「わかりやすいもの」と「わかるもの」
確かに「わかりやすい」と「わかる」は、違うと思いますね。
とは、北川一成さんの「変わる価値」という本に出てくる、グラフィックデザイナー佐藤卓さんの言葉。これは目から鱗だった。その後こう続く。
今、世の中は、なんでもわかりやすく作ろうとしていますが、わかりやすくするから、逆に届かないものになっちゃうということがある。だから、わかりやすいではなく、わかるものを作らなきゃいけないんだと思うんです。じゃあ「わかる」ってなんだろうと。それは、不思議さも含めて腑に落ちること、自分の中に入ってきて、さらに興味を抱くっていうのが『わかる』だと思うんです
ものづくりの担い手は、「わかりやすい」ものじゃなくて「わかる」ものを作らなきゃ。というのは、これこそ「わかりやすくはないけど、わかるなぁ」って話だった。
「わかりやすい」と「わかる」は、似て非なるもの。そこには距離1ミリメートルにして、実はものすっごい歴然とした差異があるんじゃないかと。実際に作るときの作り方のアプローチが全然違う気がする。「わかりやすいもの」は論理を積み上げていった先に何らかの妥当な答えを見つけられる気がするけど(その論理性の高さを求められているような)、「わかるもの」はつまるところそういう道筋でつかめるものじゃない気がする。
「わかるもの」っていうのは、日頃からそれについてうんうん考えている人のもとに、ある日突然、隕石のようにドーン!と落っこちてくるようなもんじゃないかと。論理を積み上げていけば必ず到達するほどの必然性はなくて、かといって日頃からうんうんと考えていない人のもとに落っこちてくるほど偶然の産物でもない、というような…。
そしてその隕石の中にこそ、論理の積み上げでは生み出しえない「不思議さも含めて腑に落ちること」「自分の中に入ってきて、さらに興味を抱く」って要素が詰まっている気がする。そんな不安定なものだからこそ、成功体験と志しと闘志と度胸のある人はそれを追求できるし、ない人はそこに踏み込めないというか。
ただ、やっぱりこの言葉に触れると、こちらに導かれる。使い手にとって本当に価値をもっているのは「わかりやすいもの」じゃなくて「わかるもの」。作り手にとって本当にワクワクするものづくりも「わかりやすいもの」じゃなくて、みんなが皮膚感覚や身体感覚で「わかるもの」を作ることじゃないかと。「使いやすいもの」もおんなじかなぁと。
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