古いものは奥に行く
この週末、皆さんが華やかにiPhoneを買い求める中、私は2千いくらのUSBメモリを購入してほくほくしていました。今の世の中、4GBの高速転送のが2千円台で買えるんですね。驚きました。
秋葉原の裏通りで特価品を買い求め、帰ってきてデータを整理していたら、古いデータがあれこれ出てきて、懐かしくてダブルクリックとかしちゃったら、あぁ これはまだ開いちゃいけなかった…みたいなものがあったりして。すっかり当時の感情を失ったように思えるものも、ファイル開いたら混沌に巻き込まれたりするってあるものですよねぇ。安易に開いちゃいけません。
って経験を踏まえ、古いメディアに入ってて、そう簡単に開けないとかっていうのは結構いいことなのかもしれないと思いました。PCMCIAのカード型ハードディスクとかMOとか。90年代から続くデータを一通り整理整頓して、普通にさくさく開けるようにしちゃ、逆にまずいんじゃないかと。仕事は別としても。
さっき見つけてぎょっとしたのは、EmNiftyのデータとか。NIFTYじゃなくてNIFTYSERVEだった時代のメーラーソフトで、もうEmNiftyを入れていないからアプリケーションから開いては見られないけど、10年前のメールのデータとかって、もはや他人のものくらいの距離感がある反面、切り離しようのない自分のもの感も共存していて複雑。
技術は容易に10年を瞬間移動できても、人間はそう簡単に“自分の10年”を瞬間移動できないんじゃないかと。でも実際、目の前ではさくさくっと私の10 年が瞬間移動できちゃってるわけです。これの耐性を身につけるか、初めから危険物は捨てておくか、物理的にアクセスが厄介なところに閉まっておくか、なんらかの策を講じておかないと、あまり無防備な状態では技術進歩とともに壊れてしまう人が出てくるんじゃないかと心配になりました。
古いものっていうのは、何十年も経ってからある時思い立って押入れの奥のほうから引っ張り出してきて、ケホケホいいながら埃はらって、ちょっと深呼吸してからアルバムの表紙をめくるぐらいの厄介なプロセスが入るくらいがちょうどいいんじゃないかと思ったり。古いものが自然奥のほうに隠れていくっていうのは、人間にとってものすごく優しい自然の摂理ではないかと思ったり。
技術進歩を受けて人間も変わっていくだろって見方もあるかもしれませんが、その変化って進化っていうより、むしろそれに平然と対応できるようになったら人として劣化してることになりかねないってな気もして、いやー、んなことを思った夏の日の夜ですよ(夏になるとカラオケに行きたくなるのはなんででしょうね)。もちろん存分にこの技術進歩の恩恵を受けており、仲良く愉しくつきあっていきたいって基本路線に変わりありません。今後ともごひいきに。
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