« 2008年1月 | トップページ | 2008年3月 »

2008-02-28

コラム書きました

「withD」というサイトで連載しているキャリアコラムですが、ぎりぎりセーフの今月号『「できること」をやらないという選択』が掲載されたのでご報告です。

今回はディレクターに向けた内容で文章をまとめてみたのですが、本質的には「自分の役割に自覚的であれ」とか「できることに縛られてちゃもったいないよ」といったメッセージで、職種を限定した話ではありませんので、何かのつまみにしていただけたら幸いです。

最近は昔より文字数少なめにまとめるようにしているので、どんなんであれそんなに疲れないで済むはずです。そんな勧め方もどうかと思うけど…。

2008-02-27

振休死守

最近どうも泣き虫でいけません。悲しみも人生の味わい。昨日の夕方からは腹痛もひどく、床に臥しておりました。いや、そんなこともないか。一応今日は体調 のこともあって念願の一日振休デーを死守したので、近所のコーヒーやくらいは出歩いてみました。で、本を読んだりコラム仕上げたり。こういうのを「ふさぎ こんでる人」っていうんだな。まぁ答えももってないし耐えるしかない。

それにしても平日休みをとるっていうのは、何かと人に申し訳ないこと、気がかりなことが多く。でも週末出勤は必須だし、ずっと休みを取らないわけにもいかないし、なかなか難しいもんです。そして明日やらなきゃいけない仕事はてんこもり。まぁ元気に出勤してがんばります。

2008-02-24

つまみぐい路線

"平日の「夜時間」を少し意識的に会社以外の時間に開放していこうと思う"という話を先月の半ばに書いているのだけど、それから仕事がさらに多忙を極め、 んなこと言ってる場合でもなくなり、最近それが少し落ち着いたものの、疲れておうちに帰って床についてしまうことが多く、土日も結局仕事しているうちに日 が暮れてしまうので、どうも変化(進歩)がない。

で、明るい光を求めて本日、次「仕事しなくていい休日」はいつなんだろうと仕事のスケジュールを確認していったら、ゴールデンウィークを迎えてしまった。極寒の自室で蜃気楼を見た…。世の中には知らないほうがいいことが確実にあるものだ。

どおりでなぁ、友だちと梅をみにいこうとか、お茶しにいこうとか言っているのに、次の一声がかけられないはずだ(って今さら自分発見)。社交辞令なんて気 は毛頭ないのに、具体的に「この日はどう?」って候補日がいつになっても出てこなくて、休日会う系の友だちと会う話が一向に進められない。

とりあえず何もしなくていい「まる一日」がほしい。年明けの仕事始め以来、まだやってきていない気がする。贅沢言わない、ひと月に一回でいいから、なんて ぶちぶち言っていても仕方ないものは仕方ない。自分で選んだ人生だ。前向きに、現実的に、これはとりあえず「開き直る」しかなかろうさ。

まず、平日振休を頑張って確保する。まる一日休めなくても、まるまる休める日を夢見て引き伸ばさないこと。半休でも休みをとる開き直りが重要だ。それか ら、水泳時間を大切にすること。3月は美容院に行く。マッサージとかもいいかなぁ。いや、あれは笑っちゃうから逆に苦痛なんだった。あとは買い物とかコー ヒーやで読書とか、なんかワンパターンだが。とりあえず、まずは地味ながら自分らしい余暇時間を平日にきちんと確保していくこと。頑張る。

2008-02-22

寛容さについて

寛容さについて、考えている。

寛容さといって、真っ先に思い浮かぶのは、ポール・オースターの言葉だ。私にポール・オースターを教えてくれた人のブログで、彼のインタビュー記事が紹介されていて知った。1996年春『GQ Japan』より

わたしは寛容さというものを信じている。もっとも一方で、寛容さというのは、『だれも真実というものを持っていない』ということを前提としているわけだけれどね。でも、絶対的な真実というものをだれかが主張し始めると、圧制が始まるんだ。絶対的な真実とか、いろんなものをきれいに二分しようという試みとかは、長期的には絶対に無益なものだと思うね。小説の世界であっても、あるいは現実の世界であっても

