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2008-12-17

ゼネラリストという名のスペシャリスト

以前、某お世話になっている人から「ゼネラリストを極めれば、それだってスペシャリストなんだよ」って話を聴いて、もやが晴れた感じがした。昔漠然と何かのスペシャリストになりたがっていたような時期があって(これという職種名みたいな称号を欲しがっていた感じ)、20代半ばだったかふっとそういう力みがとれたときの感覚は、一言でいうとこれだなーって思った。数年経って、その感覚を端的に言い表してもらえたような気がした。

力みがとれたっていうのは、別に卑屈になって「私にはどうせスペシャリストの資質なんてないし」と考えたからじゃない。ただ、別に肩書きとか職種名とかわかりやすい名前が何もなくても、自分が仕えたい事が自分の中にきちんと意識化できていて、それに真摯に臨んでそれに貢献できて、自分がアウトプットするものがより上質なものに高められていると実感しながら生きられれば、それこそが本質的な幸いだと思った。そうしたら名前を持つことへのこだわりがすっとひいていった。

今思ったけど、それはもしかすると、数年前キャリアカウンセラーの資格を取ったからなのかもしれない。取ってみて、一応の名前をもってみたからこそそう思えたのかも。取っただけで自分の中身が上質化するわけじゃないし、中身薄っぺらい状態でその名前を振りかざしても本質的な意味など何ももたない。その名前に恥じない人格を育て続けることが何より大切だと思った。

実際取ってみて、資格はそれを取るまでの過程で身につけるものに本質的な価値があり、あとはどちらかというと付加的な価値だと実感した。個人的にキャリアカウンセラーの資格は取得したところがスタート地点だとも思うし。この先自分で何を経験して何を勉強していかなきゃいけないかの指針を与えてくれる。資格は自分をスタート地点まで導いてくれるありがたい機会だった。

と少し話がそれたけど、つまり原理も理論も技法も、知識やスキルとして習得することはとても大事だけど、そのベースにその人のキャリアカウンセラーとしての生き様がなければ砂上の楼閣なんだよなーというか。だからつまり、話をきちんと最初の話に戻すと…。私はキャリアカウンセラーという一応の名前をもったことで、名前をもたないゼネラリスト志向にすっきり着地できたのか。なるほど。これは発見。

うちの会社は基本“営業会社”なので、私は社内では研修の企画提案とかトレーニングの開発とか(研修を売る仕組みづくりとか…)する、どちらかというとスペシャリスト的見られ方をしているのだけど、実際仕事をする上では、その多くをほぼ社外の生粋スペシャリストとのやりとりにあてていて、そこの場ではゼネラリストだ。要件をもとに大まかなプロジェクトの骨子を組み立てたら、あとは自分はプロジェクトマネジメントを中心に担うようにすることが多い。

これという名前を持たない中で、自分はこのプロジェクトの中ではこういう役割を果たせば一番有機的なんだと思う、という自分なりの軸を立ててフレキシブルに動く。そういう自分の立ち位置の中途半端さを許容できる、強さなのか鈍さなのかバランス感覚なのか分かりづらい特質を発揮して事に仕える。そういうところにゼネラリストのスペシャリティがあるのかなーとか思いつつ調子よく自己満足できる楽観性が、ゼネラリストの資質の一つなのかもしれない。

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