« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »

2008-09-28

CATS観てきた

昨日は中学んときの友だちに誘われてCATSを観てきた。友だちの友だちが行けなくなったチケットを譲り受けたとかで連絡があって急遽行くことになったんだけど、二人ともミュージカルを観るっていうのはそうなじみのない体験。

私は数年前に2回ほど観たことがあるけど、ミュージカルといえば間に休憩入るのが印象に残ってる(というのもどうなのか)。そうそう、「ジキルとハイド」 を観たのでした。ありゃすんばらしかったな。鹿賀丈史。私の中では、鹿賀丈史といえばいつまでも「私鉄沿線97分署」なんだけど。

というのは置いといて、ミュージカル。お値段高そうなイメージがあるけど、安い席だと劇団四季のでも3千円から愉しめる。ものがものだけに席が重要っちゃその通りなんだけど、CATSはキャッツ・シアターってそれ専用の箱をこしらえてて、比較的こじんまりしてて役者さんも縦横無尽に場内を動き回るので、3千円席には3千円席ならではの愉しみ方があると思う。

以下、思ったこと書き散らし。私は「ジキル&ハイド」との比較しかできないけど、劇団四季のミュージカルは(か「CATS」は、か)、エンターテインメント性が高い。逆言うと、人物描写とか心理描写はそんな深堀りされてない印象をもった。個人的に。

観賞する側としてど素人でも、すっごい人の歌やダンスには理屈ぬきに魅了されてしまうもんだよなぁと思った。個人プレイしてるときに魅了される感の高い人が何人かいた。これも逆に言うと、皆で歌い踊っているときの感じはチームプレイを乱さぬよう完璧に稽古されていて端整に過ぎる感じもした。

CATSは25年間に渡って7000回も行われているそうで、ずっと同じ人がやってるんじゃなくても、その過程で築き上げたものは相当だと思う。それは良くも悪くもで、熱心に稽古を積み重ね、完璧を追求してきたがゆえの安定感がある一方で、都会に住む野良猫たちのお話にしては妙にお行儀の良い感じ、飼いならされた感も、届く声、魅せるダンスにのっかっちゃっているような。

初めの頃の躍動感とか多少奪われてしまっているのかもしれない。もっと荒々しかったり、取り乱していたり、ぜいぜいいってみたりするんじゃないかなと思うシーンもあった。そういうのが乗っかってくると、もっと繊細な描写が実現するのかもしれない。と、まったくの門外漢が適当なこと言ってますが。この辺は演者に限らず、私たち世代が考えるテーマとしてすごく重要なことなのでは、と最近思っているので、すみません…。

あと、当たり前なんだろうけど、舞台袖にいる猫たちがずっと猫なしぐさだったのになんか感じ入ってしまった。舞台中央の役者の動きをじゃましないように静かな猫の振る舞いを続けている様が印象的だった。

などなど、新鮮な体験でいろいろ感じ入るところあって愉しかったです。一通り観終えての頭の中は、「猫に話しかけたい」でした。その後友だちとゴハンを食べ、あれこれ濃厚におしゃべりをして帰宅。有意義な一日でした。

2008-09-24

ふとこんがらふぃっと

ふと思い立って電話を買い換えました。「筆箱」と呼ばれていたごっつい図体のW-ZERO3[es]を手放し、スマートなWILLCOM03に進化を遂げました。ちなみに、ふらっと店頭に赴き「これ買います」と言ってみたら、63,000円と言われました。たじろいだ。昔はPHSなんて1円で買えたのに(大昔)、今時の電話はそんなするのか。価格知らなかった…。頑張ってくれよー、2年間。

ふと思い立って部屋で夜に使う照明を変えました。ふと…というか、朝ラジオで照明Rimg0278ご専門のおばさまが「夜に蛍光灯で部屋をこうこうと照らしてるなんてナンセンスざます」みたいなことを言っていて、なるほどなーと思って、夜は天井にくっついているのを休ませて、こっちの照明を使うようにしました。昔からあったやつなんだけど。確かに疲れなくていい感じ。照明って空間を一変させる力をもってるんですねぇ、と今さら。

私、本当に生活力に乏しいんです。仕事力が偏差値50台後半の人並みラインとってるとすると、生活力は偏差値40前半って感じ、アンバランスもいいところ。それは自覚してるんだけど自分でもどうしようもない。使う筋肉が違う。