寛容さは、前提を必要とする。『だれも真実というものを持っていない』という、本当に自分のものにするにはそれなりの努力が必要な、「前提」を必要としている。

私は言わばトレーニング中の身で、何かを抱え込む度に、時間をかけて、じっくり、それと向き合い、その「大前提」を自分のものにしようとしている。心も頭もフル稼働でそれについて考えて、その過程で自分の内側に「寛容さ」が定着するように方向づける。まだ基礎がためをしている時期だから、ものによっては結構きついトレーニングだ。

寛容さについて、もう一つ引用する。マルカム・ノールズの『成人教育の現代的実践』から。

子どもの世界につきまとう不確実性は、確かさへの根深いニーズを生み出す。生活経験がわれわれに確かさと自己信頼の感覚をいっそう提供してくれるかぎりにおいてのみ、われわれはあいまいさに対して、成熟した形で寛容的な方向に向かうことができるのである。そしてこれは、あいまいさの世界で生き残っていく要件でもある。

つまり、自分の中に何か「あいまいさ」とやりあえるだけの「確かさ」をもっているからこそ、私たちはあいまいな事柄に向き合っていけるし、あいまいなこの世の中では、それは生きるための要件だという話。

確かさというのは、自分の信念だったり、人への信用・信頼、過去の経験・実績、物理的・金銭的な何か、契約関係、いろいろだろう。いずれにしても、自分の中に何らかの「確かさ」を確立していない事柄では、外見上平静を装ってその場を取り繕うだけでいっぱいいっぱいになってしまって、内側で自分を支えきれないことがままある。

「あいまいさについて寛容であるためには、自分の中に確かさをもっていることが前提となる」なら、「何かについて寛容であるためには、自分の中にそれと真逆のものを定着させておくことが前提となる」と言えるだろうか。それを他に転用すれば、「人の攻撃性について寛容であるためには、自分の中に受容性を定着させておくことが前提となる」とか。日常生活を寛容に生きていくための術を探して、寛容さについて考えてみているのかもしれない。

いろんな「実際のこと」を思いながら「寛容さ」について考えていると、寛容さしかもたないという人も、それはそれで本物じゃない気がしてきた。人は誰しも、寛容ではいられないものを心のうちに育てていて、だからこそそれと別に、本物の寛容さをもてるのかもしれないと。いや、これはかなりなんとなーく思っただけの話だけど。

あいまいな世界にぽつんと立って、自分の中に「前提」という支柱をもたない事柄にも頻繁に出くわしつつ、時に足ふるわせながら必死で立ち続ける。その度に冒頭の「大前提」を掲げ、自分の中の「確かさ」を手探りして、外のいろんなものに傷ついたり、それを受けいれたりしながら、やっていく。それもまた人生の味わいということで。収拾がつかないから、そろそろ終わりにする…。

2008-02-17

法人向けの提案

先の「ダメな生活っぷり」とは対照的な話ですが、タクシー帰りの翌日にあったプレゼンは、気張ることもなく(できず)自分らしく提案できたし、うんう ん唸ってまとめた分お客さんと信頼関係をつくって帰ってこられた気がするので、まぁとにかく頑張って良かったな、と思っています。お客さんは自分の提案の 中身にフォーカスしてフィードバックしてくれるから、ここから得られる学びとか達成感は毎回大きいものがあります。

昔は法人向けの仕事って抵抗があったんだけど、結局のやりとりは人対人だし、法人向けに働きかけられるスキルを磨けば、それはつまり対個人や対社内に限ら ず、外の組織の中の人のキャリアのサポートにも通じるようになるというわけで、できるだけ自分の力量によって対応手段が狭められ、結果としてサポートでき る対象が狭められることがないように生きていきたい私としては、風任せながら良い方向で仕事機会をいただいているのかなぁと思ったりします(って一文長す ぎ)。

結局、相談者があって、その人とリレーションを築いて問題の核心をつかんで解決に導くための対処をするってカウンセリングの本質からはぶれないわけで、私 の中ではこれもカウンセラーの仕事の一環と位置づけています。それを組織相手にする場合には、いわゆるカウンセリングではなくて、ヒアリングして提案書ま とめてプレゼンに行って組織の予算をとるってことになるってだけの話なんだと。

