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2007-09-30

科学と論理のルーツ

「科学ありき」「論理ありき」な物言いに触れて、違和感を覚えることがある。何かそういう型がもともとあって、それに沿って現実のあれこれが起こっているというのは、ちょっと順序が逆なんじゃないかなぁと。

永崎一則さんの著書「話す力の鍛えかた」にこんな話がのっている。ある先生が新入社員の研修かなにかで「職場の人間関係と話し方」をテーマに講演をした。講義の感想を求めると、新入社員は「あんなことは常識。つまらなくて、ずうっと眠っていた。感想なんかない」というような返事をした。

その後のやりとり、「常識だから聴かなかったというが、常識以外に何が必要だというのかね」「もっと論理的な話とか、科学的なものが常識よりも必要だと思います」に続く先生の言葉が、先の違和感の根っこを端的に言い表していてささった。

「職場の人間関係というのは、生きた生活の実体なんだ。原理論や観念論をならべても役に立たないし、職場というところは理屈ではなく、結果で勝負するとこ ろだ。また、論理そのものがあって、それにあてはめていくというものでもない。科学というのは常識のエッセンスだ。科学的な論理も生活実体を踏まえて組み あげられたものだ」

私も大人になってからそれを理解したクチだけど、特に若い人たちは、成長過程にすでに“出来上がった”身なりをした論理や科学を目にする機会が多くて、それを前提にものをあてはめてみる効率性ばかり説かれてきたのかもしれない。

でも実際、ほとんどの事柄は発展途上にあり、時代とともに変化するもので、その土地の気候風土、生活習慣、文化によって異なるものもあって、絶対的なものじゃない。

私たちはずっとずっとこの先も、生活実体を肌で感じながらそれを考察して、その土地のその時代に生きる自分たちに有意義な論理や科学を組みあげていく、組み直していく、それが普遍的な手順なんだろうなぁと思う。

2007-09-23

サラリーマンする理由

今週は月曜に来期の内示を上司から受け、うっひゃーと思いつつもそうゆっくりそのことに想いをはせる余裕もなくわたわた仕事しているうち、あっという間に金曜を迎えて来期の組織体制やらなんやらが社内で公表された。

このタイミングで組織が大きく変わるだろうことは予想していたし、その体制の組み直し方も今抱えている課題の根っこを考えれば大方検討はついていたんだけど、自分の仕事領域がこんなにがらっと変わるとは予想しておらず、まぁその他いろいろあって正直驚いた。

で、どうするかって、とりあえず頑張ってみるかという風任せな心境にある。入社以来おもに担ってきた仕事の枠組みからは明らかに抜け出たところに期待され る役割がありそうなのだけど、2年半ここで仕事する過程で、私がこの職でサポートしたい対象も枠を広げてきた感があるし。来期の任務が広く今 の私がサポートしたい対象に向けられたものとあれば、メイン対象となる人や、仕事領域・環境、仕事で使うスキル特性が大きく変化しようとも淡々と 受け入れて、チャレンジしてみるのも楽しいかなぁと、今はそんなふうに思っている。

あっぱれ、この楽観主義者!とも思うんだけど、実は私がサラリーマンをやっている理由の一つはそこにある(他に3つくらい横並びにあるんだけど)。自らは 絶対そっちの方には手を出さないよなぁという仕事をとりあえずふってきたからとやってみると、自分には想像しえなかった新たな自分の方向性を見出せたり、新しいスキルを獲得できたりする(もちろんやっぱり苦手だとしょげることもあるけど)。人によっては、それはサラリーマンという働き方を選ばずとも容易 に越えられる壁だったりすると思うんだけど、私は生来臆病者なのでそういうのはあっちからやってくる“環境づくり”をしておくのが得策なのだ。

何が有意義な遊びの範疇で、何はその外にあるのかは都度自分に尋ねて判断する必要があるんだけど、ともあれ一定の遊びというのは大切だと思っていて、私は こうでなければいやだって全部がんじがらめにして、自分が想定できる範囲での経験しか積まず、想定内の成長しか見込めないのは惜しいなぁと思っちゃうの で、自分がまだ見えていないものに気づくための網をはっておきたい。臆病者のくせに欲深いんだろうか……。

