痛みの音量
「ナゲキバト」を読んだ。にわかに仕事が積みあがってきて、今夏私はどうなってしまうんだろうか……と思ったら、反動で昨日は定時過ぎに会社を後にし、仕事とまったく関係ない物語を読みふけってしまった(次週の私に期待)。
両親を事故でなくした少年がおじいちゃんに引き取られて過ごす、春からクリスマスまでのお話。後半に進むにつれ、お話もドラマティックに展開。何より、おじいちゃんの少年に語りかける言葉の一つひとつが胸に染み入ってくる。
ある日、少年がおじいちゃんと釣りに行った時のこと。少年が「魚って、捕まえられると痛いの?」と尋ねると、おじいちゃんはこう返す。「わしら人間は、苦しんでいる者が出す音の量で苦しみの量をはかるんだね。もしも魚が痛がって泣き叫ぶとしたら、釣りをする人間の数はずっとへるだろう」
だまっている人の痛みは、なかなか人に伝わらない。だけど、黙して苦しんだことがある人なら誰しも、その人が発する音の量が、そのままその人の苦しみの量を表すものではないことを知っているわけで、つまり世の中の多くの人はそのことを知っているのだと思う。だけどやっぱり、だまっている人の痛みを察してあげるのって実際には難しい。
「黙っているんだから伝わらなくても仕方ない」という見方もあるだろうし、実際自分が黙する側であれば、黙っているのに人にわかってほしいと望むのは欲張りだと自分を律するのだけど、それでもやっぱり黙する人を前にした自分は、その人の気持ちに目を向けて音にならない苦しみの量を推し量れる人間でありたいと思う。
「ハニバル、人間は、あることをするか、しないか、自分でえらべるんだよ。どんなときでもね。だれかに、むりやりやらされるわけじゃない」という、おじいちゃんの言葉もある。これは私も日頃から意識していること。上の話で言えば、あえて黙っていることを選んでいる人だっているわけで、そういう人の思いに寄り添える人でありたい。
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