寛容さについて
寛容さについて、考えている。
寛容さといって、真っ先に思い浮かぶのは、ポール・オースターの言葉だ。私にポール・オースターを教えてくれた人のブログで、彼のインタビュー記事が紹介されていて知った。1996年春『GQ Japan』より。
わたしは寛容さというものを信じている。もっとも一方で、寛容さというのは、『だれも真実というものを持っていない』ということを前提としているわけだけれどね。でも、絶対的な真実というものをだれかが主張し始めると、圧制が始まるんだ。絶対的な真実とか、いろんなものをきれいに二分しようという試みとかは、長期的には絶対に無益なものだと思うね。小説の世界であっても、あるいは現実の世界であっても
寛容さは、前提を必要とする。『だれも真実というものを持っていない』という、本当に自分のものにするにはそれなりの努力が必要な、「前提」を必要としている。
私は言わばトレーニング中の身で、何かを抱え込む度に、時間をかけて、じっくり、それと向き合い、その「大前提」を自分のものにしようとしている。心も頭もフル稼働でそれについて考えて、その過程で自分の内側に「寛容さ」が定着するように方向づける。まだ基礎がためをしている時期だから、ものによっては結構きついトレーニングだ。
寛容さについて、もう一つ引用する。マルカム・ノールズの『成人教育の現代的実践』から。
子どもの世界につきまとう不確実性は、確かさへの根深いニーズを生み出す。生活経験がわれわれに確かさと自己信頼の感覚をいっそう提供してくれるかぎりにおいてのみ、われわれはあいまいさに対して、成熟した形で寛容的な方向に向かうことができるのである。そしてこれは、あいまいさの世界で生き残っていく要件でもある。
つまり、自分の中に何か「あいまいさ」とやりあえるだけの「確かさ」をもっているからこそ、私たちはあいまいな事柄に向き合っていけるし、あいまいなこの世の中では、それは生きるための要件だという話。
確かさというのは、自分の信念だったり、人への信用・信頼、過去の経験・実績、物理的・金銭的な何か、契約関係、いろいろだろう。いずれにしても、自分の中に何らかの「確かさ」を確立していない事柄では、外見上平静を装ってその場を取り繕うだけでいっぱいいっぱいになってしまって、内側で自分を支えきれないことがままある。
「あいまいさについて寛容であるためには、自分の中に確かさをもっていることが前提となる」なら、「何かについて寛容であるためには、自分の中にそれと真逆のものを定着させておくことが前提となる」と言えるだろうか。それを他に転用すれば、「人の攻撃性について寛容であるためには、自分の中に受容性を定着させておくことが前提となる」とか。日常生活を寛容に生きていくための術を探して、寛容さについて考えてみているのかもしれない。
いろんな「実際のこと」を思いながら「寛容さ」について考えていると、寛容さしかもたないという人も、それはそれで本物じゃない気がしてきた。人は誰しも、寛容ではいられないものを心のうちに育てていて、だからこそそれと別に、本物の寛容さをもてるのかもしれないと。いや、これはかなりなんとなーく思っただけの話だけど。
あいまいな世界にぽつんと立って、自分の中に「前提」という支柱をもたない事柄にも頻繁に出くわしつつ、時に足ふるわせながら必死で立ち続ける。その度に冒頭の「大前提」を掲げ、自分の中の「確かさ」を手探りして、外のいろんなものに傷ついたり、それを受けいれたりしながら、やっていく。それもまた人生の味わいということで。収拾がつかないから、そろそろ終わりにする…。
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