然なんじゃないの?」とか言う[他の人]も私の中にいる。時にうじゃうじゃ…。

すると私のインターフェイス寄りにいる2番目の[心]が「ですよね、すみません、甘えたこと言ってましたよね」と素直に受け止める。さらに「自分で規定している自分の役割を捉え直す時期なんじゃないか」とか「でもこの状況でそこまで引き上げて本当に責任をもってまっとうできるか」とか「でもいつまで続くかわからない人生で今ここで踏みとどまるって法もないんじゃ?」とか「じゃあ、どこまでなら責任もって預かれて、どこから先は踏みとどまらないと無責任なのか考えなきゃ」とか「そもそも私がしたいことは…」とか、まぁほんと苦しいくせによく考える。それも比較的非生産的に…。

その4人のなんとか劇場を遠くから見ていて、つどつど「相当ぐずってますね」とか「その論理って正しいけど、論理の正しさだけが正解を決める鍵じゃないし」とか「甘えちゃう自分も受け入れることで人を心から受け入れることができるのだし」とか時々言ってくるおじいちゃんみたいな人もいて。仮に[仙人]とでも。で、これができた人なのかというと「できるだけ客観的であろうと思ってるけど、わしも結局私の中の人だからどこに主観が出てくるかわからんしねー」と無責任なことをのたまう。って本当に何劇場なんだ…。

でもまぁこういうふうに追い込まれたときって、カウンセラーとしてはいろんな感情体験の収穫期みたいなもんなので、自分の見たくない自分もここぞとばかりえぐりだすくらいの強さがないとやっていけないと思っていたりする(ってあなたは誰…)。

そうして自分の中の弱さや情けないところを認めていく、ある種許容していくことで、他の人がもつ弱さや情けない面を心から受け止められるようになるんじゃないかって思う。「自分にはそんな弱さはないし、そんな情けないこと思わないけど、この人は弱い人だからそんなふうに思うんだなー」とかってどこかに差別意識がある状態で向き合っているうちは、たぶん本当の意味でその人のカウンセラーを務めることなんてできないんじゃないかなって思うから。

そんなおごりが間違っても出ないように、自分の弱さにはとことん自覚的でありたいし、そこはすごくつらくてもどんなに痛くても機会あらばえぐるように掘り起こして探り当てて自分の目でしかと見届けておかなきゃって思うのです。というか無意識にそう働くように私の人体ができている。そんなわけで人体実験を受けているような数週間でした。これで少し優しさ強さが増量してることを願ふ。

2009-05-04

何の辞書を使っているか

「みんなが何を使っているのか気になる」という感情はあまり芽生えないお気楽体質なのですが(なので心置きなく流行から取り残されていく)、「辞書」においては最近なんとなく気になりました。

自己紹介すると、今よく使っている辞書はこんな感じなのですが。

国語・漢和(ネット)
goo辞書
国語・漢和(ROM)
「広辞苑」(LogoVista辞典)
現代用語(ROM)
現代用語の基礎知識(LogoVista辞典)
用字用語集(本)
記者ハンドブック新聞用字用語集(共同通信社)
シソーラス(ROM)
デジタル類語辞典(ジャングル)
英和・和英(ネット)
スペースアルク(英辞郎)
IT用語(ネット)
IT 用語辞典 e-Words
百科事典(ネット)
ウィキペディアフリー百科事典

自分の何気ない日常に大いなる問題があったら早期発覚させねば!(って使っている辞書に、んなこともなさそうですが)と思って、というか単純にみんなどんなものを使っているんだろうと好奇心がわきましたので、ぜひ何かのついでのときにでも教えてください。

「えぇ?!今どきスタンダードといったらこっちでしょうが」とか「なんでこんな便利なものを使っていないのだ、おまえ大丈夫か?」とかあればぜひともこそっと教えてください。日本語においてはまぁ、私が使っている言葉ってIT用語を除けば20~30年前の辞書にも載っているものばかりな気がしますが…。それにしてもこの辞書環境、もう何年も更新していない気がします。

追記して特徴列挙

  • 日常的に使う辞書は8コ(とGoogle検索は確かに辞書的…)。
  • 日本語に偏っている。「翻訳」とか使う人間になりたい…。
  • ベースはネットのもので、ネットがつながらない環境でも使いたいのはROMを購入してPCにインストール。
  • お薦めは記者ハンドブック新聞用字用語集(共同通信社)。これは漢字で書くべきか平仮名で書くべきかを教えてくれる。「出来ばえ」は漢字だけど「できている」は平仮名とか。地味に重宝。

2009-05-03

比較的ばさっと

ゴールデンウィーク中も2、3急ぎの作りものありて仕事中心の日々ですが、ここしばらくの暮らしぶりと比すれば余裕をもった生活を送っています(今のところ)。ということで、4月半ばの「換気扇壊れ」「腕時計止まり」「髪の毛伸びたい放題」な状況から脱し、基本的な生活を取り戻そうキャンペーンがここ数日でひと段落しました。あと「本」と「プール」のある生活を取り戻さなきゃ。

しかしまぁビューラー女子がきいたらひっくり返りそうな話で、今日はなんと4ヶ月ぶりの美容院でした。前に行ったのは年末だった…。その反動もあってか、いつもは「気づかれない程度に」もとい「はねない程度に」とかなり控えめなカットのお願いをしているのですが、今回は「いつもよりしっかり切りたい」と意思表明して(通常よりは)かなりわかりやすくばさっと切ってもらいました。