あまり良い喩えが思いつかなかったんだけど、会社には、自分が仕事として中期的にやっていきたいことの場と機会の提供を求めていて、それを「枝」とすれ ば、長期的にやっていきたい「幹」なるところは自身で場を与えて育み、機をみて「枝」を揺さぶる。「幹」と「枝」まで自分が伸びたい方向に伸びるための環境を自分でコントロー ルしておいたら、あと葉っぱのあれこれは風任せにゆらゆらさせて柔軟に受け入れて頑張るっていうのがちょうどいいんじゃないかと思っている。

2007-09-15

今回のコラムは「会議」

「withD」というWebサイトで月1連載しているキャリアコラムですが、今回は「会議」について書きました。キャリアについてのコラムで会議をテーマ に話すというのは、ちょっと違和感があるかもしれませんが、会議ってその空間ならでは鍛えられる筋力ってものがいろいろあって、その辺りに言及してみたい なぁと思ったわけです。

今回もまた提出する段で不安モード全開だったのは相変わらずなのですが、さらに出した直後、もっとフォーカスを絞り込んであの部分を抽象から具象に落とし こむお話にすれば良かったんでは……と自分なりの反省点までたどり着いてしまったため、なんとも苦い脱稿感。とはいえ、変えるとなると最初から書き直さね ばならず時間もないので、とりあえず静かに編集反応待ち。

で、編集の方から、「具体的な会議手法を提示するのもありだけど、キャリアコラムとしてはむしろこういう内容のほうがいいのでは?」というお返事をもらい、な らば!とそのまま行くことに相成りました。宙に3センチばかり浮いたような話に感じられる方もあるかもしれませんが、お時間のあるときに読んでいただ ければ幸いです。「会議」は大人の学び場。心中温かくあれば(笑)、叱咤も激励も大歓迎なり。

それにしても、やはり今回の総括的反省はあり、提出後、編集の方とのやりとり中に自分が書いたつぶやきをメモ。「本からインスピレーション受けるのはいい けど、その内容を租借して一回抜けきってから、このキャリアコラムとしてのテーマ設定とフォーカスの絞り込み方を自分の頭で一から起こさないと、中途半端 になるというのが今回の反省です」。

ちなみに当コラム中、困った会議の例をいくつか挙げていまして、その描写の妙な生々しさに、「にやり」とか「微笑」なんて感想?も聞かれますが、これは別 にすべて私の実体験ベースってわけではございませんのよ。もちろんうっぷん晴らしでもございません。具体的に書いたほうが、共感して先を読みやすいかなぁ と思って、あくまで世の中にあるであろう皆さんの感情体験に妄想を膨らまし、少し豊かめに表現してみただけです、えぇ、誤解なきよう。

2007-09-12

できた順か注文した順か

スターバックスでは決まってショートアメリカーノのホットを頼む。アメリカーノというのは要はエスプレッソとお湯なので(んな言われようはアメリカーノ的 にたいそう心外だと思うが…)、なにがしマキアートとかほにゃがしフラペチーノみたいなのに比べると圧倒的に速くできる。

だけど店員さんによっては、できてしまっても前の人の注文を出すまでアメリカーノをかたくなに引き渡さない人がいて、これが私としては結構不思議なんであ る。視界の先には明らかにもうできあがっているアメリカーノがあるんだけど、それを見つめながらなにがしマキアートやほにゃがしフラペチーノができあがる のをぼーっと待機、というのをちょこちょこ経験している。

声をかけてみてもいいんだろうけど、明らかに自分より年下であろう店員さんが、なんだか一所懸命ほにゃがしフラペチーノを作っているのを見ていると、声を かけるのもなぁという気になるし、コーヒーやに入る時点で当然だけど、別段急いでいるわけでもない状況なので、なんとなくその不思議を観察しながら出てく るまで待っている(か、こりゃ相当かかるぞーという場合には席に行って本を読んでいる、すると結構読み進められる、すると私の決断は賢明だった!とちょっ と嬉しくなったりもする)。

