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今年3月、身を震わせながら人間ドックを受けにいって院内で倒れ、予想以上の惨敗に終わった話はここでもしましたが、あれから半年が経ち、「再検査のご案内」が届きました。郵便受けの前で、身体が硬直してしまいました。
3月の検査結果が届いた時に「体重は標準を10kg下回るのに脂質高で要経過観察になっていた」と書きましたが、そうなんです、見た目は普通の人を装って いますが、私の中は脂質ですごいことになっているんです。お菓子とか与えちゃダメなんです。「魚と野菜、煮物・焼き物・蒸し物を食べなさい!」とお医者さ んに注意を受けるようなぷくぷく具合。
人間ドックを受けた半年前から意図せずして3~4キロ体重が落ちているんですが、中の脂質がそれに伴って落ちているかは定かでなく。というか、そんな協調性はない気がしてなりません。
それはもう検査してみないことにはって感じなのですが、それより何より採血の検査だけは本当にいやなんですけど、脂質っていうのはもしかして採血検査 になるんでしょうか。よくわからないのですが、それだけは困ります。いや、本当に倒れますから。あの血の気が引く感じはもう二度と味わいたくないです。検 査のやり方において、医療の発達を願わずにはいられません。それも超短期的に!
金曜はひょんなことから某若者の恋愛相談を受けるかっこうとなり、お酒を酌み交わしつつあーだこーだと話をきき、話をした。なんだか普通のオトナの夜みた いだ。私の返した話は、本人にしてみればものすごく視界の開けた腑に落ちる話だったようで(受け止めるのは痛い話なのだが)、なんか有意義な時間になっ たっぽい。私も有意義だった。
自分なりにカウンセラー適性みたいなものを感じつつこっちの道を歩んできているわけで、その辺の筋力を使って、その人が自力ではつかめない何かを届けられるというのは、まぁそうありたいなぁとか、そうでないとなぁという思いでもあるわけだけど。
ちなみにこれは自慢ではなくて、人の適性というのは360度に広がっていて、誰しもどっちかに適性が向いていてその反対側には向いていないという話であっ て、私の適性はこっち側という話だ。そうやっていろんな人が、他の人にはなかなかできないものを提供しあって交換し合っているのが健全な人間関係ではない かと、私の頭の中はそういう絵になっている。
でも、今の職場にきてから人の相談に応えるってのは本業においてこなかったし、もちろん意図して他の軸足を選んだんだけど、「広義のカウンセラーを本来的 な自分の立ち位置としてすえつつも」という基本路線が見失われていたような気がする。そう思い続けてはいたけど、そうできてはいなかったというか。
最近は特に机に向かって企画立てるとか仕組み考えるとか、人とのやりとりもいかに前に進めるべきかって視点ばかり走っていた気がして、カウンセラー筋力をつかって誰かに何かを直接届けていく機会がものすごーくなかったな、と振り返った。
やっぱり、適性をフルに活かしてその辺の筋力を使ってもっともっとそれを鍛えつつ、軸足を広義のカウンセラーとして生きていく(仕事していくって限定はな く)っていうのが、ありたい姿なんだよなぁとほんわか思い、そういう人との関わり方とか、時間の使い方とか、もっと大切にしようとほんわか思った金曜の夜 だった。
今日は夜中打ち合わせがあって休みではなくなったので、午前半休にした。ということで、朝いつもより長く泳いでいる間に考えていたこと。すぃーすぃーとしながら1時間、まさかこんなアホなことを考えていたとは誰も思うまい。
私は時々天然ボケだって言われることがあって、それってどういうことなのか本質的にはよくわからずにきた。だいたい、(すでに数十文字前に書いちゃってる けど)「私、天然ボケってよく言われるんですよ」ってのもなんかうさんくさいし、といって「私、天然ボケです!」って断言されても受け止めようがない(そもそも公言する意味がない…)。
つまり、天然ボケっていうのは他薦によってのみ正式に認可されるものなんだと理解したんだけど、それだと余計に純正天然ボケの当人が「自分は天然ボケである、それはかくかくしかじかであるから」と正確に自覚するのは非常に難儀なことだと思わざるをえない。
で、私が純正かどうかはそれこそ自分には判別不能なわけで、まぁどっちでもいいんだけど、自分が天然ボケと指摘された過去の事例を振り返って、その本質を 自分なりに考察してみようと、プールの中で無意識に試みていたわけなのだ。で、考察してみるに、こういうことが言えるんではないかと。
「天然ボケ」って、まぁ自分が何かの発言をした時に言われるわけだけど、だいたいそれって、一般的にもたれやすい先入観を自分がもたずに何かについて論じた時ではないかと思うのだ。もしくはそれを前提に何かを口走った時。
私は、自分の思考の枠組に既製品を使うのを非常に嫌う傾向がありまして、何かについて思ったり考えたりするときは、柔らかい粘土材質みたいなのを使って自 分なりの思考の枠組をお手製で用意することがままあるんだけど、そういう思考を母体にして何かを口にしたときに、「天然ボケ」って指摘されることが多かっ た気がする。…ってまどろっこしいけど意味伝わりますかね。
時として、容易には理解できないことを熱く語ったり、突拍子もないことを口走ったりと変な反応を返すことがあるわけだけど、一生懸命その発言の背景を説明 すると、だいたい「まぁわからなくはない」というところまではいってもらえる。だから、変なこと言ってたら、(時間がある時だけでもいいから)ひいていか ないで「その心は?」ってつっこんでください。きっと分かり合えるから!
あと、天然モノは鍛え抜かれた養殖モノと違って欲しいところでボケられないので、「これでボケてみろ」と突然大喜利をふらないでください。その辺誤解されやすいとこだけど、欲しいところで狙ってボケる技はもってませんから!
今月も、コラムをどうにか書き上げました。いやぁ、大変だった。いつもそうだけど、今回は本当に究極的でした。実は今月のコラムを書くのにほぼまる一冊 ノートを消耗していて、テーマを変え切り口を変え、もう本当に何十枚も文章を書いたのでした。それでも全然どこにも着地できなくて途方に暮れ、おまえはな んてバカなんだと…(泣)。
そして、こう文章をたくさん書くと一般に陥りやすいのが、以前書いた文章と最近書いた文章を無理やりくっつけて使いまわそうとするってので、これやると、 つぎはぎの文章になっちゃったり、その過酷な道中がにじみ出てへとへとな文章になっちゃったり。それだけはやっちゃいかん!とは認識しているので、すると 余計に毎回一から書き直してはあーだこーだになっていきまして。
で、どうにか最後まで書き終えたときも、これは書き終えたといえるのであろうかとまったく自分の判断がきかなくって、だからこそもう開き直って出してみるほかなかったわけですが、ものすっごい恥ずかしさと不安を抱えながら納品したのでした。
で結局、編集を担当いただいている(私が絶大なる信頼をおいている)お方に、そのままOKをいただけたので、お返事メールを読んで「胸をなでおろすとはこういうことだなぁ」と感じ入りながら、ほぉっとしている今。
そんなわけで、そんな裏事情を笑いつつ、お楽しみください。今月は「関連づけるチカラ」というテーマです。
私の夏休みは確かに先週一週間で終わっているんだけど、今週ごくフツーの週末に千葉に帰ってきました。一泊二日です。そんなあわただしく24時間未満で東京に戻るようなことしないで、夏休み中に帰っておけばよかったじゃないのって本当にそのとおりなんですが(それも特別な予定もなく家にこもっていただけだし…)、なんだか気を失って、もとい機を失ってしまって帰れずじまいだったんですよね。
といって夏のうちにまったく帰らないというのもどうなの…ということで、なかば無理やり帰ってきました。いつも会社に通っているカバンで、もちろん中身もそのまま仕事道具、あれもやらなきゃ、これもやっとかなきゃと。まぁ、本当にこれだと出勤スタイルそのものです。
というのもまたどうなのか…ということで、格好をジーンズとTシャツにしてみました。最近5年ぶりくらいでジーンズを買ったんですよね。その前に買ったのはもう10数年前のことかなぁ。10数年前はほぼ毎日ジーンズはいてたんだけど、その後本当に長いこと平日も休日もさして変化のない仕事服できてしまっていたので、母も私のジーンズ姿など忘れてしまっていて、第一声「あなたがジーンズはいてるの初めて見たわ」と言っていました。Tシャツはひそかにやぶれてるし(決しておしゃれな意味でなく)、それも今日着てたのも明日着る用のもで、なんというか気合いなさすぎの格好です。
また今日は日中、もう何年ぶりかの再会で、学生時代の友だちと、そのうちの一人のお宅におじゃましていたので(4歳の女の子のママをしながら立派に生活を営んでいて私と大違い…)、夕暮れどきまで皆でおしゃべりして、その後の帰省。19時くらいに家に着いて、ごくフツーに晩ごはん食べつつ小一時間母とおしゃべりし、ごくフツーに晩酌をする父と小一時間おしゃべりし、ごくフツーに24時間テレビをぼーっと観賞と過ごし方も気合いなし。
が、30分ほどしたらなんだかテレビを観ていることにうんざりしてきてしまって、お風呂に退避。もともとテレビっこだったので、その感覚が自分でも信じられなかったんだけど、もう10年くらいテレビのない生活を送ってきて、なのに24時間テレビは10年前とおんなじセリフをしゃべってる気がするなぁという感じが、なんか苦くて渋くて観続けられなかったというか。毎年観ていれば、それはそれで風物詩的に変わらないことを楽しめたのかもしれないんだけど。まぁ、そんな感じで、ゆるい帰省中です。ただのつぶやきエントリー。なのが夏休みっぽい。
じゃーん!ドレスお披露目。過去、私がこれだけ思い切った格好をしたことがあったでしょうか。いや、ない。というわけで、(超個人的に)歴史的なポートレートです。身体がごついので、出す時は思い切りわっさーと出しちゃった方がまだ見られるってやつですね…。
それはさておき、どうですか!このドレス。素敵でしょう、一目ぼれするわけですよ、こりゃ。衝動買いしちゃうわけですよ、これじゃ。で結局、いまだに一度も日の目を見ていないわけですが…。いつか、いつの日か、そんな予定も入りましょう。人生は長い。うむ。
背景が「THE 家」なのもいとをかし(笑)。ということで、リアル世界で日の目を見るまで、このかわいそうなドレスをどうか皆さんで見てやってください。このコもまぁ私に買われたばっかりに、不憫なコだよ。
夏休みの終わりは、急きょ友だちのとこに遊びにいって被写体になってきた。知り合ってそう長くないんだけど、昔の思い出を共有しているいとこみたいな感じがする友だちがいて、その 人が、以前買った(あの着るあてのない)白いドレスの写真を撮ってくれるというので、ドレス持参で遊びにいってきたのだ。
ああいうふうにきちんと写真を撮ってもらうのは初めてで、またそもそも私は写真を撮られるのが苦手で、普段は極力カメラの視線からはずれる傾向にあるのだけど……。
今回そんなことを気にもとめず、「わーい、じゃあ撮って撮ってー」と無邪気に思えたのは、やっぱりこの友だちが声をかけてくれたからなんだろうなぁと思う。どうもありがとう。たくさんおしゃべりもしたし、楽しかったね。良い夏休みのしめくくりとなりました。
データをもらったら、いくつかこちらでも紹介させてもらおうと思っていますので、こうご期待。実物よりきれいにとってくれているはずなので、私もわくわくします。我が家の家宝に。
※追記:先行してこちら。横と後ろだとほっとする……。
「私の使う言葉辞典」には、あまり攻撃性の高い言葉は載っけないように編纂しているのでありますが、今回ばかりはもう我慢ならず一時的に編みこみまして、思い切り蹴っ飛ばしてやりました、という気分です。