この後は、引き続き仕事を進めてすっきりした状態でゴールデンウィークを明けたいなぁと思っているのですが、明けたら明けたで相当大変な生活が待っているようで。今具体的に想定できる範囲内でも4月より大変になりかねない感じなんですが(っていうか間違いなくそうなる案件の重なり具合)、某大事別件のことを考えるともしかしたらもみくちゃになるかもしれない悪寒。

…としても守りたいものを守り、引き出したいものを引き出せるだけの強さと心の余裕をもって乗り切りたいなぁと思いますが。うーん、何事も人生の味わいなり、起こることを正面から受け止めて、自分のできるかぎりを頑張ろう。そして夏のうちにまた髪を切りにいけますように。

2009-05-01

コラム書きました

しばらくここでの話がお預け状態になっていたので文字文字欲求が高まっているのでしょうか、本日2つ目のお話です。おそれ入ります。今回は「コラム書きました」のご報告。ほぼ月連載の「withD│キャリアデザインのススメ」、今回は「非クリエイティブ職」の再考というテーマで書きました。

毎度アップしてはここで大反省大会を催すのが常となっておりますが、まぁ今回も反省の塊というか。いや、反省して改善できる話じゃないというか。つまり、私は「わかりきった話」しか書けないという弱点をもっているんです宣言。

いつもものすごく当たり前のことしか考えて生きていないので、こういうコラムの場とかでも内容が当たり前のことのオンパレードになってしまう。まぁ世の中当たり前コンテンツが逆に少なくなっているのかもしれないということにして当たり前を語る立たせ方もありかもしれないですけど、だったら後半の手法とか TIPS的なところで画期的なアイディアを盛り込むとかさー、斬新さっていうの?色気ってもんがないんだねぇ、hysちゃんの文章にはさー。(というのは私の妄想上の人物で、編集担当はそんなキャラじゃございません)。

4月は一冊も本を読めなかったし、このひと月の経験ベースで自分がつむぎ出せるものをどうにか実の詰まった何かに展開できないかなぁと思って書いたのですが、書き手がしっかりした幹をもっていないとおいしい実もつかないもんですわなー。

ただ、(ものすっごい読み手任せですけど)この種のテーマの場合特に、今おかれた環境によって新しい発見や気づきがある人もいるのではないかと…。そう考えるとあらゆる文章ってそういうもんでしょうという気持ちもあるので、後は読み手の皆さまにどっぷりと身をゆだねるとします…。読み手の力でこの話に命をふきこんでやってください!

いやはや、やっぱり書く仕事は難解だなー。人の文章を編集しているときとか校正しているときに思うこと、書き手の立場になると自分が全然できていないことがわかる。そういう意味ですごくいい経験。本職はどっちかっていうと編集寄りの仕事のほうが多いので、そっちに生かせるように頑張ろう…。

ビューラー

ビューラーとは、主に女性がお化粧のときに使用するまつげをくるりんとする小道具である。この説明のほうを先に言われて「それはビューラー」と即答できる自信はないが、「ビューラー」と言われてそれがこんなものだと説明できるくらいには私もビューラーに通じている。

しかも驚くべきことに、私はなんとビューラーを持っている。何の経緯で手に入れたのかは定かでないが、家の物置きのようなところにしまってある。同様にしまってあるマスカラとは大の仲良しだ。二人ともうちの物置きに住み始めて数年経つ。

マスカラのほうは、母がもういい加減化粧らしい化粧の一つもしてほしいという願いをこめたのか、数年前の誕生日プレゼントにくれたのを憶えている。しかし私がマスカラを落とせるほど強力な洗顔料を持ち合わせておらず、その場は試供品のメイク落とし1回分でしのいだのだが、これは無理だろうと。

というのもありつつ、実際のところ使い方もよくわからないし、手先は不器用だし面倒くさがりだし、目をよくこするからつけたらきっと大変なことになるし、 そもそも自分の身体に触れるのに気を使う必要が出てくるのは不自由だしと、やらない理由には事欠かないのでありがたく頂戴して大切に保管してある。いつか何処かで、と。

じゃあビューラーはいいじゃないか、洗顔料もいらないし、使い方もシンプルそうだし…と思うかもしれないが、いやいや全然違うよ。問題の核心が見えてないよ。あれ使っているとき自分の身に何かの災いが起こったら、一気に全まつげが抜けてしまうじゃないか。そしたらきっといろんなものが目の中に入ってくる じゃないか。マズローさんによれば「まつげくるりん欲求」より断然、「安全欲求」のほうが高いはずなのに、世の女性はほんと果敢である。この心意気は本当にステキだと思う。

それにしてもできるだけ安全で、突発的な事態が起こりにくい場所と状況を確保してやってほしいと切に願うのだけど、昨日そこそこ混んだ電車の中で、立ってビューラーを使っている女性を目撃して「うわぁ、あぶなーい!」と思わず両肩をがっしり押さえたくなった。

今ここで急ブレーキとかかかったらどうするんだ!「むさっ」とか音が聞こえてきたら、もういたたまれないよ。そんなこと考えていたら気が気ではなくなって「手に汗握る」の一歩手前に至った。あれはもはやマナー云々の問題ではない、彼女のまつげの生き死にの問題だ。

というわけなので、私においては地震も花粉症もない国に移住することにでもなったら人影も物影もないところで使用を検討しようかなぁと思うのだけど、そもそも私はあれのBefore/Afterの違いがいかほどかを知らないのだった。

« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »