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2008-03-29

インタビュー記事が出た

ここに残すか迷ったのですが、人生の記録ということでやはり書いておきます。ここの来訪者には何気にメディア露出している方が少なくないのですが、ごく平 凡な我が家では赤飯を炊くどころか家宝として代々語り継がれるのではないかというくらいの祝い事です。今出ている技術評論社の「Web Site expert#17」という専門誌にインタビュー記事が載っています。なんと私の。

少し前にインタビューを受け、原稿を少し触ったりして、仕上がったときにはまずまず自分の伝えたいことをまとめられたかなとも思いました。が、それを某氏 に見せたら「もっとこういうのも含まれるんじゃない?」という所感があっさり返ってきて、ががーんと一気に浮き足を地面に着地させることができました。

まぁ限られたスペースの中で話すので、どこかにフォーカスをしぼる必要はあったのですが、わかってて選ぶのと見えてなくてそうなっちゃうのとでは雲泥の差 があります。言い回しとかにもその辺の浅薄さは表れるわけで、まだまだだなぁとか、もっと示唆に富んだ話ができるようになってからこういう話は引き受ける べきなんだよとか、まぁいろいろ思い巡らせました。

が、そんな紆余曲折を経て、今はとにかくやって良かったなと思っています。どこに到達したら出てOKというラインがあるわけでもなし、一つひとつの機会を 大切にして、自分ができる貢献の幅と深さを増していくほかないのだと思い至りました。というわけで、こんな貴重な機会をくださった編集長に心から感謝して います。読者の何かプラスに働くきっかけになればと、あとは神頼み。

そして日頃から自分の知見をさまざまな形で発信されている方々に、改めて尊敬の念を抱きました。「俺様は完璧だ」と思ってアウトプットしている人なんてそ うそういないわけで、それでもどこかで勇気を振り絞って今の自分の精一杯をアウトプットして届けてくれているに違いないと、私は勝手に思うのであります。 それも人のアウトプットに対して浅薄で偏狭な批判が沸き起こりがちな現代社会に身をおいて。あぁ、私もわが身を振り返ってみないと…。

って話がとっ散らかってきましたが、とにかく祝い事です。「ガンバレ!新人応援号」なので、ここで私の小話につきあってくださっている「非Web系」か 「超Web系」どっちかの皆さまにはがっつり対象っぽい方が見当たらないのですが、機会あらばお手にとってみてください。「あなた酔っ払ってんじゃない の?」ってな真っ赤なほっぺの私がいますが、取材は午前中だったし、場所は社内だったし、まったくのしらふだったことをここで弁明しておきます。

2008-03-26

人が倒れてたとき

銀座駅で地下鉄を降りると、近くにいた駅員さんのところへ一人の男性が小走りで駆け寄ってきた。「人が倒れてるんです」と、20代とおぼしき男性。駅員さ んが「え?」と驚いて、男性の後に着いていく。私も改札に向かう人の波にのまれるようにして彼らの後を行く。すると、改札に上がる階段の手前で、女性が しゃがみこむようにして倒れこんでいた。

動かない。2、3人が階段の途中に立ち止まって、少し距離をおいたところでどうしたものかと彼女を見下ろしている。ホームでは、遠巻きに大勢の人がしゃがみこむ彼女の背中を見つめている。

皆が静止していて、なんだか時間が止まっている感じがした。固まった時間と空間をたたき割るようにして、彼女のそばにしゃがんで声をかけてみた。意識がある。怪我もしていないし、触れた額もほどよく温かい。動けるか聞いてみると、どうにかうなずきも返せる状態だった。

これなら、少し駅で休ませてもらえれば大丈夫かもしれない。若い駅員さんから救急車を呼んだほうがいいか、車椅子が必要かと意見を求められ、(んなのわか らんが)とりあえず車椅子を持ってきて駅で少し休ませてあげるのがいいのでは?と伝えると、駅員さんがうなずいてその場を離れていった。

彼女の背中をさすりながら駅員さんの帰りを待っていると、程なく車椅子&3人体制で戻ってきたので、ゆっくり体勢を起こして、車椅子に移動するところからあとはお任せした。

こういうとき、全員が面倒をみようとしても埒があかない。でも、誰も手を差し伸べなくても、これまた埒があかない。だから、全体をみて、今ここで必要な分を推し量って、自分がどう振舞うべきなのかすぐ判断してすぐ行動を起こすことが必要になる。

経験って大事だなぁって思う。以前はこういう場に居合わせたとき、すぐに行動を起こすってことができなくて、結局何もできないまま通り過ぎてしまうばかり だった。そして後ですごく後悔した。でもいくつかの経験と反省を経て、今の私はまずまず瞬間的に判断して一歩踏み出すようにシフトしてきた。