でも、頑張ってほにゃがしフラペチーノを作っている若者以外にも、その状況を把握しつつ、でもアメリカーノを出してこない店員さんもあって、それはやっぱ り「前に注文した方から順にお出ししなくては」という考えのもとなんだろうけど(手持ち無沙汰にしていて、渡そうと思えば私にアメリカーノを引き渡せる状 況にあるので)、それがちょっと不思議なんだよなぁという話。

良し悪しを別にして、考え方はざっくり3つ思いつくんだけど、
[1]とにかくできたものからどんどん出す
[2]注文したお客さん順に出す
[3]できたものから出す(んだけど、ほぼ同じくらいにできたら注文した順に出して、ちょっと時間差出そうだなぁと思ったら「お先に○○ご注文の方。△△の方、もう少々お待ちください」と声をかけつつ後の客に先に出すのもあり)

とすると、私は3番目が一番人に優しいサービスだと思うんだけど、これって人それぞれで価値観が違うものなんだろうか。スターバックスで[2]があったり [3]があったりするのは、[3]というやり方が共有されていない店舗なり店員があるからなのか、それとも[3]のやり方も認知されているんだけど、あえ て[2]を選んでいて、そこには私が踏み込めていない何らかの価値観やポリシーが潜んでいるのか。その辺がわからなくて、いつも不思議だなぁと思いながらそ の光景を眺めているうちにコーヒーが出てくる(からまぁいいかと)。

でもさ、待機中のアメリカーノをみていると、ちょっと切ないんですよね。淹れたばかりの一番輝いている姿を誰にも構われず放置されて、ただ静かに湯気 を立てている様を遠巻きにみていると、なんかかわいそうだなぁって。その姿は本当に、ぽつーんという音が聞こえてきそうな感じなんですよね……。

2007-09-07

45度

あれこれありつつも基本は内勤娘なのだけど、台風接近中の昨日に限って午前と午後に1件ずつ客先訪問があって、それも午前中はプレゼン。小心者なの でこれで1日分のエネルギーを使い果たし(一応私の役回り的には成功して安堵…)、空に「待て待て」と送る念力ももはや失せ(もともと効き目ないけど)、 午後の一件は帰り道に思い切り降られました。

それでパンツ(っていうのはそっちじゃなくて、そうそっちの上のほう)をぴたぴたさせながら会社に戻ってきて、山盛りな仕事にわさわさ向かって、ちょうど 18時半に一呼吸つけたので、そのまま「今日はこれにて御免」と切り上げてきました。といってもプレゼン準備があって朝6時半に出勤しており、時間的には 普段と変わらず、つまり時刻が時計45度分くらいずれたという感じ。

ってことで、珍しくほぼ定時あがりをしてそのまま帰宅したので、掃除、洗濯に励み、小学生なみに21時就寝(今どきだと幼稚園児かもしれない)。で、午前 3時に起きてしまった(今どきだと81歳くらいかもしれない)。でも、時間にして6時間眠っているから、まぁいいのかーと受け止めてしまったけど、本当にいいんだろうか。

午前6時に起きるところが午前3時になってしまうと、午前9時の仕事開始が午前6時になってしまう。とすると、この先皆が出勤する頃にはランチに出かけた くなり、3時のおやつには残業モードに突入。定時には午後9時の疲労感。午後9時まで残業すると、一人深夜0時の形相になってしまう。というのはよろしく ない。今週は土日も仕事だし早いうち45度戻さないといけません。