キャリアカウンセラーとして、個人にも組織にも、それぞれに対応した流儀で関わっていけるように自分のスキルを育んでいきたいなぁと思います。うんうん 唸って苦しむけど、お客さんのために何ができるだろうって等身大で真剣に考えて、提案して調整して、最終的にそれをどう受け止めるかはお客さんの判断だってスタンスは自分の中で定着したし、法人もなかなか面白い仕事になってきました。大変だけど。

2008-02-16

ダメな生活っぷり

すっかり曜日感覚、時間感覚が失われてしまって、毎回目覚ましの音にびくっとして目を覚ましては、その日が何日の何曜日で、今が朝なのか夜なのかを確認す る日々。眠り込んでしまうとまずいと思って電気つけっぱなしで寝たり、気を失うようにソファに腰掛けたまま眠りついてしまうために(効かない)暖房もつ けっぱなしだったりして、ダメな生活っぷりを営んでおります。

先日のイベントのレビューをまとめ終えるや否や、息つく間もなく諸々ためこんでいた仕事の山が目の前に立ちはだかり、そこにまたクライアントさんの来年度の人材開発計画の提案が乗っかってきて、土日なく平日振休をとることも難しく、なんだかずっとずっと働いている状態に。

せめて一日の時間の使い方として深夜まで働くのはやめようとやってきたのですが、プレゼン前日は午前1時半まで会社に居残ってしまってタクシー帰り。もう若くないので、入社以来「この会社では午前まで働くのはやめよう」と思ってやってきたのですが、解禁されました。

しかしプレゼンを終えて翌日は、どうにか半休くらいとれそうだということで午後をお休みに(「午後をお休みしたいんですが…」と当日上長にもちかけるの は、あまり褒められた行いではないなと毎回反省しつつ毎回そうなってる)。で、家に帰り着いて、14時半くらいからコートを着てソファに腰掛けたままで眠 りこけてしまい、結局朝4時半まで14時間ほど、コートで着席睡眠してしまいました…。そこからきちんと横になって眠って、7時起床で土曜出勤。

なんとなく、この先一週間くらいで平静を取り戻せたらなぁと思っているのですが、どうなることやら。まずは、眠るときは電気を消して安眠すること、眠ろう という意志をもって(効かない)暖房を消して眠り始めること、半休でもいいから振替休日をきちんと消化していくこと、をやっていこうと思います。

2008-02-06

欲張りナミダ

自分が雇われプロデューサーしているセミナーシリーズの今回版が終わり、また反省の嵐だ。このイベントをやると、毎回自分のダメなところをメタメタにえぐられて(っていうか自分でえぐって)、本番を終えた頃にはすっかりずたぼろになっている。

んだけど、そういう機会が自分の人生からなくなったり、あってもそれを無意識にはね返して認識できなくなったら、もう人としての成長はないってことなんだ ろうなって思う。あまり品質について指摘してもらえる社内環境でもないし、痛くても辛くても外部刺激から得られる機会は大切に確保していかないと、とも思 う。そう思って立ち直る、毎回それの繰り返し。どちらかといえばマゾ気質で良かったなって思う、ってその発想がマゾ…。

いやー、しかしまぁ、今回もへこみました。まず、イベントプロデュース実務の及第点をとるので今は自分の許容量がいっぱいいっぱいになっちゃってるんだろ うなって思う。プロデュースっていったって、川上から川下まで、企画、出演者交渉、コピー書きに告知活動、参加申込者の対応、運営体制づくりに当日運営ス タッフへの説明、内容の台本づくりに進行台本の作成、関係各社の思惑を反映した仕掛けづくりと調整、関係者それぞれの心配事の払拭に、細々とした作り物 に各種手配、会場との調整など、片っ端からやっていく。

他の人には他の人の仕事があるわけで、いろんな背景をもつこのイベントに関しては、可能な限り自分に一極集中させて進めて、ただ当日はどうしたってみんな の力が必要だから、がっつり入ってもらうって進め方がいいんだろう、と今のところやってきてはいる。が、数週間を準備期間にあてていると、私も他の業務と の兼ね合いで大変な局面というのが出てくるわけで、すると自分に業務が集中していることにストレスを感じることも出てきてしまう。その自分の幼児性を捕ら えては、ふがいないなぁと思う。それに実際は準備段階からいろんな人にお世話になっているのに、準備の真っ只中はその意識も薄くなりがちで、それにもまた 辟易とする。