「○○力」とかと同じように、「やさしさ」だってきっと、自分で育てていくものなんだって思う。ある人には最初から備わっていて、ない人にはずっとないっ てものじゃなくて、いろいろな経験を積んで、悔しい思いもして、それを糧に頭動かし体動かし、自分で育てていくもの、育てていけるものなんだと思う。もっ ともっと、力みのないやさしさを自分の中に染み込ませていきたい。結局、自分がどうなりたいかが大事なんだよね。

2008-03-22

パナマと日本

パナマは熱帯の国。熱帯ということは一年中蒸し暑いのであって、つまり「来る日も来る日も一年中蒸し暑い」ということだ。ところ変わって、アルバ島は「来る日も来る日も一年中東から風が吹いている」のだそうで、それも昼夜かまわずずっと。「んなアホなことありますかいな」と突っ込みいれたくなるほど、四季に慣れきった私には現地の具体的な生活イメージがわいてこない。

だけど、パナマやアルバに限らず一年中同じような気候の中で暮らしている人は少なくないようで、見方を変えれば春夏秋冬がこれだけはっきりしている日本の暮らしのほうがよっぽど珍しいのかもしれない、とはっとさせられた。

このお話は、香取一昭さんが「もう一つの日本人論」の中で取り上げているのだけど、香取さんの言及はこれに留まらない。うなった文章を以下引用…。

パナマに行ってから、四季があるということが、日本人の楽観的な性格に大きな影響を与えているのではないかと思うようになった。「冬きたりなば、春遠からじ」という言葉に代表されるように、我々はどんなに厳しい冬であっても、やがていつかはさわやかな春がくることを知っている。また、どんなに厳しい夏であっても、いつかは「天高く馬肥ゆる秋」がくることも知っている。どんなにつらい時であっても、そのうちどうにかなるさといった楽観主義を日本の四季は教えてくれているのかもしれない。

春夏秋冬が「日本人の生活に独特のリズム感を与え」、「精神世界にも多大な影響を及ぼしている」という話。なるほどぉ。そしておそらく私たちは、四季が繰り返されるのをなんとなく受け入れていく過程で、自然界に「繰り返しが起こる」ことも学んでいくし、とはいえまったく同じ夏もまったく同じ冬もやってこないことから、繰り返しているようでも「まったく同じことはやってこない」ことを自然のうちに学んでいるんだろうなぁとも思った。

どういう環境の中で生きているかによって、人それぞれ、環境に学ぶことも違うし、同じ物事や事象に向き合っても、背景となって意識にのぼってこない人もいれば、表に浮き上がって強調されて見える人もいる。そういう話が詰まっていて、すごく面白い本だった。

  • 各人が背景にもつ「環境」は限りなく多様性に富んでいること
  • 人はその「環境」に大いに影響を受けること
  • 「環境」という背景にまわっているものだから、自分がその環境からどんな影響を受けているかにはなかなか意識が及びにくいこと

頭でわかったつもりでわかっていなかったことを少しだけわかった気がした。

2008-03-17

「ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ。」

2001年に出版された「インターネットは儲からない!」って表紙にピンク色のクマがいる本。これを読んで以来、私の中で「すっごい人」登録されている著者の橘川幸夫さんに昨年末お会いする機会があり、その流れで先日、新刊の出版記念会におじゃましてきました。鶯谷にある元ストリップ劇場にて。

新刊は橘川さんの一言メッセージ108篇からなるもの。1ページ1メッセージ。108篇というのがまたちょうど良い加減。深みのあるメッセージって一冊の 中にあまりたくさん編みこまれていても、途中で消化不良になってしまって最後までたどり着けないんですよね、私…。108つというのは、一つひとつのメッ セージときちんと向き合いながら最後まで一気に読めて気持ちよかったです。また気軽に読み返せるし。

で、肝心の、この本がどんな言葉の力をもって読者に語りかけてくるかは、「ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ。」というタイトルが雄弁に物語っているのではないかと。特に20代の若者に向けて書かれたそうですが、心のうちでひそかに情熱を育て続ける私たち30代以上にも刺さる言葉です。恐ろしく研ぎ澄まされた言葉でもって、人の心のみならず時代をわしづかみしちゃうような力をもった人だと思います。一度手にとって読んでみて、自分の情熱のほどを確かめてみましょう…。

人によって心に残るものが違っているようなのですが、一人の人間の中でもその時のコンディションや年齢を重ねる中で、びびっとくるものに変化が出てくるんだろうな、と思います。ちなみに、今回の私の一等賞はこちらです。

不確かなものを愛せよ。確かすぎるものに愛されるな。

ふと思ったんですが、こういうメッセージを編んだ本って、知っている人から贈られて読むことで、そのメッセージが心に届く量と質が跳ね上がる気がします。今 回、私は著者の方を存じ上げていたので、無意識のうちにその人からメッセージを手渡される感覚で、温もりをもった言葉を自分の中に吸収していったんだと思 うんです。

これが著者と直接はつながっていない場合、この本は誰か自分が信頼をおいている人からプレゼントされる形で若い人たちに届けられることで、媒介する生身の人間の温もりをもって何十倍も言葉の生命力を増幅して、人の心に染みこんでいくんじゃないかって思いました。

