感性を呼び覚ませ
心揺さぶられることが3つあった一週間だった。どれも全然違う衝撃で、何の関連性ももたないものなんだけど、意図的に今を狙って集中攻撃仕掛けられた気が してならない(妄想)。「おまえがここ数年見失ってきたもん、いい加減気づいて取り戻せ。今、ここで気づけ!」と、見えざる手に3球続けざまにボール投げ つけられた感じだ。
それが何かって、なんか80年代のTVドラマのようだけど、一言でいえば「感性を呼び覚ませ」。感性をないがしろにしてたわけじゃないけど、「自分は自分 なりに専門性を身につけていかないと!」って思いはここ数年比較的(過去自分比)強かったし、頭でっかちになって、感性が二の次になってた気はすごくす る。逆にそれまでは、まったく専門性がない分、感性でやりくりして生きてたようなものだったし。そういうことにはっとさせられた3球だった。
これは人生の中でも結構大きい気づきかもしれない。本当に自分らしいってとこに戻る道のスタート地点までやってこられたのかも。ここ数年で得たこともうま く自分の中に定着させながら、もう一度戻れるといいなぁ。というか戻るようにしよう。戻るというか、そこ取り戻して今後の自分を磨いていこうと思う。
人にはきっとそれぞれに、ここを磨くと一番自分を魅力的にするという可能性の種みたいなポイントがあると思うんだけど、私は数年前までのほうが自分にとってそれがどこなのかを感じ取りながら生きられてたのかもしれない。
数年前までに知り合ってた人と今会って話しているときに感じる、あの独特な安心感は、自分も相手も私の種を共有している前提があってお話できてたからか。そういうことか。ここ数年で出会った人の中にも、その種を共有している人はもちろんいるけど、それは相手がその種を見つけてすくいあげてく れた場合に限りってものすごい依存的な状態だった気がする。なるほどなぁ。そういうことだったのか。書いてて気づいた。
村上春樹が「回転木馬のデッド・ヒート」の 「タクシーに乗った男」の中で、
人間一人ひとりの中には必ずその人となりの中心をなす点があるはずなのだ
と書いているんだけど、だとして、それを自分 で知っておくかおかぬかは自分の人生に結構大きい影響をもつ気がする。ご存知ですか、自分の人となりの中心をなす点。私はこの一週間でそれを知るための足がかりを得たぐらい。
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