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2008-06-04

義理の兄

昨日は義理の兄と会ってゴハンを食べた。私には義兄はいないが、つまり、のような人だ。初めて赤坂サカスに行った。

考えてみると、私には義兄もいれば、双子の片割れもいるし、生き別れて再会を果たした姉も、「のような人」がいる。イトコって気がしてならない人もいる し、最近義理の父みたいに感じる人も登場した。こういう関係を皆それぞれにもっているんだとすると、なんだか世界は面白いし不思議だ。

人間関係を表す言葉なんて、その不確かさの割りに名前がつくと人間の意識のほうが言葉に規定されて本質的な変化を見えづらくするから、あまり執着して使う べきものじゃないし、安易に必要以上に関係性を名前付けすべきじゃないと思ったりしてしまうんだけど。あぁ、こういうの理屈っぽいやねー。

ただ、先の「のような人」は、私の心のうちに妙に心地よく響く。家族はずっと関係を失わない関係を表すから、言葉の中に安心成分が含まれているのかもしれ ない。それに、「実際はそうではないのに、のような人」という時点で、曖昧さが前提になっているし。結局は、なんだかんだいって時々言葉に寄っかからせて ほしいのかもしれない。あぁ、わけわかめワールドになってきた。

最近、いかに生きるべきかというのを少し改まって考えたりしている。義理の兄とこのタイミングで久しぶりに会うことになったのも、きっと意味があるんだと 思う。大小織り交ぜて、私に考えさせる「機会」が今あちらこちらからまとまってやってきている。私はそういうとこ、けっこう運命思考でものを捉える。

実際過去にも、全然連関のないあちらこちらから、同じメッセージ性をもった事柄が同時期にまとまってやってくるということは、いろいろあった。結局それ は、私がその出来事なり何なりを自分で関連づけしてそう解釈しているだけって見方もできるんだけど、私はそういうふうに「風を捉える」嗅覚とか直感みたい なのを生き物本来の力って考えていて、大事にしたいと思っている。

何かがまとまって自分に働きかけていると感じるときは「今このテーマについてじっくり考えろ」と言われているんだと思うし、今はきっと自分の人生について 考えてみる時期なんだろうな、と思う。義理の兄にも「もっと、生きろ」と言われた気がする。さてどうしようか、ちょっと考えてみているところ。まぁ、より 愉しく充実した日常を重ねていくためにって等身大のささやかな話。

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