プレゼントが嬉しいのは、会っていない時に自分を意識してくれたことが嬉しいのだ。

これは一番キュートだと思ったメッセージ。んー、ずばり。人が出たり入ったりの春。この本は後輩や部下へのプレゼントに良い感じです。

2008-03-16

何がなんだか

このところ土日出勤しているため、曜日感覚が完全に麻痺してしまって、「何がなんだかわからなくなってきた」と私のカラダが申しております。悲鳴をあげて いるわけではないけど、ごぼごぼ言ってます。これまでも広い意味でシゴトは休日もやっていたんだけど、やっぱり土日とも朝から晩まで出勤するっていうの は、なかなかカラダにくるようです。来年度は気をつけよう…。

さらに、このところ異空間だったり、(私的に)非日常に足を運ぶ機会が立て続けにあって、アタマの中もまだごちゃごちゃしています。これから咀嚼して自分 の中に吸収していきたいって新しいものがあれこれ積みあがっており、ここにも言葉を残すに至らず時間が流れていきますが、一つずつ一つずつ、考えたり整理 したりアウトプットしていきたいなぁと思っている次第です。

2008-03-10

個人的な文章を書くこと

数年前に読んだ「回転木馬のデッド・ヒート」をここ数日で読み返してみた。「はじめに」で語られる村上春樹氏の言葉、胸にささるなぁ。

少なくとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。(中略)自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達した ような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。

そうなんだよなぁって思う。こういうとこに個人的な文章を書くことって、私にとってはより広くより深いところへ自分の考えや想いを導いてくれて、それをき ちんとアウトプットとして残して振り返れるようにしてくれるものなんだけど、気を抜くとそれで満足しちゃって、文章を書き終えたところで終わっちゃう。

でも、「こうなりたい」「こうしたい」「こうありたい」なんてことは、文章を書き終えても、それだけで終わっちゃ意味がない。文章を書くのはあくまで「こ うなりたい」に到達するまでの一過程に過ぎず、まだ道半ば。そこで深まった考えとか想いを、実際の自分自身に定着させていかないと意味がないんだよね。

文章を書くことは、自分を高みに引き上げてくれる可能性ももっているけれど、文章を書くことで満足してしまうとか、表した言葉や文章に逆に規定されてしまって自分をそれ以上に引き上げるのを阻む危険も持ち合わせている。

そういう特性みたいなものをよくよく意識して、もっとうまく個人的な文章を書くこととつきあっていきたいなぁと思う。例えばこう書いた後、本当に文章とよりよくつきあっていくことを、自分に定着させていくこと。書いて満足しないこと。

ということを、32歳は意識していこうかなと。で、実際どんなふうに自分を磨いていくかは、まぁきっと日々ごろごろ出てくると思うので、ここに書いたり、おしゃべりで口にしたり、誰にも言わずにひっそりやったり、することとします。

2008-03-08

中途半端なところ

あっという間に3月に入って1週間経過。実は明日が誕生日なんだけど、この週末は土日とも出勤日で、どっぷり仕事デーなので考える時間がもてない。

といって別段「誕生日には毎年一年間の目標を立てるようにしている」といった立派な習慣もないし、まぁちょっとした時間の余白があったらそれはそれで良 かったかなぁという程度の話なんだけど。「31歳から32歳になる」という、ひどく中途半端な数字の変化だからこそ、なんとなくなってしまうのでは天邪鬼 魂がうずくというか(でも仕事がなかったら暇すぎて困った気がする…)。

で、一応会社帰り、近所のコーヒーやさんで別のひと仕事を終えて、誕生日前夜だなぁと思いながら、ぼーっと考えてみた。でもまぁ、やっぱり私は具体的な目 標設定ってあんまりしないし、「10年後こうなる!」といった大きな目標を掲げてそこに向かって突き進むという性質(たち)でもない。

性質でいったら、未来の目標を掲げるより、過去の自分を振り返って、自分ってこんな歩み方をしているんだなぁとか、きっとこういうふうに生きていきたいん だなぁとか、まとまりなくアイディアレベルで紙に書き出してみたりして、ちょっと他人事のように把握しておく感じかなぁと。

具体的な目標はあまり立てられないけど、ある程度自分が希望する方向性だけは自覚しておいて、いい風が吹いてきたときにはそれに乗れるように、分かれ道に やってきたときにはどっちに進みたいか自分の答えが出せるように。能動的なんだか受動的なんだかわからないくらいが、自分に無理がなくてちょうどいい感じ がする。ものにもよるけど、自分の内面で足場がしっかりしていれば、中途半端なところに立っていること自体は苦じゃないし。

最近は自分のことがよくわかんないなぁって思うことしばしば。大丈夫なんでしょうかって感じなんだけど、まぁいずれわかる日も来ましょう。31歳も、そろそろ終末。そして32歳の始まり。あまり代り映えしないと思いますが、32歳の私もよろしくお願いします。

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