人が倒れてたとき
銀座駅で地下鉄を降りると、近くにいた駅員さんのところへ一人の男性が小走りで駆け寄ってきた。「人が倒れてるんです」と、20代とおぼしき男性。駅員さ んが「え?」と驚いて、男性の後に着いていく。私も改札に向かう人の波にのまれるようにして彼らの後を行く。すると、改札に上がる階段の手前で、女性が しゃがみこむようにして倒れこんでいた。
動かない。2、3人が階段の途中に立ち止まって、少し距離をおいたところでどうしたものかと彼女を見下ろしている。ホームでは、遠巻きに大勢の人がしゃがみこむ彼女の背中を見つめている。
皆が静止していて、なんだか時間が止まっている感じがした。固まった時間と空間をたたき割るようにして、彼女のそばにしゃがんで声をかけてみた。意識がある。怪我もしていないし、触れた額もほどよく温かい。動けるか聞いてみると、どうにかうなずきも返せる状態だった。
これなら、少し駅で休ませてもらえれば大丈夫かもしれない。若い駅員さんから救急車を呼んだほうがいいか、車椅子が必要かと意見を求められ、(んなのわか らんが)とりあえず車椅子を持ってきて駅で少し休ませてあげるのがいいのでは?と伝えると、駅員さんがうなずいてその場を離れていった。
彼女の背中をさすりながら駅員さんの帰りを待っていると、程なく車椅子&3人体制で戻ってきたので、ゆっくり体勢を起こして、車椅子に移動するところからあとはお任せした。
こういうとき、全員が面倒をみようとしても埒があかない。でも、誰も手を差し伸べなくても、これまた埒があかない。だから、全体をみて、今ここで必要な分を推し量って、自分がどう振舞うべきなのかすぐ判断してすぐ行動を起こすことが必要になる。
経験って大事だなぁって思う。以前はこういう場に居合わせたとき、すぐに行動を起こすってことができなくて、結局何もできないまま通り過ぎてしまうばかり だった。そして後ですごく後悔した。でもいくつかの経験と反省を経て、今の私はまずまず瞬間的に判断して一歩踏み出すようにシフトしてきた。
「○○力」とかと同じように、「やさしさ」だってきっと、自分で育てていくものなんだって思う。ある人には最初から備わっていて、ない人にはずっとないっ てものじゃなくて、いろいろな経験を積んで、悔しい思いもして、それを糧に頭動かし体動かし、自分で育てていくもの、育てていけるものなんだと思う。もっ ともっと、力みのないやさしさを自分の中に染み込ませていきたい。結局、自分がどうなりたいかが大事なんだよね。
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