松岡正剛氏の「連塾」に行ってきた
「自分より圧倒的に視座の高い人の話が聴きたい」という渇望感があった。それで松岡正剛氏の「連塾 JAPAN DEEP 2」に行ってきた。ゲストはいとうせいこう、川崎和男、藤原新也の3氏。とにかく圧倒的だった。13時から20時まで7時間ほどの長丁場、飽きさせないどころかずっと集中力を途切れさせない濃厚な対談3連発だった。
オープニング、jazzyな音楽に乗せて数分間、2008年に出版された250冊の本の表紙が映し出された。正面の大きなスクリーンに、一冊ずつ投影されては秒単位で切り替わっていく。数冊関連の濃い本が続くとまた次のテーマに切り替わっていく感じで、タイトルを目で追っていると自然に2008年のありようが浮き彫りになっていく。本の並びとか、私がつかみきれなかったもっと深い演出も埋め込まれている気がする…。
いとうせいこうさんとの話の途中で松岡さんがこのオープニングについても取り上げていた。○分じゃなくて△分、もっと短くしたほうが良かったと。前日までいろいろ試行錯誤していたようだ。その話を後で振り返りつつ、今回の「連塾」で取り上げられていたテーマの一つは、このオープニングをとっても語れることじゃないかと思った(以降、かなり独自解釈&不思議ワールドに入る)。
見せる時間は○分にも△分にもできる。それは主催者の自由だ。でも、何分かに設定しなければその演出はできない。私たちは何かをなすために、これを必要とする。枠、型、形、箱、メディア、媒介、そういったもの。
じゃあそこに何を入れるのか。これもなくてはならない。そこで、今年出版された本の表紙250冊。これも別にそれが絶対の答えじゃない。本の表紙じゃなくてもいいし250冊じゃなくてもいい、2008年に限定しなくても本にしなくてもいい。それだって主催者の自由だ。それでも何かを設定しなければ、何も伝わらない。それで誰かが発想した。そして本の表紙が選ばれた。全体の時間と冊数、1冊の持ち時間が決まり、250冊にはこの本たちが選ばれた。見せる順番も決まった。そして用意した。
もう一つ駒を戻すと、そこで何を届けるのかという話がある。このイベントのオープニングで参加者に何を届けようとするかも主催者の自由だ。2008年を参加者と共有するための何かであってもいいし、そうじゃないものを見せることも考えられた。そういう仕掛けを一切検討しないこともありえた。その中で、これを選び、これを実現した。私に届いた。
松岡さんは「鍵穴」と「鍵」の話をしていた。オープニングの話と関連づけて話していたわけではないけれど、こうも言えるのではないか。「○分間」という鍵穴の中に、「本の表紙」という鍵を差し込む。「本の表紙」という鍵穴の中に、「2008年のありよう」という鍵を差し込む。「2008年のありよう」という鍵穴の中に、「オープニングで参加者と共有したい今の時代感」という鍵を差し込む。そこに、どっちが先とかないんじゃないかと。ここをまだうまく説明できないんだけど、つまり何かを決めるときに枠と中身はどっちが先に生まれるって決まっているものではなくて、彼らの言葉を借りるなら「同時発生的に不即不離で一体として生まれる、一挙に捉えるもの」。
というのは私の勝手な解釈だけど、実際にせいこうさんと松岡さんが話していたのは、「意識が物質を帯びているのか、物質が意識を帯びているのか」「生命は形が先では?」「形(メディア)がないと情報は世の中に出ていかれない」「言語と概念、例えば“椅子”は椅子という物質があるから椅子という言葉があるのか、椅子という言葉があって椅子という物質に出会うのか」といった話を、そりゃーもうフルスロットルで。
せいこうさんの問いに対して松岡さんは「どっちが先って言えるものでなく、粘土質みたいなところに突き刺さったその瞬間に両方が生まれるイメージを今はもっている」というような言い方をしていたと思う。というか結局、二人が見出したところとしては、「人間には自分たちの意識や言語を完全に認識することなどできないわけで、そういう入れ子状態みたいな矛盾のある中で、メディアを生み続けるしかない」といったところに着地していたような感じがする。
とにかくそういう深海下りてく系の話にひたって、私もものすごい深くまで一緒に下りてきた気分ではいるけど、実際どれくらいまでついていけていたかは神のみぞ知る。それでも、この明らかに自分とは視座違いの皆さまの話を「面白い!」と没頭して聞けただけで相当嬉しい。外国語なのに意味がわかる!というか、その国の言葉も知らないのになんかコミュニケーションとれてる!的な漠たる喜びだけど。