夏休みに入ってからというもの基本的にずーっと落っこちてましてですね、頭の中と心の中が勝手にひとりでにずーっとずーっとしゃべってるんですよね。寝て も覚めても泳いでも。時に論理的に、時に感情的に。もういい加減うざいわーというわけなんですけれども、考えるというのは私の悪癖のようなもので、ある種 制御がきかない、不毛だなぁと思いつつも思考停止できないまま1週間ほどきてしまったわけです。全然夏休みじゃないっ!へとへとです。
それでとうとう(というか登場が遅すぎるんですが)普段は奥まったところでテキトーに過ごしている怠け者の格闘系小人が出てきまして、あーだ言ってる小人 と、こーだ言ってる小人と引っつかまえて、キックしてチョップして、「おまぃら、あーだこーだいつまでもうるさいんじゃー」と一気にやっつけていきまし た。ようやっと今朝になって。
キックしてチョップしてって戦い方が相当古いと思うんですが、なにぶん私の中の小人相手なので余裕で勝てます。が、打たれ弱く立ち直りが早いのは私の中の 小人に共通した性質だと思われ、倒したと思ったらぐんぐんぐんぐんって大きくなって復活してって例のあれ(5人組のヒーローもので、敵がいつもやってたや つ)をされないかと非常に心配です。気が抜けません。
とにかくここ数日、「朝まで生テレビ」が休みなく延々1週間頭の中で繰り広げられている感じで辟易していたんですが、連日の猛暑で今日は35度とも37度 ともいうので、「もういい加減うんざりなんじゃー」という状態に達しました。この笑っちゃうような暑さ(実際外に出て、あまりの暑さに吹きだしてしまいま した……)に救われたという稀有な存在かもしれません、私。
もう月曜からは会社復帰だし、土日がっつり生き返って、男気あふれる人間として復活を遂げたいと思います。押忍っ。
今手元に新品のMacBookがあるわけですが、一応OSの基本的な復習とちょっとした新しい機能の学習をしてみました。ある人からは、漢字Talk7 (私が90年代に使っていたMacのバージョン)からOS Xなんて、チンパンジーからホモサピエンス並みの飛躍だと言われました。私、チンパンジー……。
それはいいとして、思うんですけど、OSの操作って、人の手元をみてふんふんと盗み真似ぶ機会もないですし、またOSの作り手としても学ばなくても感覚的に使えるインターフェイスを目指しているわけなので、学習せずともある程度使えてしまうんだと思うんですよね。
ただ、そこには落とし穴があって、一度知ってしまえば能率的なことこの上ないというものを知らないまま延々非効率に操作し続けることにもなってしまう。私 は(あくまで自分の好みの問題ですが)そういう状態にはまるより、一番最初に基本的なところを押さえる時間をもって、長い目でみたときに能率的なやり方を 選びたい性質なので、OSの入門書にざっと目を通してみた次第です。
そういうとこ、良くも悪くも真面目くさいって性格がよく出てるなぁと思います。この話を同僚に説明していて、しみじみそう思いました。
でもそのOS独自のショートカットを知らないと、使用頻度によっては相当非効率になってしまうし、また何か問題が起こったときにも中の構造を理解していな いと原因も検討しようがなくて簡単なトラブルでもお手上げ状態になっちゃうってもったいないし。実際自分ではどうしようもない場合でも、例えば誰かに診て もらった結果を聞いて、なるほどそこがそうなっていてだめになっていたのかと理解できるようではありたいわけで。
まぁこの手のものにはいつも中途半端な目標設定を掲げる私ですが、足元を固める、足元だけ固める……ということで、特にOSなんて足場固めの領域なので、 今回もまたベーシックなところを(だけ)押さえて仲良くしていきたいと思います。あと、IllustratorでAdobeと仲良くなってみようとしてい ます。
一人でふらっと映画を観てきました。3年前くらいに原作を読んだ「夕凪の街 桜の国」という映画。意図してそうなったわけではないのですが、レディースデーで1000円でした。んなことはどうでもよくて、この映画、全人類に観てほしいと思いました。
戦争とか原爆ってものがどういうものなのか、頭でもなく心でもなく、人の肌感覚に届けてくれる映画だと思います。中ほどに出てきた深すぎるセリフが、実は 数年前に個人的に頭に浮かべた言葉とほぼ同じもので、それがまた重なってだいぶ深いところに突き刺さる映画でもありました。
映画を批評できる目など一切もっていないけど(たいていの映画は監督の思い通りに号泣する私)、ストーリー性も豊かで俳優さんの声も心にしみいってきて、テーマを別にしても感情を揺さぶる映画なんじゃないかとも思います。
で、今回の映画ももうずっとボロボロ泣き続けてみていたのですが、「泣ける映画」とかそんな形容はまったくしたくないわけで、泣けようが泣けまいがとにか く観るべき映画だ!と強く皆さんに薦めたい映画です。私たちが引き継いでいかなきゃいけないのは、たぶん、戦争がもたらすモノの、この肌感覚的な理解なん じゃないかと思います。
MacBook買っちゃった。一番安いの。って139,800円なんですねぇ。驚き。それが、ちょうど数日前から、会社がAppleと提携したとかでMacBookは6%割引で購入できるようになり、さらに131,412円に。
生活力に欠ける自由人なので、優待割引にすることですぐ手に入らないくらいなら(火曜に到着)、決断したが吉日、直営店に行って定価で買ってこようかと思っちゃいましたが、いろいろ妄想の結果、踏みとどまりました。
なんというか、会社が先方と提携関係をもったばかりなので、そこからそう日が経たないうちにMacBookとかそれなりの金額のものがきちんと売れていくと、提携にあたって諸々準備した人とか、やっぱり嬉しいんじゃないかと。
自分がやった仕事を、実績をもって有意義に感じられるのってすばらしい機会だと思うし、こういうことで双方から仲良くなって良かったなぁって気持ちが湧い て出てきたら、それって少し地球の空気を健やかにする気がするでしょ。そういうのに多少なりとも貢献できるかもしれないって考えると、なんか幸せな気分に なるじゃないですか。
って妄想が始まってしまい、そういう可能性を私の身勝手な「今すぐ欲しい」衝動で軽率になくしちゃならん、と。んなの誰も気にしないかもしれないけど。まぁプラスの可能性は(妄想に過ぎていても)大切にしたい性分でして。
で、結局MacBookは次の火曜日に届く予定。Macは96~98年頃に職場で使っていたんだけど、以来ご無沙汰。だいぶ様変わりしているようなので、 ひとまずOSの勉強をしながら火曜の到着を待ちます。やっぱりね、OSの理解をしてお迎えするのが心温かい礼儀作法ではないかと思うのですよ。それも即 購入を踏みとどまった理由の一つ。
親戚のおばちゃんが、久々夏休みに遊びにやってくる甥っ子、姪っ子を迎えるにあたって、あの子らは何が好きだったかしらねぇと思い出しながらお出かけする プランを練ったり献立を考えたりするのと同じような心持ちです。あやしいですか、そうですか、そうですね。まぁ、いいじゃないですか。予習、復習。
さて、持ち帰りの仕事以外まったくノープランの夏休みが始まってしまった(持ち帰り仕事プランはたくさん……)。昨晩は21時過ぎ、もう動けん!とけりを つけてカバンに仕事を詰め込み会社を後に。で、会社を出れば一応公式上は夏期休暇突入ということで、なんというか、ちょっとネジがゆるんでしまったのか、 ここのとこ相当忙しくしていた反動なのか、帰り道で一気におっこちてしまった。ジェットコースターで一番上から急降下するがごとく。
気が抜けたという表現も実情にそぐわないし、精神的に云々かんぬんというあれでもない。どちらかというと頭は過剰に動いていて姿もまぁしっかりしているの だけど、自分に対する超劣等感モードに切り替わってしまったというか。そこ問いだしても何もすばらしい答えなんて出てこないよというところを自問自答し出 してしまい。で、結局今回もすばらしい答えは待っておらず、日々精進して頑張るほかないじゃないか、という身も蓋もない話に行き着いた。