2007-09-05

温もり

一つ前の「初秋の脳内トピックス」のコメントに使った「温もり」という言葉は、今読んでいる「竜馬がゆく」の一節に触れて出てきたもの。竜馬について、

「口から出る言葉の一つ一つが人の意表をつくのだが、そのくせ、どの言葉も詭弁のようにみえて浮華では決してない。人をわなにかける言葉ではないのであ る。自分の腹のなかでちゃんと温もりのできた言葉だからで、その言葉一つ一つが確信の入った重みがある。だまって聞いていると、その言葉の群れが、小五郎 の耳から心にこころよいすわりで一つ一つ座ってゆく」

とある。うーん、こういうふうでありたい、と思う。私はそんなに言葉も知らないし、弁が立つわけでもない。ただ、自分が人に届ける言葉はきちんと自分の温もりを宿したもの、率直なものであり善良なものであり本物の姿をもったものでありたいという信念は強い。

立派なことは言えなくとも、これは嘘じゃない、本当に本心から言っているんだなと受け取ってもらえるもの、斬新ではないけれどもきちんと人の心に座ってゆくもの。それはたぶん、どういう言葉を使っているかという表現云々より、それを発する人物にかかっている。

もちろん、表現する術は鍛錬したい。人は何らかのかたちでものを体現化する術を備えるべきだと考えていて、私にとって一番適性にあうのは言葉だったり文章 だったりするので、その辺は意識して継続的に磨いていきたいなぁと思っている。でも、それはあくまで術なのであって、そのもとがなければ意味をなさない。

「同じ言葉でも、他の者の口から出れば厭味にも胡乱臭げにもきこえる」

「おなじ内容の言葉をしゃべっても、その人物の口から出ると、まるで魅力がちがってしまうことがある」

ともある。本当にそうだなぁと思うところで、やっぱり言葉は、それを話す人物ありき。伝えるものの種類にもよるけれど、特に私が届けたいものの多くはそこ に属すので、私自身が人物として立っていなくては言葉は本質的な意味をいつまでももてないままになる。振り返るとまだまだだなぁと思うけど(それができていないというよか、その信念をもって語れる範囲が狭すぎって感じ)、これからこれ から。

2007-09-02

初秋の脳内トピックス

○猫と片想い
8月上旬の鬱々とした状態から一転した。お盆明けくらいに内側に変化を起こせて、男気の境地に入ったとたん心境ががらっと安定した。外的環境になんら変化がなくとも、自分の「人」や「状況」の捉え方を変えれば、人はこんなにも安定した状態を取り戻せるのかと体感する機会にもなり、なかなか実りある8月だった。自分のトラウマも2、3捕らえた。キーワードは猫と片想い。

○思慮深さと快さ
思慮深さは、寡黙であることと同義じゃない。思慮深くあって尚ありのままの自分を伝えていくことはできるし、その方が気持ちいい。自分が快い人であれば、相手に不快を与えることもない。昨日より今日、今日より明日、ありのままの自分が快い人であるように、人の目あるなしを気にせず素敵な人になっていけばいいことだ。ただ、それだけのことだ。

○一般的より本質的
私において、一般的であることはほとんど意味をもたない。見せかけはまったく意味をもたない。いかに本質的であるかに意味がある。私はそういう志向で生きている。自分の志向には自覚的であるべきだ。

○主語より述語
世の中、新しい名前ばかり出てくる。そして多くの名が程なく消息を絶つ。名前なんてもうたくさんだ、せっかく人に生まれたなら、主語じゃなくて述語を豊かにすべし!と時々強く思う。

○蝉の死に際
夏の終わりは蝉の死に際にあうことが多い。あれをみると武士の切腹を思い出す。松田優作が「なんじゃこりゃー」と叫んでいるようにも思われる。

○竜馬がゆく
最近「竜馬がゆく」を読み始めた。おもしろい。でも、31歳の娘が日曜の昼下がりにコーヒーやで「竜馬がゆく」をめくっていると知ったら、父はあまり喜ばないかもしれない。父はこういうの好きそうなのだが、これを今月の父への推薦図書に挙げるかどうか、そういうわけでちょっと悩んでいる。

そんなトピックスが脳内でうごめく秋の始まりであります。

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