で、まぁそういうのもまた、一つの大切な感情体験として、大変な局面でわく誰かの弱い気持ちに本物で共感できるカウンセラーとしての財産になる日がくる さって思ったりする私はなんておめでたいんだろう。カウンセラーは未完成な人間(だけど、そのことに自覚的な人間)の方がいいのだ、とか。

とにもかくにも、それでいっぱいいっぱいになってしまって、結果、質を求めて内容を深く掘り下げていくことが全然できていないんだよな。という自分のキャ パシティの問題もあるし、それとは別に、今の自分のスキルレベルと適性の両面で、それそのものの力が圧倒的に不足していることも大きな問題。

これはそうすぐにぐーんと伸びるものではないけど、やれることでやっていないことはあるよなって反省した。適性の話は別として、今日反省したことの積み重ねで、スキルのほうは少なからず上げていけるんだと思うし。

何より、同業の仲間同士だからできることじゃなくて、立ち位置が違うサポーターだからできる仕事を、私はキャリアカウンセラーとしてやっていきたいんだよ な。その手段とか道具はできるだけ制限されない自分でありたい。カウンセリングも、法人向けの提案も、イベントの企画プロデュースも、講座開発も、コラム 執筆も編集仕事も、人のキャリア形成の役に立つことを、できるだけ目的や相手の意にかなった最適な手段を選んでできるようになりたい。

だから頑張りたいけど、あまりの自分の至らなさ加減に、ナミダが止まらなくなってしまった。まぁ、立ち直り早いので、また頑張るさ。すみません、思いのたけをわーっと書いて、文章長くなりました。

2008-02-02

イベントでプレゼンする効果

先週末、某イベントで5分ほどお話しする機会があって、60人くらいの前で「自己紹介します。」というプレゼンをやった。もちろん仕事フォーカスだけど。数日前に主催者の方から声をかけられて、「じゃあ一つ何か…」と思案した結果、場的に会社のサービス紹介より自分の仕事軸で話して、個人のつながりを育んだほうが広がりがあるかなぁと思い、一応そんな用意をして当日臨んだ(というか、そもそも私にはきちんとした会社紹介ができない)。

私の仕事は、初対面の挨拶などで1分程度で話そうとすると、たいてい「よくわからない」とか「なんとなくわかりました」とか言われるのがオチだ。それは私の説明がわかりづらいからに他ならないのだけど、それにしたって毎回試行錯誤して、短い時間で正確にわかりやすくって頑張るのだけど、毎回玉砕して落ち込む。

だから最近は、正確にわかってもらいたい欲を抑え、できるだけ一言二言で切り上げて、聞いている相手にストレスを与えないことを重視することが多くなった。特に、とりあえず「お仕事は?」と聞いてみた、という場面では。実際その人に対して提案したいことが出てくれば、それについて具体的に考えをまとめて話をもっていけば、私の仕事内容などわからずともその提案の価値で話は前に進むものだし。

でも、今回は自己紹介にあたってスライドが使える珍しい場でもあったので、仕事で私が何を何のために作っているのか、ちょこっとだったけど視覚的に伝えられて、通常よりずっと理解してもらえた感があった。プレゼンのゴールは、最終的なアウトプットのカタチにこだわらず、皆さんのキャリアを支援するためのあれこれを作るのが仕事だから、○○な人、○○な人は気軽に声をかけて!ってことだったのだけど、そのゴールには行けたかなと。

で、これをすると何が有意義かって、自分発案でなく、相手が自分の仕事と関連づけて「だったらこれと絡めて何かできないかな」って話をもちかけてくれること。そうすると、一気に「自分の枠」から可能性が広がるわけで、ときどきこういうふうに、自分がどんなふうに皆さんと関わっているのか、関わっていきたいと思って仕事しているのかを話す機会をもつのはいいことだと思った。

っていうのもあるんだけど、実は一番有意義だと感じたのは、話をしている間に私の中の気持ちも育まれていって、自分が誰に対して何をしたいのかを再認識させられる感覚を味わったことかなぁと思う。基本やりたいことは裏方にあるんだけど、こういう刺激もときどき大事。行動を起点にして、それに対する情熱が再認識されたり、育まれるってあるんだなぁと実感した次第です。

« 2008年1月 | トップページ | 2008年3月 »