科学と論理のルーツ
「科学ありき」「論理ありき」な物言いに触れて、違和感を覚えることがある。何かそういう型がもともとあって、それに沿って現実のあれこれが起こっているというのは、ちょっと順序が逆なんじゃないかなぁと。
永崎一則さんの著書「話す力の鍛えかた」にこんな話がのっている。ある先生が新入社員の研修かなにかで「職場の人間関係と話し方」をテーマに講演をした。講義の感想を求めると、新入社員は「あんなことは常識。つまらなくて、ずうっと眠っていた。感想なんかない」というような返事をした。
その後のやりとり、「常識だから聴かなかったというが、常識以外に何が必要だというのかね」「もっと論理的な話とか、科学的なものが常識よりも必要だと思います」に続く先生の言葉が、先の違和感の根っこを端的に言い表していてささった。
「職場の人間関係というのは、生きた生活の実体なんだ。原理論や観念論をならべても役に立たないし、職場というところは理屈ではなく、結果で勝負するとこ ろだ。また、論理そのものがあって、それにあてはめていくというものでもない。科学というのは常識のエッセンスだ。科学的な論理も生活実体を踏まえて組み あげられたものだ」
私も大人になってからそれを理解したクチだけど、特に若い人たちは、成長過程にすでに“出来上がった”身なりをした論理や科学を目にする機会が多くて、それを前提にものをあてはめてみる効率性ばかり説かれてきたのかもしれない。
でも実際、ほとんどの事柄は発展途上にあり、時代とともに変化するもので、その土地の気候風土、生活習慣、文化によって異なるものもあって、絶対的なものじゃない。
私たちはずっとずっとこの先も、生活実体を肌で感じながらそれを考察して、その土地のその時代に生きる自分たちに有意義な論理や科学を組みあげていく、組み直していく、それが普遍的な手順なんだろうなぁと思う。
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