必然回帰
先日参加してきた松岡正剛さんの「連塾」。この不況について、松岡さんの見解を私なりの解釈でまとめてみると。
これでいいんじゃないの?って思う。こういうことが起こらないとわからないこと、見えてこないこともある。以前から暗示されていたことだと思うし、どこか自業自得の面がある。100年に一度の金融恐慌だと言うけれど、何の展望もないのかといったらそうじゃない気もする。連日流される不況のニュースも、たった150年前黒船がやってきたときと比べてどれほどの大事といえるか。
自業自得を掘り下げると、私たちは時間と金を結びつけて金融商品を作り、金付きの時間を外部に預けすぎたのではないか。先物とか、それが不要とは思わないが、物事には適量というものがある。また民主主義はあらゆるものを「代理」しすぎた。それによって「必然」を見失った。己に何を残すか。さらに、計算可能だったり測定可能な指標にあわせすぎた。計算できないもの、測定できないものの価値を見失った。
そんな捉え方をしていたと解釈している。じゃあ、物事の適量を超えてしまった世の中がこれからどうなっていくかというと、これはまた全然別の場所で、橘川幸夫さんのこんな話が思い出される。これも私なりの解釈。
社会はもうおなか一杯だ。物は十分豊かになった。あらゆるものを付加価値化する時代は終わり、これからは「シンプル」に向かっていく。これまでの企業活動は、競争社会の中で「本業でないところ」に手を広げてきたけれども、その結果本業がおろそかになってしまった。
これが上で言っていた「必然の欠如」と私の頭の中でつながった。企業活動の本業がおろそかになっている感じ、本業が何かを見失っている感じ、そして本業あってこそじゃないか!という想いは常々感じていたところで、お二人の話はとても響いた。
企業は本業に立ち返る時機だ。この過程で本業のあり方が変わったのなら、それはそれで再定義して社内にも社外にも共有する必要がある。成長過程で身につけたあらゆる付加価値をそぎ落としたとき、自分たちの他にない価値はどこにあって、そのための最小単位として誰と何とどんな仕組みが必要なのか、確認する必要があると思う。そこがあって初めて、プラスアルファの価値を抱えられる時代だ。
そしてもしその本来価値の最小単位がこの付加価値化の過程ですでに失われてしまっていることに気づいたなら、会社をたたむのか立て直すのか、立て直すなら社名も理念も変える意識で舵をきる必要があるんじゃないかと思う。
「そんな簡単に言うな」と言われれば私の身の上ではごもっともと言うほかない。ただ、私たちも「社会」という森で生きる野生動物だ。そう考えれば、野生動物の生きる境遇なんて厳しいのが当たり前って気がしてくるかもしれない。
そしてこれはきっと組織だけじゃなくて、個人のキャリアにも言えることなんだ。ものすごいドラマチックな時代に生きているんだなと思う。まぁ私がそういう仕事に就いているから勝手にドラマチック化してるだけかもしれないけど…。
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» 松岡正剛氏の「連塾」に行ってきた [心のうち]
「自分より圧倒的に視座の高い人の話が聴きたい」という渇望感があった。それで松岡正 [続きを読む]
連塾知り合い数人が行っていたようです。なかなか良かったみたいだね。次回参加してみようかな。
投稿: nom | 2008-12-30 15:13
nomさん、ご無沙汰してます。連塾はnomさんの知り合いっぽいセレブ層が多かったです(笑)。私は関係者の友人が一人、あとはみんな知らない人だったので静かに感銘受けるだけ受けて帰ってきました。ここに書いた話は冒頭10分くらいの間で話された話。本編はさらに濃厚に。次回はぜひとも!
投稿: hysmrk | 2008-12-30 22:02