極論すれば自分が動かせる相手なんて自分だけなわけで(見た目上の無理やりな取り繕いは私にとって無価値なので対象外)、自分以外の、ヒトもモノもコトも 環境も、結局はなるようにしかならないわけで。そこで自分は自分のやるべきことをこつこつやって、あとは自然の流れに任せて、それで流れ着いたところが、 自分の望むと望まざるとに関わらず、実際全体を見渡したときにたどりつくべき場所なんだろう、と。今朝目覚めたら、ここに着いていた。
まぁ、それを指針にしても、実際自分のやるべきことややりたいことをこつこつやるって難しくて、これはそれ?って見極めるのに苦労する。やろうとすると、 それが何をもって「自分は自分のやるべきことをこつこつやっていて」「人様には過度な負担や迷惑がかかっていない」を両立できているといえるのか、また自 分以外のヒト、モノ、コト、環境にも有意義といえるのか、そんなことが気にかかってきて、行動を躊躇したりもする。
行動を起こす現場には現場の、また別の難しさがある。でもまぁ昭和の人間は「やるっきゃない」「なるようにしかならん」なわけで(と勝手に)、何 をやって何をやらないか「よくかんで考える」を繰り返すうち、見極めの精度もあがるだろうというオールドソリューションで。
一週間で元に戻るために、昨晩のうちに早々底におっこちておいたってことなのかなぁ。そういえば会社のお姉さんも昨日お手洗いで言ってた。客先に行く予定 のない社内打ち合わせだけの日を選んで具合が悪くなるって。大人になると、いろんな調整が体内で無自覚に働くようになるもんなのねぇ。私の中の人もいろい ろ頑張ってるんだ。外の人も一緒に頑張らないと。
「デザイン」という概念は、日本語においては「意匠」という意味で解釈されることが多いのではないだろうか。しかし、ビジネスのコンテクストでの解釈は「設計」が妥当である。
というのに深く納得。「Think!」SUMMER 2007 No.22(東洋経済新報社)で、マッキンゼー・アンド・カンパニーの菅原章氏が書いている。この一文が文章の書き出しっていうのがしびれます。
とは別に、私の中ではすっかり「デザイン=設計」って解釈になっていたのだけど、これを受けて、「デザイン」の解釈が「意匠」から「設計」に移行したってものでもないんだろうなって思い直す契機にもなった。
「意匠」的な解釈はそのまましっかりあり続けている。でも「意匠」とは距離感のあるビジネス社会でも「○○デザイン」という言葉が多用されるようになって いって、それにしっくりいくような「設計」という、これまでとは趣きの異なる解釈も持つようになったって感じかなと思い直した。つまり、「デザイン」の解 釈が変わったのではなく、より多義的になったってことかなと。
「design」としてはもともと持っていたのかもしれないけど、「デザイン」としての解釈の広がりは結構最近のことではないかと勝手に思ってみたりした のだけど、そろそろこの辺りであなた何言ってるのかさっぱりわからないわよってな独りよがり文章になっている可能性あり。
なので、追加で引用して締めることに。異論反論も生みやすい言い回しだけど、俯瞰的な視点でそれの守備範囲を捉えておく意識は大事だと思うのだ。
Createという「基礎」の概念の上に、Developという「応用」の概念の層があり、さらにその最上層にDesignという「超応用=最適化」の 概念があると考えるとわかりやすい。製造業での事例でいうと、Createは画期的な新素材の研究、Developはそれを活用した新製品の開発であり、 Designはその新製品を顧客にどう使わせるかという仕掛け作りに相当するといってもよい。
デザイン思考というのは、思考のレイヤーでいうと一番上の層であり、本質的な事象の構造を変えるような思考ではない、という点を忘れないことである。本 質はやはり下層にあるCreateやDevelopであり、Designとは最も表層レイヤーの小手先的な業である。非常に効果は高いがそれがすべてだと 思ってしまってはいけないのである。
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