この対談の内容でびびっときたものは、また追ってここにもなんらかの形で残せたらなーと思っている。持ち帰ってきたものはいろいろあるけれど、その最たるは「渇」かなと思う。彼らに救いを求めた渇望感は、違う性質に変容して違う何かを渇望し出している気がする。それは、生命力みたいなものに近いかもしれない。
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実は、私は松岡正剛氏の著作は読んではおりません。今、66歳でアウトプットに忙しく、インプットをする事が出来ないのです。私が熱心に硬い本を読んだのは、二十代の頃結婚をする前までのことでした。そして、その頃は、松岡氏はまだ、この世に論客としては、登場をしていなかったのです。
で、松岡氏について、私が持っている情報はNHKの爆問学問に登場された事があるという程度です。
ところで、この09-3-23日、私が毎週訪問をしている画廊、ギャラリー・アート・ポイントへ入ったら、”雅山房”と言う方の書の個展を遣っていました。で、珍しくお客様が一杯で、熱気に溢れています。それが、松岡さんのお話があると言うことで、それも、人気のひとつとして、待っている最中だったのです。
私は部屋の奥に入ってしまった限り、出るのが失礼に当たるので、お話の最後まで聞きました。
主役の書のテーマは、一休禅師の漢詩です。この書家が松岡氏と懇意だそうで、テーマ選択の際にも、示唆やら会話があったそうで、その個展のオープニングで、講話者兼対話者として、松岡氏が登場なさいました。
その話の中で、最大のテーマは乱と、逆上と言うこと、・・・・・白川静、森田しょうま(森田療法創設者)などの、インテリの思い出、かつ、若い人では宇崎竜堂、山本寛斎(との、交流など)が出てきたのですが・・・・・
この短さの中では重要なことは記すことも出来ませんが、ともかく、松岡氏固有の雰囲気には感じ入るものがありました。何と言うか、間合いの取り方の上手な方で、聴衆が、その間合いゆえに、笑うというか、のるのです。いや、のせられるというのかな?
そこら辺りも、才能の一つであろうと感じました。
では、 雨宮舜 (川崎 千恵子)
投稿: 川崎 千恵子 | 2009-03-25 00:10
こんにちは。メッセージありがとうございます。友人がちょこちょこ覗いてくれる感じのブログで、「検索」でいらした方がコメントを残してくださるというのは、このブログ始まって以来初のことかもしれません…。それもまた私の父より少し先輩、さらにアウトプットに忙しく…とはたいそう充実した日々をお過ごしのことと敬服の念を抱きつつ、大変ありがたく拝読しました。
私自身は、自分の人生を振り返って「熱心に硬い本を読んだ」という時期がありません。ですから、そういう時期をもっていらっしゃるというだけでなんだかうらやましく思います。今からでもやればいいのですが、私も今はアウトプット期で、もう少し先に…そういう時間をもちたいなと思います。
松岡さんのお話は、ほんとおっしゃるとおりですね。一気にあの世界にいざなわれるというのか。深くて愛嬌があって、聴き入らずにはいられないというか。確かに巧みな技も備えているのでしょうけれど、最終的にはそういうテクニックで聴かせているのではない、彼自身の人間性がそれをなしている感じがあって快いです。
私も松岡さんの本はきちんと読めていなくて。松岡さんが所長を務められている編集工学研究所に友人がいて、そのつながりで10年くらい前から存じ上げていましたが、お話を伺ったのは今回が初めてのこと。とても良い時間でした。5月末にまた、あるようですよ。
投稿: hysmrk | 2009-03-25 08:58
『解体屋外伝』面白かった。hysmrkさんのしている仕事と同じことが、書いてあります。
投稿: iketani | 2010-10-14 03:06
おぉ、ほんとですか。では今度読んでみます。難しそうだけど読みきれるかなー(不安)。
投稿: hysmrk | 2010-10-14 10:45
って、松岡さんの本だと思って調べに行ってみたら、いとうせいこうさんの本だった。難しそうじゃない、読めそう。でも、深そう、面白そうですね。
投稿: hysmrk | 2010-10-14 10:47