じゃあ仕事力を生活領域にも適用すればいいじゃない、同じ筋肉使ってより良くできることもあるでしょって考えてみたこともあるけど、こっちの領域のものを仕事力でもってどうにかしよう、どうにかしたいって気持ち自体が底から沸き起こらない。やろうと思ってもできないっていうのもあるんだけど、それってなんか本質的に違うかなぁというブレーキが入っちゃってやる気が起きないっていうのもある。それってそもそもそういうふうに頭使って解決する問題じゃないん じゃないのって私の中の観音様がそっちに行くのを拒むのだ。

なんだかわけのわからない話になってきましたね。とにかくいろんなことでしばらく混乱が続いていて、そのこんがらがった紐を自分の中で毎日毎日解こう解こうとしているんだけど、まだまだこんがらがってる状態。自分のことが、一番よくわからない。ということだけはわかってる。大切なことは、素直であること、善良であること、誠実であること、ポジティブであること、私であること。あと、人に感謝する気持ち。

なんだかいろいろたくさんありますね、人生というやつは。悲しくなったり、切なくなったり、その理由がよくわからなかったり。でも何もない人生より、いろいろある人生のほうがいっか、と秋晴れを見上げつつ一息ついた本日。ここのお話も気づけば10日ぶり。丸一日休みをとったのも確か10日ぶり。ふぃ。

2008-09-14

新しすぎるもの

新しすぎるものに対峙したときに生まれる最近の世の中の批判の多くは、「モラルの低い社会を前提としたデメリットのあれこれ」ではないか。実際、最近の世の中は決してモラルが高いとはいえない状況にあるわけで、こんな意見こそ現実性を欠いた批判だと思われるかもしれないけれど、あんまり“現状”に 肩入れしない私は、「モラルのある社会を前提としたメリットのあれこれ」も同等のエネルギーを使って考えたい、と最近折に触れ思う。

同じ批判でも、両方検討した後での批判と、前者だけ検討した後での批判では、だいぶ厚みが違う。最近は世の中の意見を見聞きできる場がだいぶ増えたけれど、そこには「両方検討した上での批判」「前者だけ検討した上での批判」「後者だけ検討した上での肯定論」「両方検討した上での肯定論」「両方検討した上で何が何やらどっちつかず」が入り混じっている気がする。

たぶん人それぞれに、その新しいものが直感的に善いものか悪いものかを判断していて、それを足場に自分なりの意見を編み上げているんだろう。私もまたその直感にしたがって、無意識に「可能性を探るか」「問題点を探るか」いずれかの道を選んでいるんだろうと思う。それはどっちが先でも構わない。ただ、先にどちらかに進んだら、後でもう一方を検討するバランス感覚をもっていたい。

なぜそう思ったかといえば、その新しすぎるものの作り手はきっと、モラルのある社会を前提にして、ワクワクする未来を思い描いて作ったんだろうなぁと思うから。その人の目がそう言っているなら、そう信じてあげたい。それが、ささやかながらも生涯作り手のキャリアを支援していきたいなぁと思う私なりのモラルの浄化活動だと思う。

もう一つ大局的に。私たちはいつだって、何かの終わりに立っているのかもしれなくて、それは同時に何かの始まりに立っているってことなのかもしれない、どこかの曲がり角にいるのかもしれない、あるいは昨日と同じただ平坦な道の上に突っ立っているだけなのかもしれない。

今がどこなのかわからない。それは多くの場合、後から振り返ってみないと解釈しようのないものだし、後から振り返ってみたところで絶対的な答えなんて存在しない。ただ、どうにもわからないというのに、そういうことに考えが及んでしまうのが私たちだ、ともいえる。

だから、せめてわきまえておきたい。長い歴史の中で、私たちがどういう文脈の中で今を生きているのか、想像することはできても知ることはできないということを。そして、わきまえた上で、バランスをもって検討できる冷静さと、検討の後自分なりの意見をもてる熱っぽさを、胸のうちに育てながら生きていきたいと思う。(なんだ、唐突に…)

2008-09-12

コラム書きました

最近土日なく働いている反動からなのか、ある日突然ホテルサンハトヤの懐かCMが頭の中にふってきました。「伊東に行くならハトヤ~♪」です。それでハトヤのサイトに行ってみると古き良き時代のテレビCMが見られ、すっかりとりこになってしまいました。

私的には「大漁苑篇」と「海底温泉浦島篇」がツボ。しかし、どうも私の中ではこの2つのCMがごっちゃになって記憶されていて、海底温泉の中で子どもが大きな魚を胸に抱え、おぅおぅっとやっているはずだったのが、どうもそれは違ったらしい。ともあれ近日中に日帰りでふらっと行ってくるのが今の私のささやかな夢です。日帰りだと予約いらず、で!あの「海底温泉」が体験できるもようです。

それとまったく関係ない話ですが、なぜかタイトルはこっち採用。今月もwithDというサイトでコラムを書きました。今回はけっこうクリエイティブ業界?に加え、転職活動に寄せた話かと思いますが、たまにはこういうコンテンツもいいかなーというか、もっと多くしないといけないのかもしれない…。というわけで、よろしければ時間のあるときに読んでやってください。今回は「制作実績アピールの方法と本質」。ちょっと名前負けしてるかもしれないのはご愛嬌…。

2008-09-03

ホットのアイスティー

昨日、昼下がりに会社近くのエクセシオールカフェでアイスティーを頼んだら、「ホットのアイスティーですか?冷たいアイスティーですか?」って訊かれた。 思わず吹き出しそうになったけど、お姉さんがさわやかに答えを待っているので、さわやかに「冷たいアイスティーをお願いします」って答えてみた。すると彼女は「かしこまりました!」と言って私に背を向け、冷たいアイスティーを作り始めた。

その間も頬がゆるんで仕方なかったけど、彼女の中ではきっとアイスティー=紅茶になっているはずだから、「ホットのアイスティーをお願いします」って答えたらあったかい紅茶が出てきたに違いない、だから答え方として私は最も平和な回答をしたのだと一人うんうん納得しながらアイスティーを待った。

用意を終えてこちらに向き直った彼女は、「今気がつきました!」とはっとした表情を見せた。そこで心置きなく二人して笑った。あぁ、なんてほほえましい夏の日の1ページでしょうか…。

それと関係あるようでいて関係ないような話だけど(フツー逆が望ましい)、こういう一定の繰り返しを含んで量をさばかなきゃいけない仕事って、一つひとつに神経を集中させ続けていては身がもたないから、良くも悪くも口や体が自動的に動いている状態に入るのが人の常ってもんです。

なので、そこで私が客として気を遣っているのは、できるだけ言葉が意味を失わないように丁寧に話すこと、あと彼らの口や体になじんでいる流れを下手にかき乱さないこと。

例えば一気に「○○とショートアメリカーノを持ち帰りで」と言ってしまえば、それはそれで言う側は効率的だし、ベテランの店員さんだったら話が早いってことになるんだろうけど、仕事を覚えたての人にしてみれば自分の覚えた型をかき乱されて逆にこんがらがっちゃったりもする。

現に、私はレジが混んでいる時何度かこういう頼み方をしたことがあるけど、そのうち少なくない頻度で「お持ち帰りですか」ってもう一度訊き返された。その人の頭の中では、ステップ1は「注文をとる」になっているので、それ以外の情報はそこで言っても情報として認識されない、ゆえに言っても本来の目的の効率化には意味をなさなかったりする。

頻出する言葉がブラックボックス化して意味をもたなくなっちゃったりするのも、アイスティーの紅茶化が好例。だからスターバックスでは「ショートアメリカーノ」と言わないで「カフェアメリカーノのショート」と言ったり、カフェでは「あたたかい紅茶を一ついただけますか」と言ったり、あえて小分けにして言葉に意味を注ぎこむことが少なくない。もちろんTPOにあわせてですが。実際それで聞き返されることはないし、目を見ていると言葉として相手に届いている感覚がある。

短縮して全部の情報を一気に言い切るより、少しゆるみをもたせて小分けにしたほうが、届けたいものが一回できちんと相手に届くってことはあるんだと思う。一見効率的に見えるやり方が、たとえ自分側にとってはそうでも相手も含めたコミュニケーションでみたら結構非効率っていうのもあるんだと思う。

人に優しいって行いは、なかなかいろいろあって面白い。その行いは多くの場合、ひっそり静かに執り行われるもので、時に勘違いとかもあるんだろうけど、なんだか趣きがあっていいですね。ただの自己満足とも言うけど。(笑)

« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »