smashmediaさんの「そのラブレターは望まれていない」と、そこからとんで山本直人さんの「広告=ラブレター論の陥穽。」を拝読しつつ、最近思っていたことなどつらつらまとめてみた(まとまってないけど)。
この間「全部タダでいいのか」って話で書いたんだけど、私は広告っていうのは本来「その存在と価値を、それを潜在的に欲する人に気づかせて手元に届けるための橋渡し役」みたいなものだと思っていて、裏を返せば“そもそもそれを潜在的にも欲しない人がいる”ことは前提事項として捉えている。つまり「いらないものはいらないんだ」というものが、少なくとも私にはあるということなんだけれども。自分用のしいたけとかうなぎとか。
で、ここで広告をコミュニケーションデザインって読み替えていいのかよくわからないけど、コミュニケーションデザインが、「想定するターゲットにとって嬉しかったり助かったりする何かを“届ける”ためのコミュニケーションを設計する」ことだとすれば、想定ターゲット以外の人にとってはいい迷惑になることもあるだろうと。それを認識していることは大切だと思う。
もう少し俯瞰的?にいってみると、コミュニケーションデザインっていうのは、製品が研究開発されるところから消費者の手に届くところまで時系列でみれば後工程に寄っていると思うし、そこにはそこの守備範囲とか、なすべきミッションというのがあると思う。
マーケティングの「4C」でいえば、「Customer solution」「Cost」「Convenience」「Communication」の4カテゴリーで生活者は製品を捉えるわけで、どんなに4つ目の「Communication」を頑張ったって、嫌いなしいたけは一人暮らしじゃやっぱり買わないし、何の用もない土地までコンビニに買い物に行くこともない。「Communication」だけで選ばれるような絶対の仕組みを作るなんて、普通に考えてみて無理無理感いっぱいだ。
物事の限界を知っておくのは、それを生業にする上でとても大事なことだと思っている。“限界”っていうとものすごく否定的に聞こえるかもしれないけれど、つまり「それのどこに本質的な価値があって必要とされているのか」「どこまでが守備範囲で、どこからは他に任せるべきことだから、それの範疇でやろうとしても無理が生じてくるのか」ってことをわきまえておくことが大事かなと。
わきまえた上で、そこを超えたいって無理するのは、その守備範囲を破る一つの法かもしれないけれど、わきまえずしてなんでもかんでもやりたいからってのは不毛かなーと思う。
コミュニケーションデザインに話を戻すと、その定義をどう捉えるかって話になるのかもしれない。私はさっき“届ける”って勝手に書いてしまったけれど、「想定するターゲットにとって嬉しかったり助かったりする何かを“生む”コミュニケーションをデザインする」領域に踏み込んでいる人にすれば、コミュニケーションデザインができることの守備範囲やミッションはもっと広域だったり、もっと軸足の違うものに見えているのかも。
最近、広告代理店やサイト制作会社にいた人が、クライアント側やWebサービスを開発・提供する側に転職するってキャリアの歩み方がよく見られる。広告代理店のクリエイティブディレクターも、転職しないまでもクライアントワークの中で商品開発まで領域を広げていたりするのは、従来のコミュニケーションデザイン領域ではできないことを前提に、そこに限定されない何かをやりたい人たちの気持ちの表れなのかなーなんて思う。
どっちが良いって話じゃなくて、「コミュニケーション」に軸足を置きたい人が“届ける”から“生む”に仕事の軸を移行していっていたり、「コミュニケーション」という専門領域から違う領域、あるいはもっと広域に関わっていきたいと思う人が自分の居場所を変えていったり、また“届ける”とか“伝える”ところをとことん深堀りする道筋もあるのかもしれない、いろいろな歩み方を妄想する今日この頃。もっと違う何かもそれぞれにあるんだろう。そういう気持ちの風を見守りつつ感じつつ、人のキャリアをサポートする人間として生かしていけたらなぁと思う。
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